16 : 王子の独白
初めて彼女に会った時、彼女は聖女でもなんでもなく。まるで猛獣を前に警戒を露わにするただの少女であった。
魔法陣に乗り込む前も乗り込んだ時も、厳しく指定した条件づけによりこの魔法陣が発動することはないと、私を含めたその場にいる誰もが思っていたに違いない。
術が発動されず、聖女を迎えられなかった不始末の責任を私が被り、王城から追い出される為だけの儀式だったのだ。
目の上のたんこぶに、無能と言う冠を与えるのにちょうどいい機会。それを知っていながら、私は魔法陣に乗り込んだ。
知と武、加えて魔の才に秀で、前線に追いやっても帰ってくる第三王子という身分を持つ自分が、どれほどの人間に煙たがられているのか十分に理解していた。
それゆえ、私は疲れていた。幼いころから、有無を言わさず面倒なことにばかり巻き込まれるこの血に。これで晴れて臣籍降下出来るのなら、願ったり叶ったりだと思えた。
その為、私は聖女降臨の任を快く引き受けた。成功すれば僥倖、成功せずとも障りはない。危機は切り抜けるだけの自信があった。そして挑むようにして乗り込んだ魔法陣が、誰もが予期しなかった光を伴い発動した。
私が常世に降り立った時、その場にいた人物はぐっすりと眠っていた。あれほど、聖女など実在するはずがないと思っていたのに、その人物を認めた瞬間に聖女に違いないと強く感じた。
現世に生きる人間とは、流れる魔力の渦が違ったのだ。奇妙な程に彼女の中の魔力はしんと鳴りを潜め、ひどく清閑だった。
この魔力の流れを持って聖女と判断したのだが、のちにこの常世に生きるもの全てがこのように―――まるで魔力が存在しないように静かなのだと知ることとなる。
規則正しく聞こえる寝息に、聖女も睡眠を取るのかと不思議に思ったものだ。声をかけていいものかどうか迷ったが、常世と現世で同じ時間が流れているという確証はなかった。この逡巡が世界の命運を分けるかもしれないと思うと、いてもたってもいられなくなり無作法にも声をかけた。それが、あんなにも衝撃的な出会いになるとは思わずに。
彼女は突然現れた自分を、明らかに不審者のように扱った。諦めたように話を聞く彼女は一貫して、信じていないような信じているような曖昧な態度だった。それでも血を分ける姉の無念を知った時には、自分の話をほんの少しばかり信じたのだろう。声を張り上げ、怒りの感情を隠そうとはしなかった。
聖女の逆鱗に触れる。それは女神信教を長い間国教にしてきたアルフォンスにとって、無数の刃よりも恐れるものであった。
自らを聖女ではないと断言する彼女は、しかしアルフォンスにとっては聖女と同じ常世に住む存在、天上の人だということに他ならない。彼女の存在そのものが、アルフォンスにとっては聖女に等しかったのだ。
そのことを知ってか知らずかアルフォンスに呪いの言葉を投げつける。アルフォンスはその言葉に、世界が崩れゆく様を鮮明に思い描かされた。
聖女の荒れ狂う姿に、突きつけられた矛のような言葉に、呆然としている間に締め出されていることに気付いた。
屋敷を追い出されたことなど、これまでの人生で一度も体験したことがなかった。
幼少の頃に王都は追われたが、それだけだ。自分には住むべき館も用意され、靴も自分で履かなくて良いように幾人もの使用人たちが当然のように用意されていた。身一つで放り出され、知らない場所に佇むことがこれほどの恐怖を生み出すとは思ってもいなかった。
まるで捨てられるかのように押しやられた常世の世界は、現世で想像されるどんなものも及びつかない恐怖の塊で、まるで冥府のような世界であった。
魔法の力も感じないのに明るく照らす光。馬よりも早く、風のようにきっていく鉄の塊。その塊の放つ光を最初に見た時、敵襲だと感じたほどであった。光の魔法を身に受けたと思い咄嗟に反撃しようとしたが、魔法は発動しなかった。呆然とするアルフォンスなど気にもしていないかのように、その鉄の塊はアルフォンスを素通りしていった。
拍子抜けし、腰も抜けそうになった。星よりも月よりも明るい頭上できらめく灯りは、アルフォンスの弱弱しい姿をはっきりと映し出していた。
