13 : 理由
「早乙女ー“かぼす”のベスト買ったんだって?貸してよ」
レポートの提出を終え、足早に門から出て行こうとしている私は背後から声をかけられた。
「久世…それどこ情報」
「カオリが言ってたかな?」
声をかけてきたのは幼馴染と言っていいのか迷う部類の男だった。小学校中学校は同じだが、高校は違う。そして何の因果か、地元から少し離れた場所にあるにも関わらず大学は同じになった。それからはグループで遊ぶときに割と頻繁に話をしている。かと言って、幼いころに特別親しかったかと言えばそうでもない。
久世とは家が近所なので毎朝登校班が同じだった。その為、小学校低学年のころは近所の子供たち全員で空き地でかくれんぼや缶蹴りをして遊んだこともあるが、2人きりで遊んだことはない。隣組に属する親同士も付き合いがあるので、運動会の時に一緒にお弁当を食べたりもしたが、高学年になってからは会話したかどうかも怪しいレベルだ。
近所に住む大して親しくもない男女なんて、概ねこのようなものだろう。
大学に入り、地元から少しばかり離れた場所で同郷の者に会って、懐かしさから一緒に遊ぶようになったが、やはりその程度の相手だったという認識だ。
だけど私は、こいつの秘密を知っていた。こいつも、私の秘密を知っていた。
「じゃあ久世は何貸してくれんの。ただじゃ嫌よ。」
つんとそっけなく言うと、久世は肩に掛けていたトートバックから一枚のCDを取り出した。
「これなーんだ。」
「…サノスケのアルバム。」
「好きでしょ」
にっこりと微笑むこいつの腹が探れずに、私はいつもこの笑顔に負ける。面と向かって勝てる気がしないからだ。
「…今日持ってないから、明日持ってくる。」
目の前に掲げられたCDを受け取ってしまえば、今日中にとごねられるかと思い、話はこれでおしまいと切り上げた。しかし久世の笑顔の迫力は凄まじく、私にCDを押し付けてくる。
「早乙女さぁ、最近付き合い悪いよね?」
「そういうのは元々社交的だった人に言って。」
「いやいや。前までだったら取りに行ってくれてたし?なんなら家までお供させていただきますけど?」
久世の言葉に、大慌てで首を振る。今の我が家にこいつを連れて帰るなど、論外もいいところだ。
「わかった。じゃあ取ってくるから。」
今日提出したレポートが最後のレポートだった。つまり、今日から私は自由の身だ。跳ね上がっているテンションのまま早く帰ってゲームをしたかったけど、この男からうまく逃げられる気がしない。ついてないなーと思いながら、大学を往復する面倒くささにため息が出る。
「僕が借りるんだし、一緒に取りに行くよ。そしたら早乙女が歩く距離、片道分減るでしょ」
「いやいいよっ持ってくるから」
「あっははははは!何遠慮してんの、今更」
「悪いじゃん。それに部屋片付いてないし!」
「あっはっはっはっは!早乙女が!部屋!片付いてないって!それマジで言ってる?ぷっ…前行ったとき、洗濯物どころか下着までそこら中に散らかってても気にもしてなかったくせに…!やばい笑うっ」
その言葉に、下着出しっぱなしだからなんていう言い訳も使えないことを悟った。恨むべきは、愚かしい過去の自分である。
ひーこら腹を抱えて笑う久世の頭を叩きたい衝動を何とか抑え込む。ぐっと拳を握って我慢してる隙をついて、久世が私の手を取った。そのまま強引に『さぁ行こうか』と歩き出す。
「まじで、今はやばいんだって!」
「わかったわかった。あーたまんない。」
必死の訴えも虚しく響く。未だに笑いの余韻を残しながら、強引に私を引きずっていくこの男の耳に入っているのかさえも怪しい。入っていたとしても確実に右から左に聞き流された言葉に、私は諦めてため息をついた。
***
「いーい?絶対ここにいてよ!まじで汚いから、ほんっとうに上がってこないでね!」
「さっきから何、面白すぎるんだけど。なになに?男でも来てるの?お兄さんが見てあげようか?」
「んなわけないでしょバカ!いい?ここにいないと貸さないからね!」
結局なす術もなく連行された我が家のアパートの前で、私は近所迷惑にならない程度に声を張り上げていた。どれほど大きな声を出したところで、この男に届いているかどうかは怪しいが、だからと言って言わないでいる訳にもいかなかった。
その様子を少し離れたところで見ている人物に気付いた。背格好からして男性だろう。こちらを見ていることはわかるが、顔が判断できないほどには遠くにいる。私はそんなに遠くにいる人物に聞こえるほど自分の声は大きかっただろうかと恥ずかしくなって大慌てでアパートの階段を駆け上った。
結局久世についてこられてしまったことにため息をつく。今日は早くからゲームをしようと思ってたのに。手を付けられなかった上に、こんなことにまでなって、厄日なのだろうかと再びため息が零れる。アルフォンスが無事に帰ったら、厄払いに行くべきかもしれない。
「ただいまー」
「おかえりなさい。外はまだ冷えましたか?」
項垂れたまま部屋に入った私は、やる気なく立ったまま足で靴を脱いだ。
「うん、ぼちぼち。えーと、どこに置いてたっけなぁ…」
「お行儀が―――」
「えっ、まじで連れ込んでる。あの早乙女が。」
いつも通りのお小言を聞き流そうとリビングへ向かう私の背中から、呆気にとられたような声が聞こえた。
「しかもおかえりって、同棲してる?」
振り返った男の顔を見て、息が止まるかと思った。ばれた、やばいと思った時には大慌てで玄関を閉めていた。これ以上他の人間にこの部屋にいるアルフォンスを見られるのはよくないと瞬時に感じたのだ。
「っ―――くぜっ!」
「しかも外国人?英語しゃべれたっけ?あ、君何歳?」
「数えで17となります。」
長身の久世は、土間に立っていてもアルフォンスを見下ろすような目線だった。その面白がっているような態度にも、突然の訪問者にも驚きもせずアルフォンスは対応する。
「ってことは16?ちょ、翠!犯罪だって!これは如何ともしがたいよ!」
人の目が無くなったからか、名前で呼び出した久世に、私も我慢の限界が来た。
「久世!!あんた下で待ってろって言ったでしょ!」
「あっはっはっはっは!待ってろと、言われて待てる、僕じゃない。字余り。しかし16かー…中々ショッキングだね。去年まで中学生だったんでしょ、君。なになに、あのメガネのおっさんの次は高校生?」
中々やるねぇと無邪気にはしゃいでいるこの男の言葉に、私の体がピクリと反応する。こいつに知られた、私の秘密。
大学に入学してすぐに、一人暮らしを心配した多野さんが何かと気にして会いに来てくれていたのだ。その時の私を見た久世にすぐに私の気持ちを見破られた。その時に私と多野さんの関係も話したが、こいつはお得意の右から左で聞き流した。
それから久世は、多野さんを何かと目の仇にする。
「そんなんじゃないって言ってるでしょ!もうまじであんた帰んなさいよ!あ、ちょ、勝手に上がるな!」
「わぁ何、なになになに。どういうこと。部屋、めっちゃ綺麗じゃん。何、翠ってばこの子に片付けまでさせてるの?16才でヒモはお兄さん関心しないなぁ~」
「ほんっとういい加減にしなさいよ!それ以上失礼なこと言うんだったら、本当に叩き出すから!」
「はいはい。あ、ラッキー。食べ物入ってる。」
あまりにも身勝手な久世の行動は、いつもならそんなに気にならない程度のことだった。勝手に家に上がられるのも、冷蔵庫を開けられるのも、気にしなければなんてことはない日常だ。だけど、今私は誰がどう見ても嫌がっているし、アルフォンスだっている。こんなに失礼千万なやつだっただろうかと、どんどん私の機嫌は悪くなっていく。
「スボラ代表の翠が?まさか、料理までその子にさせてるの?」
その失礼な言動に(全く持って事実であるが)我慢ならなくなった私は、拳を震わせた。
「もう勘弁ならない。久世、あんた―――」
「ねぇねぇあれ作ってないの?卵焼き」
その言葉に、私の怒りは一瞬の内に氷解した。
不意に勢いを削がれ動かなくなった私を見て、今まで静観していたアルフォンスが動いた。
「翠様、こちらは国家権力に与する方でしょうか?」
「え?違うけど…あ」
私がこれだけいいようにされているのに、アルフォンスが静観していることは言い争っている間中ずっと不思議だった。けれど、アルフォンスに助けを求める暇もないほどの傍若無人っぷりに、そこまで考えが及ばなかった。