今のは何かの間違いだったのだ。
アルフォンスは手足のように自在に動かせる魔法を、今一度発動させようと手の平を開いた。しかし、いつもならすぐに集まる魔力が一切流れてこなかった。慌てたアルフォンスは、呪文も唱えてみた。しかし、まるで魔力が集まらない。初歩中の初歩、逆にひどく難しい魔法、いつも使う馴染んだ魔法。たくさんの魔法を片っ端から試してみたが、何一つ魔法は作動しなかった。
その心細さと言ったら、無い。
魔法使いにとって魔法を使うことは既に日常である。ペンを持てば文字を書き、花があれば水をやり、寒ければ服を被る。それほど当たり前として備わっていた自身の一部が失われたこの衝撃を、なんと表せばいいのかアルフォンスにはわからなかった。
夜なのに明るく、騒音さえする世界に、魔法も使えない非力な自分が一人でぽつんと立っていた。
頭上から明々と照らす光のせいで、細長く頼りない影が出来ている。
その影が今襲ってきたらどうしようかと思った時に、聖女の元へ行くのだからと外していた剣の存在を心から渇望した。
常世に、自分の知らない世界に怯えたアルフォンスは、一箇所に留まっていることが出来ずに、闇雲に歩を進めた。
魔法の条件付けは完璧だったはずだ。だとすれば、彼女は間違いなく聖女の縁者であろう。その者が、聖女は既に冥府に旅立っていると言った。100年もの遥か昔のことを、たった100年と述べた彼女に戦慄する。
時の流れが違っているのか、聖女の死亡に基づく年数については疑問が残ったままであったが、譲れぬ主張をお互い追及しても答えは出ないだろう。その答えはきっと、聖女のみがご存知なのだと感じた。
そして、聖女がすでに生き絶えていることが判明した今、私は一刻も早く帰還して魔王討伐に向けて動き出さなければならない。そもそもは、聖女の力など頼りにしてはいなかったのだ。その僥倖を持ってして、人々に希望を与えるという建前の、私に責任を負わすためだけの儀式。聖女を連れて帰れずとも、何の支障もなかった。あとは人の力で、やれるだけやるだけだからだ。
その為には早急に帰らなければならない。つまり、“魔王を倒す手段”を手に入れなければならなかった。だがそれも、魔法が使えない今では途方もない話だ。
魔法が使えなくなることなど、考えたこともなかった。こんな不安は、親元から引き剥がされた幼少の頃にすら感じたことがなかった。
“魔王を倒す手段”を得る為には、先ほどの彼女の協力が不可欠であった。自分は、あまりにもこの世界に適応していない。何とかして彼女の怒りを解き、懐柔しなければならない。その為に、自分に何ができるだろうかと必死に考えた。
夜中に共も連れず一人でうろついている不審な人物は、まずもって道徳的な理由を持たない。アルフォンスは光の魔法を強く放つ一人の男に詰問されていた。一人でうろついているのはお互い様だというのに、アルフォンスは心細さからか、男に対して警戒心を露わにしていた。
そんな男と対峙している時、聞くはずがないと思っていた声を聞いた。先ほど自分に呪いの言葉を吐き出していた声であった。
忘れるはずも、聞き間違えるはずもない。ずっと、その怒りをどうしたら鎮められるのか延々と考えていたのだから。
彼女は自らのリスクを顧みずに、姉の仇だと罵っていた自分を助けた。それが彼女にとってどれほど勇気のいるの行為だったのか、想像するしかない。それでも、その細い体を震わせながら、寒さを振り切り探し回ってくれたのだろうことがわかると、信じられないほど胸が疼いた。
その気高さに、これが聖女かと、戦慄した。
矮小な自分はその気高さに目を付けた。怒らせてしまった過去を帳消しにしてもらうほど気に入られなければ、協力は仰げないだろう。その為に、アルフォンスは生れてはじめて表情筋を動かすための努力をした。
王都から遠く離れた屋敷で、世間知らずなまま浮世離れな生活をしていたあの頃ならできなかったことも、少なからず世間で揉まれてきた今なら難なくこなせる気がした。任務の為なら、笑顔の一つや二つぐらいなんてことのないように思えたからだ。