アルフォンスは、以前私が『国家権力に楯突くな』と言ったことを覚えていて、見極めようとしてくれていたのだろう。我が国ではこのように横暴な家宅捜査は近年問題になるであろう行動だが、ウツシヨではこれが普通なのかもしれない。その為、アルフォンスはどうするべきか考えながら見守っていたのだろう。
アルフォンスが疑うのも無理はない。私もアルフォンスが着てきたピカピカ衣装と宝塚の衣装の違いなど、隣に置いて見比べないと分からないだろう。それだけ、見慣れない服と言うのは区別がつきにくいものだ。ミリタリー風のジャケットを羽織った年若い久世が、あの時の警察官と被って見えても不思議はなかった。
私の言葉を聞いたアルフォンスは、私に一度安心させるように微笑むとスッと表情をなくした。そのまま冷蔵庫の中を物色している久世のほうに大股で歩いていく。
今まで感じたことがないほど、アルフォンスを恐れた。
今まで私はアルフォンスのことを怖いと思ったことなど一度もなかった。あんな奇天烈な登場をした時も、勢いのまま怒鳴りつけた時も、男女が逆転しているだろうが私がベッドに押し倒した時も。アルフォンスはずっと私に対して怒気を表したことは一度もなかった。だけど今それが、空気の震えで如実にわかった。
アルフォンスは、久世を排除しようとしている。
「待ーーって待って待って!アルフォンス!いいから、待って!」
大慌てでアルフォンスの腕を引き、私に向き直させた。アルフォンスは呆気にとられたかのように私を見下ろしている。呑気にもまだ冷蔵庫の中を見ていた久世が、私の大声を聞いて振り返る。その手には、ラップに包まれた卵焼きが載っていた。
「悪いけど、プリンが食べたくなったの。大至急。スーパーで買ってきて。あの上に焼き目がついてるやつね。コンビニじゃ駄目よ、高いから。」
「…翠様」
私が、アルフォンスを追い出そうとしていることに気付いたのか、私を見下ろす瞳は揺れ、声は力無かった。
「ぶはっ、ちょっサマって、まじで?あっはっはっはっは!!翠ってば、さっきからどんだけ笑わせてくれれば気が済むの。SM好きだったっけ?そういうプレイはまってるの?」
「まじだまれオオバカアホクソクゼ。名前で呼ぶぞ。」
今まで何を言っても黙らなかった男が、ぴたりと口を噤んだ。この好機を逃すまいと、私は自分の鞄から財布を取り出してアルフォンスに押し付ける。
「アルフォンスの好きなのも買ってきていいから。あれ。サクっとなるチョコレート。好きだったでしょ?あれも買っておいで」
「ぷっ子供のお遣いみたい」
ぼそりと呟いた久世を睨みつけると、大慌てで口元に手をやって再び黙った。
「ごめんねアルフォンス。どうしても食べたいの。買ってきてくれる?」
私の言葉に、アルフォンスは笑っていた。目を細め、口角を上げ。だが、それだけだ。追い出そうとしていることに対して怒っているのだとは分かっていても、どうしようもなかった。
***
「あーあ。見てみなよ、あの後姿。捨てられた子犬みたいだよ。」
「それをあんたが言うか。あんたが。」
アルフォンスが出て行ったアパートの窓から、久世がアルフォンスの姿を見下ろして笑っている。
「さすがに君に外人って、似合わないねー」
「あのね、本当に違うってば。訳あって預かってるだけ。思春期の子に恥ずかしい思いさせないでよ」
「恥ずかしい思いさせてるのは僕じゃないと思うけどね…ま、翠にその気がなくっても、あっちはその気っぽいけどねぇ」
そりゃ、大家ですから。とは言えない。アルフォンスが私を気にかけるのは、ほんのちょっとの好意と家主への気遣いからだということはわかっていた。久世の軽口に応えずに台所へ行く私の後ろから、久世の驚いた声が聞こえる。
「ぎゃっ!!ちょ、翠!味ちがうんだけど!!!」
「私が作ったんじゃないからね。」
勝手に冷蔵庫を漁って取り出した卵焼きを食べたのだろう久世の悲鳴に、いい気味だと鼻で笑う。私のアルフォンスの卵焼きを勝手に食った罰だ。
大慌てして水で口をゆすごうとしている久世に多少の溜飲が下がり、冷蔵庫を開けて卵を取り出した。砂糖とみりんを取り出して、卵焼きを作るのにちょうどいいサイズのボウルを吊戸棚から引っ張り出す。
「何翠、本気で高校生に料理作らせてるわけ?!見損なったよこのズボラ代表干物女!何させてるのいい大人がっ」
「ほんっとうにねそれは私も思ってる!けどそれ以上調子に乗ったらアスカって大学でも呼ぶから!!」
その言葉に、再び久世はピタリと口を噤んだ。この魔法の言葉は、ここぞという時にしか使えない。あまり乱用していると、私がただの脅しで使っているとばれてしまうのだ。
この男は、飛鳥という名前を嫌う。『いい名前じゃん』などと諭そうとすれば最後。諭した時間の10倍もの時間をこの男にネチネチネチネチと拘束されることになる。単に、この男と同じ小学校の同学年に、明日香ちゃんと、亜朱華ちゃんと、明日佳ちゃんと、愛寿花ちゃんがいたという、そんなだけの理由である。しかし、ナイーブな小学生の心を傷つけるには、十分だったのかもしれない。
何事にも流行廃りがあるように、その当時大人気の名前だったのだろう。確かに私もあの頃、アスカと聞いて先に思い浮かぶのは男ではなく女だった。
久世飛鳥は、自分が名前で呼ばれたくない為に、私のことを人前では苗字で呼ぶ。だけど、実はその苗字すら呼びたくないことを、私は知っていた。いや、知っているつもりだった。さっきのあの言葉を聞くまでは。
名前に関する無茶ないじりを、出来るだけ私はやりたくない。お姉ちゃんを見て育ったからだ。そしてそんなお姉ちゃんを見ていた久世こと飛鳥はいつしか。
「お線香、あげにきたんでしょ。そこにいるから、挨拶してきなさいよ。その間に卵焼き、作っててあげるから。」
卵焼きは、姉の得意料理だった。
9つ上の姉は、私からしてみればもう一人のお母さんのような存在だった。その為、姉を慕うような気持でなく、母に甘えるような態度になりついつい口が過ぎてしまっていた。
そんな可愛くない私にも、姉は溢れんばかりの愛情を注いでくれた。生意気な妹でも、年の離れた幼い子は可愛かったのだろう。姉の得意料理の、砂糖をこれでもかと言うほど使った甘いプリンのような卵焼きを、遠足や運動会の時は必ずお弁当に添えてくれていた。
久世は、必ずその卵焼きを狙ってきた。姉の卵焼きが大好きだった私は弁当の蓋を盾に必死に戦ったが、奴の箸さばきに勝てずに何度も涙を飲んだ。そんな久世を見た姉が、いつも運動会のお弁当には卵焼きをたくさん焼いてくれるようになったのだ。『飛鳥君の分』と言って。
姉は、久世がどれだけ嫌がっても『飛鳥君』と呼ぶのを止めなかった。
それは、自身の名前に苦しんできた姉だけが知る理由があったのかもしれない。次第に、久世のことを名前で呼ぶのはうちの姉だけになっていった。皆本気で嫌がる久世が可愛そうになり、くーちゃんや、あっちゃんなど、飛鳥とは連想されないようなあだ名で呼ぶようになっていたのだ。
そんな姉と久世の間に、どんなやりとりがあったのか、私は知らない。だけど、久世はいつしか姉が名前を呼ぶことに反抗しなくなり、そして姉を見る目が憧れから違うものに変わっていったのを、私は知っていた。
久世は私の言葉に何も言わなかった。けれど、しばらくして聞こえてきた仏具を叩く音に、私の推測は間違っていなかったのだと知る。
久世は、強引だが空気の読めない男ではない。詳しく知ってるわけではないが、あんな風に人の嫌がることを無理強いする男でもない。それをしてでも達したい目的が、最初からあったのだ。借りたいと口実にしたCDなどどうでもよかったのだろう。私のレポートの提出日を調べておいて、私が持ってきていないことを知っていて、自分がこの部屋に上がり込むために私の好きそうなCDまで買ってきたのだろう。姉に、線香を上げるために。
そう言えば、今日は姉の葬式を上げた日だったなぁと思った。白骨化した遺体からは正確な命日を推定できなかった為、命日は姉の誕生日にした。
家族と多野さんで話し合った結果、誰か知らない他人がもたらした死の発見の日よりも、皆に祝福されてこの世に生を受けてきた誕生日を、姉の区切りの日にしようと決めたのだ。
だから、久世は多野さんを目の仇にしていた。多野さんが嫌いなのは、姉の恋人だったからだ。姉を象る全てを、多野さんが作っていたからだ。久世は、姉の心に、卵焼きが好きな妹の幼馴染としか残っていないのだから。
だけど私は、それは幼いころに憧れた近所のお姉さんの恋人だったからだと思っていた。まさか、まさか久世が10年以上もたった今でも、姉のことを想っているなどと、誰が思っただろうか。
「食べ終わったら帰んなさいよ。アルフォンスには私から謝っといてあげるから。」