幸いにして、模倣描写の参考になるような人物が身近にいた。同じ騎士団に所属していたコンラート・オズワルトである。彼はその花のような笑顔で人の警戒心を解き、鳥のような話術で人の心に入り込み、人との間にすんなり溶け込んだ。市井での聞き込み等でも重宝するその人格は非常に団にとって有能であった。アルフォンスは、それに倣った。
瞳を潤ませ、眉を下げ、出来るだけ悲痛な表情を浮かべた。声は怯えからと思わせるようにか細く震わせ、他に寄る辺が無いことを一身に訴える。
彼女が、弱い立場にある者は、姉の仇ですら放っておけないという気高さを利用したのだ。
そして彼女は、まさしく聖女であった。
素性も知れぬ、見知らぬ男を女性の一人住まいの部屋に再び招き、滞在を許したのだ。如何に惨めな男が懇願しようとも、現世では考えられないような事であった。アルフォンスは、深く聖女の御心に感謝した。聖女の妹であるはずの彼女は、既にアルフォンスの中で聖女として君臨していた。
アルフォンスは感銘を受けていた。
世界中の誰一人として自分の知っている人間がいない世界にか、見たこともない現象で溢れる世界にか、使えない魔法にか、自分は思っていた以上に神経をすり減らしていたらしい。そこで投げ掛けられた、貴族令嬢では絶対にありえないような乱暴でいて不器用な思い。言葉は粗野で、決して上品ではないのに、その粗暴さを持ってしても溢れんばかりの優しさに満ち溢れた真心。
見えない恐怖に固まっていた自分に差し込んできた光は、まるで“聖女伝説”の聖女そのもののように感じられたのだ。
耳触りのいい言葉や、身の無い優しさを装った言葉なら、アルフォンスは嫌と言うほど耳にしていた。
だけどこんな風に、不器用で荒く、素っ気なさを装いながらも一生懸命に優しさで包んでくれた女性はいなかった。
こんな風に乱暴な言葉の鎧を被り身を守り震えながら、他人に手を差し伸べることが出来る女性を、見たことが無かったのだ。
あまりの歓喜に身も心も震えた。我も忘れ、誰にも捧げることなく一生を終えようと思っていた“心”を、この常世にいる間だけでも渡そうとした。素気無く躱されてしまい、受け取ってもらうことは叶わなかったが、それにより一層自分の中で誓いとして存在することとなった。
14・5の少女にも、100年も生きた魔女の様にも見える黒い瞳と黒い髪を持つ魅惑的な彼女は、その名を呼ぶことを許してくれた。翠と名乗った彼女は信じられないことに学生だという。
聖女が学び舎に通うなど、聖女の養成でもしているのかと問うてみたら呆れたような目を向けられた。王子としてこの世に生を受け、魔法塔にも軍にも所属した経歴を持つ自分であるが、そんな目を向けてきたのは彼女が初めてだった。
翠様の傍にいるのは非常に緊張した。何よりも、赤子のように感情をその都度表に出さなければならないことが大変だった。
けれど、翠様は自分が表情を変えるとひどく安心することに気づいていた。子供のような喜怒哀楽のはっきりした様が魂胆を隠し、警戒心を薄めるのだろう。
そういう時、彼女は大雑把な物言いになる。それは気を許して言ってくれている証拠なのだと、コンラートの話術を傍で見ていた自分は知っていた。なので、どれほど翠様の感情に呑み込まれそうになっても、努めて表情筋の運動を怠らなかった。
翠様は時に教師の様に、時に上司の様に、時に彼女が言うところの母の様に、沢山のことを教えてくれた。
蝋燭への火の灯し方、花の水切りの仕方、箒の掃き方、雑巾の絞り方、文字の読み方、バターの溶かし方、箸の持ち方、茶碗の洗い方、靴下の履き方、湯船の浸かり方、彼女の好みのコーヒーの淹れ方。
軍に配属されていたとは言え、自分は最初から役持ちだった為にそういった雑務は従卒がこなしてくれていた。そのため、ここでの生活は初めてのことだらけだった。新しい生活は目新しいことばかりで、必死に生きていたら目まぐるしく日々が過ぎていっていた。
常世のものは、見たことがない物ばかりであった。世界中のどんな知恵者を集めても、発想すら浮かばなかった物達ばかりだろう。この狭い官舎のような部屋の中だけでも、これほどの素晴らしい代物が溢れているのだ。外に出れば、まだまだ沢山のカガクのケッシュウがあることだろう。
そして私は、“魔王を倒す手段”について彼女に相談した。彼女はその広い心を持って親身に相談に乗ってくれた。
―――そして彼女は、預言書を持って帰ってきた。
彼女が繰り広げる惨劇に、私はどれほどの寿命が縮んだかわからなかった。
目の前で、どう見ても自分に見える人間が何度も何度もその命を散らしている。そのあまりの映像の精密さに、私は幾度も目を逸らしたくなったが、王族が逃げることは許されない。私はそれに耐えた。
預言書などと言う胡散臭い物を手にしたことはなかったが、これは今まで自分が見聞きしたことのある預言書のどれよりも精巧に作られているに違いなかった。
余りにも繊細に描かれた絵が縦横無尽に動き回り、楽器もないのに音楽が流れた。声は本当に自分の声そっくりで、香りこそ感じないもののそれは現実を目の前にしていると言って良いようであった。
その時には“てれび”に慣れていた自分でさえ、そのあまりの精確さに目を見張ったものだった。
翠様としても何度も戦死するのは本意ではなかったらしく、危なっかしい駒の進め方を改めたいのだと言った。私では預言書に触ることが出来ないことがわかっていたので、その後は私の口頭により預言書を進めていくこととなった。あれほど苦戦していたのが嘘のようにすんなりと進んだ預言書に、この預言書はページを読み解く人間によって物語が変化することを知った。これから迎えるどんな結末も、決して見逃すことなく心に刻み、甘んじて受け入れようと誓った。
***
預言書は順調だった。しかし、こちらの生活に慣れてきていた油断が祟ったせいか、こんな時に熱を出してしまった。
日頃から鍛えていたため、こんな風に体のだるさを感じるのは久しぶりのことだった。小さなころは、こうして何度か熱を出していたような気がする。その度に屋敷中がバタバタと慌ただしくなり、自分の為に精の付く料理や温かい毛布が掻き集められていた。
だけど今は、知らない世界にたった一人きり。
その心細さは、じわじわとアルフォンスを侵食した。昼食は好きに食べていいと言われていたが、そんな気にもなれずに“こたつ”に潜り込み息を潜める。このまま息遣いさえもこの静けさにかき消されてしまったら、自分の存在など消えてしまいそうで怖かった。こんな、誰も自分を知らない場所で、まるで最初からいなかったかのように溶けて消えるなど、とても恐ろしいことのように思えた。
「アルフォンス?」
自分の名前を呼ぶ声に心が震えた。
自分のことをそう呼ぶ人間は、今は亡き母か、年単位で顔を合わすことのない父兄ぐらいしかいなかった。久しぶりに聞く、単なる自分の名前に、アルフォンスは胸が痺れた。常日頃から、軍の者に無表情だとか鉄仮面だとか言われていた顔が、本当の意味で解れていくのを感じてた。
眠りの淵から呼び覚ましたその声は、ひどくか細かった。けれど、私の元にしっかりと届いた。あぁ、自分のことを知ってくれている人がちゃんといた。不器用で意地っ張りで、決して本心を口にしてはくれないけれど、自分をきっと大事に思ってくれている人がいたのだ。アルフォンスはたったそれだけと思えるようなことが、およそ十数年ぶりに涙を流しそうなほど嬉しかった。
その彼女の傍にいる為にも、仕事をしなければと力の入らない体に鞭を打つ。優しい翠様は自分を問答無用で追い出しはしないだろうが、きっと迷惑だとは思うだろう。
彼女に疎まれることを想像するとひどく恐ろしかった。熱に苛まれている体がなんだと起き上がると、彼女が聞いたことが無いほど優しい声で囁きをくれた。本当に、聖女のようだと感じた。
それからのことはあまり記憶にない。彼女が本当に包み込むような優しさを与えてくれた。
彼女の優しさに包まれていると感じていたそれは、彼女の匂いが染みついた寝具であった。目が覚めて正気に戻った自分は小一時間頭を抱えてベッドの上で蹲っていた。