長いこと手を合わせて目を閉じていた久世が、何を語りかけていたのかなんて私が知る日は来ないだろう。甘い卵焼きが焼けた匂いに気付いたように目を開けた久世にそういうと、私はコトリと炬燵の上に卵焼きを置いた。姉の味をそのまま再現した、我が家の卵焼きの味だ。
「んー翠が謝ったりしたら、余計機嫌悪くさせるだけだと思うんだけど」
「んなわけないでしょ。あんたみたいな捻くれとは違うのよ」
何を言ってるんだと鼻で笑う私に、久世は心底同情したような顔をした。
「君は成長しないねぇ。」
「成長しないのはあんたでしょ。いい加減、忘れなさいよ。」
「何、翠。僕のこと好きだったの?」
「本気でそこの窓から叩き落とす」
自分の言葉がどれほど愉快だったのか、ケタケタと久世は笑った。その姿が、痛ましい。空元気にしか見えないのだ。そんな私の表情を見て悟ったのか、くしゃりと久世は顔面を歪めた。
「そんなにすぐ忘れられるなら、誰のでも食べれるように、なってたのかな。」
その言葉に驚いた。まさか、食べれなくなってまでいるとは思っていなかった。何故食べれないのだろう。そんな思いは、姉の味をいつでも食べれる自分の幸せな疑問だろう。姉の卵焼きの味を忘れるのを恐れて、食べれなくなっているのだろうか。だとしたら、なんと。なんと。
「もういい加減、やめなさいよ。届かない人、想ってるなんて。」
「んー翠に言われてもねぇ」
流そうとしている久世に、その通りだと苦笑しながら告げた。
「私は、ちゃんと告げてきたよ。」
私の言葉に、久世が目を見開く。
「ちゃんと、終わらせてきた。」
私は、その相手がいる分自分のタイミングで自分の気持ちを昇華することが出来た。伝えられた分、心が軽くなっただろう。自己満足のような告白劇に付き合わされて、同じ想いを強要された多野さんは堪らないだろうが、それでも私は自分が前に進むための踏み台にした。ずっとずっと、好きだった人を。
「あんたの気持ち、わからなくない。けど、10年は、長いでしょ。」
姉がいなくなってからの6年。それはもうほとんど妄執と言っていいものかもしれない。当然だ。久世は姉が家を出てから、ほとんど顔を合わせることもなかっただろう。その間、彼の中の恋心は妄想の姉へと向かっていたのだ。現実の姉を好きなまま居続けたわけではない。それはきっと、本人もわかっているだろう。
そんなにも長い間。そんなにも好きな相手を、私がどうこう言ったところでどうにもならないだろう。特に、『早乙女』と言う名前で繋がっている私なんかに、そんなこと言われたくないかもしれない。久世にとっては、妹の私でさえ嫉妬の対象なのだ。なのに、その妹に縋ることでしか、姉との繋がりを持っていることができない。
「お節介。」
「わかってるわよバカ。もう、卵焼きはこれっきりだから。好きな人作って、その人に作ってもらいな。そんで、舌と心を上書きしなよ。」
更にお節介な言葉を吐いた私に、久世は背を向けた。
「…うるさいよね。昔から、本当。まじで、あー…」
なんで、こんな。好きなんだろうね。
最後の言葉と、頬を伝っているように見えた涙には、気づかないふりをしてあげた。
***
「帰ったのですか。あの無礼者は。」
コンコン、とノックされた玄関を開けてやると、顔に笑みを張り付けたアルフォンスが立っていた。
部屋に招き入れると、アルフォンスは一瞬部屋を見渡したがすぐに私に向き直した。吐き出されたその言葉に、顔面と台詞のミスマッチさを指摘しようか迷う。ぶすくれた表情でもしていればまだ可愛げがあるのに、と思ったが、今回は完全にこちらが迷惑をかけたほうだったのを思い出す。
「さっきはごめんねアルフォンス」
「…なにがでしょう」
「あいつもね、ちょっと捻くれてるだけで悪い奴じゃないっていうか…態度は悪いし本当失礼なことばっかアルフォンスに言ってたけど…許してあげて。ごめん。」
その言葉に、アルフォンスは更に笑みを深めた。その笑みが底心からきているようなものに見えなくて、私は怖気づいて一歩下がる。そんな私に気付いていないわけでもないのに、アルフォンスは笑みを深めたまま近づいてくる。手にはエコバック。そんなところまで徹底して節約しているのかと、この場に似合わない姿に現実逃避するように必死に見つめていた。
「何故、貴方が謝るのです」
「何故っていうか…知り合いのしたことだし、あいつ帰らせちゃったから謝れないし…」
「―――あの男が先日言っていたふられた男ですか?」
「いや、それはない。」
アルフォンスの目を見てきっぱりと言った私に、アルフォンスは鷹揚に頷きながら言う。
「でしょうね。それでは、あの男が言っていた『メガネのおっさん』がそうですか?」
なんで、そこまでつついてくる。いつもは絶対に触れてこなかった領域に簡単に踏み込まれて、対処のしようが無く黙り込んでしまった。そうだ、アルフォンスはあの日から、私に容赦がなくなった。今までどれだけ容赦してもらっていたのかわかるほどの差異に、私はたまについていけずに負けてしまう。
「オーディンといい、その方といい…貴方はよほど年上に憧れるらしい」
「個人的な好みにまで口を出される筋合いはないと思うんですけど…」
「残念なことに、口を出してしまいたくなる性分なので。」
「なによっほら、プリン食べよう。チョコ…買ってきてないじゃない!なんでよ!」
明らかに話題を変えた私に、アルフォンスははぁと溜息をつくと、貼り付けていた不自然な笑みを引っ込めてくれた。
「口実の為に無駄遣いはしません。ですがお詫びと思うならプリンを一口頂戴したいと思います。」
「はい、どうぞ。どうぞ。」
平に平にご容赦を、という私の態度に寛大な処置を施してくれたアルフォンスに、スプーンで掬ったプリンをすぐさま捧げた。
私は先ほどの空気を払拭するべく、なるべく明るい口調で話した。
「一途なんだよねー私みたいにさ、振られることがもう出来ないから、いつまでも引きずってんのかも。」
「…あの者は翠様に懸想しているのではないのですか?」
「化粧?」
「翠様に好意を寄せているのでは、と申し上げました。」
「私?ないない。あいつが好きだったのは、うちのお姉。」
まだ想ってるなんてさすがに知らなかったけど。そう笑った私に、アルフォンスは仏壇に添えられている真新しいお菓子を見た後、真面目な顔をして続きを促した。
「姉の通夜を知らせて、すぐに久世一家が来たんだよね。あいつ、部活帰りのくせにわざわざ学ランに着替えてさ。近所だったし、親同士の付き合いもあったから来たんだろうと思ってた。あいつがお姉のこと好きだったのなんて、小学生の頃の話だと思ってたし。大学で一緒になっても、お姉の話題なんて一度も出てくることなかったし。…思えば、話題に上らない時点で忘れられてないんじゃんね。気づいてあげられなかった私がバカかぁ。」
私の力ない言葉に、アルフォンスがそっと寄り添ってくれた。まるで子供のように撫でられる頭に苦笑する。
「あんな無理やりな理由つけて線香上げに来るぐらいなら、私にそう言えばいいのに。男ってまじ意味不明」
「男には、言えないことに対する理由があるのです。」
「アルフォンスもあるの?」
「私にもございます。とても大事なことを言いたいのですが、理由が邪魔をして言えません。」
「そうなの?言えるようになるといいね。」
「その時は聞いてくださいますか?」
「何?私にだったの?…なんか壊した?」
「いいえ、そのようなことは。」
「あっそ。じゃあいいよ、言えるようになったら聞いてあげるわ。」
「ありがとうございます。」
はにかんだように笑ったアルフォンスの笑顔は、本物の笑顔だった。それに安心してしまって、私も同じように笑う。
「ですが、安心しました。やつを斬らずに済みましたね。あれを放置して帰るのはさすがに不安でした。」
「切るって…そんな野菜みたいに。あんたでもそんな冗談言うのね。そんな心配しなくっても、あんなのに好き勝手させないし。」
「あのように失礼な輩に、翠様が傾倒されることがあるはずないとわかっていますが、貴方は弱っている人間に弱い。ことさら、助けを求められたら払い除けれない。違いますか?」
「…それを知って利用してきたのは誰よ」
呆れたように胡乱な目を向ければ、アルフォンスはまるで自慢するかのように胸を張った。
「もちろん、貴方を手に入れるためなら、利用できるものは何でも利用させていただきます。」
「貴方の部屋を、の間違いでしょ。」
はいはい、と聞き流す私に苦笑を向けたアルフォンスの瞳は、様々な色に揺れていた。