***
毎朝線香をあげる日課に違和感を感じなくなってきた頃、預言書の時間軸がついに現時点に到達した。
そこから先の出来事を、何一つ漏らすことなく覚えて帰らねばならない。ここから、現世に帰る手立てがわかるかもしれない。そう身構えていた私と翠様の期待を裏切るかのようなあっさりとした結末に、内心の動揺をうまく隠せているか自信がなかった。
この時間のことを、預言書は取るに足らないと判断したということだろうか。
だから何一つ記述すらなく、サラリと流されてしまったのだろうか。
常世にいる間も、私は成長し続けていた。前髪は少し目にかかるようになっていたし、爪も伸びていた。ということは、預言書に映る何一つ変わりのない自分を見る限り、そう長い間常世にいるわけではないらしい。
安心する気持ちの隅っこのところで、ほんの少しの落胆を覚える。この、今まで感じたこともないほどの緩やかで温かい時間は永久には続かないのだと、わかっていたのに、それが辛い。王族の責務を果たすものとして、そんな考えは一瞬でもチラつかせてはいけないと、必死に無理やりな理由をつけて心から追い出す。王族の責務など、自分が一番逃れたいと思っていたくせに。
成長期でもある自分の姿が全く変わらないほどの短い期間の間に、自分は帰ることになるらしい。預言書を読み解けたその時に、帰還の条件がそろうのかもしれない。
翠様に渡された国宝にも匹敵するほどの素晴らしさを誇る“のーと”と“しゃーぺん”を使い、自らの軌跡をしっかりと書き込んでいった。
気が付けば、彼女の前で表情を表すことに対して、何の抵抗も持ち合わせないようになっていた。
***
預言書は順調に開かれていく。
増えてゆく戦力、絆を深めていく仲間、与えられることはないと思っていた信頼、寄せることはないと思っていた期待。その全てを客観的に見ることが出来ずに、一つ一つ心に刺さっていく。
自分は、この仲間たちを、そしてあの世界でいつもの日常を平和に暮らす人々を守るためにも、この知識を持って帰らなければならない。
日に日に募る恋慕の情を、アルフォンスはしっかりと自覚するようになっていた。私は、一人の男として翠様を意識するようになっていたのだ。
心細さから、すり込みの様に慕っているのかもしれない。こんな風に対等に自分と話してくれる女性がいなかったからかもしれない。帰ってきて自分を見ると、嬉しそうに笑ってくれるからかもしれない。
その全てはありふれたものかもしれない。けれど、その全てが揃っている翠様を好きになった。同じ部屋の中で過ごすことを、意識しないように常に努めていなくてはならないほど気にかけるようになっていた。
彼女に気に入られるために浮かべていた笑みが、今は自分の心を隠すために浮かべるようになっている。
必死に笑みの中に感情と欲情を隠しながら翠様に平常心で接っするのは、16歳の若造であり恋愛初心者な自分にとって簡単なことではなかった。
その彼女が、いつもは『倹約・節約!』と現実の財布にも、預言書版の財布にも叫んでいるというのに、オーディンに対してだけその財布の紐が緩くなるのを感じた時のこの焦燥を何と表わしたらいいだろうか。
21歳と言えば、現世では子供の一人や二人、三人いてもいい年齢だ。16・7で嫁ぐのが当たり前の現世で、21歳の女性と言えば行き遅れだと呼ばれてしまうだろう。しかし、翠様はそのように感じていないようだった。“てれび”で得た情報では、常世の女性の適齢期は20代後半だというのだ。しかし、ここで一番驚いていたのは年齢ではない。
聖女も結婚できるのか。
だとすれば、どうすれば自分と彼女は結婚できるだろうか。そんな考えるだけしょうもないような、埒も明かないことを彼女がいない昼間に悶々と考える日々が続いた。彼女に自分の想いを打ち明けるようなことは考えられない。もし万が一にも、彼女が自分を受け入れてくれたら―――自分は現世に帰ることを放棄するだろう。それだけは、なんとしても阻止せねばならないと最後の矜持で踏ん張っていた。
そして、俗世に戻る可能性のある翠様が傾倒する相手が―――自分でも粗を探すのが難しいと感じる、討伐軍において片腕ともいえるオーディンであったのだ。
確かにオーディンは非常に頼りになる輩である。長年王太子殿下の近衛隊長を務めあげた実績は伊達ではなく、実戦に置いては言うまでもないにしろ、雑務処理や部下への対応、書類整理まで不自由なくこなしてみせた。
更に右に並ぶものがいないほどの愛妻家で、恐妻と恐れられている女房をそれはそれは大事にしていた。
そんなオーディンを重宝こそすれ疎ましく思うようになる日が来るなどと―――現世にいた頃には考えたことが無いような感情を思い知る。
女性は年上の男に弱いと聞く。特に、かように頼りになるオーディンともなれば致し方ないだろう。オーディンが好みの彼女に、5つも年下の自分は逆立ちしても恋愛対象には見てもらえないのかもしれない。
とりあえず、胃袋を掴むことには成功している。日々の家事も満足してもらっているはずだ。自分が帰っていなくなったことを、ほんの少しでも淋しいと、不便だと感じてもらえるように、毎日必死に働いた。
そんな時に、テレビで“ばれんたいんでー”の特集を見た。
好きな相手に想いを伝えるために“ちょこれーと”という甘味を渡す日。ポレアの花を結婚する相手に捧げる習慣と似ているなと、堅く絞った雑巾で床を拭きあげながらぼんやりと“てれび”を見ていた。
ポレアの花を彼女に捧げ、受け取ってもらえたらどれほど嬉しいだろうか。その髪に挿すことを許してもらえたら、どれほどの喜びだろうかと既に汚れ一つなくなった床を見下ろした。紹介されていた“ちょこれーと”の色とそっくりな床を見て、ふと思い浮かんだ。
そうだ、ポレアの花を捧げることは無理でも、“ちょこれーと”を巻き上げることは出来るのではないだろうか。
ここが軍師としての腕の見せどころではないかと、一計を講じた自分の策に見事はまってくれた翠様は、“ちょこれーと”を自分にくれた。しかもなんと、手作りであった。そこまで期待はしてはいなかっただが、これは本当に嬉しかった。
しかし、真逆の感情も生まれた。翠様は、本当に弱者に弱い。その習性は好ましいが、自分が帰った後のことを考えるとただひたすらに不安が募った。
***
珍しく翠様から禁止を食らったのは、彼女の名前を調べようとした時だった。
基本的に、彼女は自分になんでもやらせてくれる。“てれび”や“いんたーねっと”で情報を得ることも、商店街に買い物に出ることも、新しい料理にチャレンジすることも、注意はするようにと言われたが禁止されたことは、部屋に最初に訪れた時を除き、一度もなかった。
あの時も禁止されたことは、自分に手を出すなという当たり前のことであった。あのころは聖女として住む世界の違う尊きお方だという判断の元即答したが、今は違う意味で手を出せる気がしない。出してしまえば、現世に帰ることを諦めるか、マントの下に隠してでも彼女を連れ帰ることに奔走しただろう。そんなことを翠様が望んでいないことも、十二分にわかるほどには傍にいた。
そんな翠様が、絶対にダメだと珍しく告げたそれが、気にならなかったと言えば嘘になる。いいや、気になった。大いに、気になった。
しかし、私と翠様の関係は主に、翠様から私に対する信頼で成り立っている。この信頼を崩してしまえば、自分はすぐにでもこの部屋から追い出されるだろう。それもそのはずで、自分は彼女に何も差し出すことが出来ない、ギブアンドギブの関係だからだ。
富も名誉も、現世では頑張れば捧げることが出来るかもしれないものを、何一つ持っていない、ただの16歳のお荷物である自分。
そんな自分は、絶対に彼女を害さないと信じているからこそ傍に置いてもらっている。あまつさえ、お国事情に巻き込み、協力までしてもらっている。その感謝を無下にするような、今までの信頼関係を棒に振るようなことはしたくなかった。好奇心は王子をも簡単に殺してしまうとわかっていた。
そして、一生忘れられない日がやってくる。




