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11 : 泣ける場所

 何度機種変更しても、決してメールアドレスだけは変更しなかった。


 『メールアドレスを変更しました。登録お願いします。』というメールを送っていいのか、すごく不安だったからだ。

 その相手から、送っていたメールの返信が来た。仕事もプライベートも忙しい人だから、気長に待とうと思っていたのにほんの一時間足らずで送り返されてきたメールを見て、頬が緩むのを我慢できない。


【 わかりました。じゃあ6時に。気を付けておいでね 】


 誘いのメールに色よい返事。忙しいのに、自分のために時間をやりくりしてくれるのだろうと喜ぶ気持ちと、無理をさせているんだろうなと落ち込む気持ちが相反する。たったその20文字程度の文章が、宝物のように感じて何度も何度もメールを読み返す。

 そして、覚悟するように鞄をぎゅっと握りしめた。中に入れている、大事なものを確認するように。



「アルフォンス!この服は?!」

「とてもよくお似合いです。」

「あんたさっきからそればっかじゃないの!このトップスならさっきのスカートのほうが合ってたかな…。ねぇお尻の形、どっちのほうが綺麗に見える?」

「翠様…そのように破廉恥なことを男に問うてはなりません」

「うっさいばか!死活問題なんだから!じゃあ丈は?どっちのほうが足細く見える?」

「どちらも魅力的過ぎて直視できません。私は足首まで隠れているほうが好みです。」

「マキシ丈なんて動き辛そうすぎて持ってるわけないでしょばかっ!どっちにしようかな…こっちだとカーデのボタンの色とあってるよね。あ、靴も合わせないと」


 バタバタと準備に余念がない私に、アルフォンスは『どこの世界もご令嬢は同じですね。』とミネラルウォーターのおかわりを用意してくれながら言った。私は乱暴にそのコップを引っ掴むと、ごきゅごきゅと喉を鳴らして一気に飲み干した。


「よし、やっぱりこれにしよう!白!冬だし!清純派狙ってるわけじゃないからね?!」

「とてもよくお似合いです。」

「あんた本当にそればっか…。イエスマンは日本人だけで十分だわ。今日バイトのあとちょっと出かけるから、帰り遅くなるね。」

「舞踏会にでも?」

「どこのシンデレラよ!ふふん。デートに出かけてくるのです。じゃあいってきまーす」

「はい、いってらっしゃいませ。お気をつけてお帰り下さい。」

 慇懃に頭を下げるアルフォンスは、私が服を選んでいるときからずっと貼り付けたような笑顔だった。あんまり今日は機嫌か体調がよくなかったのかなと思いながら、携帯で時間を確認する。やばい、服に時間をかけすぎてバイトに遅れそうだ。私はいつもは履かない丈の高いピンヒールで足早に歩いた。




「久しぶりだね、翠ちゃん。ごめんね待たせちゃったかな」


 冬だというのに額から汗を流しながらやってきた男性に私は笑いかけた。着崩れたコートに、振り乱した髪。一生懸命急いで来てくれたことが伝わる風貌に胸がときめく。


 バイト終わりに待ち合わせの店に入って15分。

 社会人の彼には早い待ち合わせ時間だということはわかっていたので、たかが15分の遅刻なんて全く気にもならなかった。

 待つことは想定していたが、生憎と本を読むなんていう高尚な趣味など持ち合わせていない自分には、時間を潰す手段は携帯ぐらいしか思い浮かばなかった。しかし、待ち時間に携帯をいじっている女の子だという印象をなんとなく持たれたくなくて、頼んでいたコーヒーをちびちびと口に運んでいた。コーヒーは特別好きなわけではないが、飲めないほど協調性を欠いているわけでもない。特別好きでもないコーヒーの美味しさなど考えたこともないが、一番飲みやすいのはアルフォンスが淹れてくれるやつだなぁなんて思っていた時に、彼が店のドアを開けた事に気付いた。


 席に着きコートを脱いでマフラーを外す。走ってきた時の熱気で曇ったのか、室内の温度差で曇ったのか、メガネを一度外してスーツの袖で拭いた。こういう大雑把なところは、昔からずっと変わらない。


「店の外から見えた時びっくりしたよ。すっかり―――…お姉さんになって。」


 その言葉に、私は苦笑を返す。少しの沈黙の間に彼の呑み込んだ言葉がなんとなくわかったからだ。

 きっと、『すっかり聖に似てきたね』と、そう言いたかったに違いない。


 多野さんは、姉―――聖の“元恋人”だ。

 姉の生死がわかるまではずっと“恋人”だったが、姉の死が判明したその瞬間から、その関係の前に“元”がつくようになった。


「ありがとうございます。多野さんはずっと変わりませんね」

「そんなことないよ、僕もいつの間にか33…すっかりおじさんだよ。こうして女子大生とお茶させてもらってるなんて知られたら、残業押し付けてきた後輩に殺されちゃうな。」

 注文を取りに来た店員さんに素早く注文を済ませ、多野さんは私に向き合ってくれた。


「素敵な色のマフラーですね。恋人からのプレゼントですか?」

「ははは…そうだよ。綺麗な色だろう。クリスマスにもらったんだ。」

 私の含んだ言葉に、多野さんは笑ってそう答えた。多野さんの笑顔はとても辛そうで、本当に嘘が苦手な人だなと思った。

 彼の嘘は、どこまでも甘く私に優しい。私に期待を持たせないように。私を傷つけずに振れるように。私に、心配をかけないように。


 多野さんの選ぶ未来の中に、“私”という選択肢は6年前からずっと存在しない。


 姉から奪ってやろうとか、振り向かせたいとか思ったことは一度もなかった。誓って、一度も。

 ただ、当時16歳の私に彼は強烈過ぎた。いなくなった恋人を一心不乱に心配する彼。取れる限りの有給を使い、思いつく限りの場所を探し、自分にこれ以上できることがないと見切りをつけてからは、今まで以上に仕事に打ち込んだ。全ては姉のために。

 私たち家族へのフォローも忘れなかった。私こそが彼を慰めなきゃいけなかったと言うのに。彼は姉の不在を共に嘆く相手などいなかったというのに。子供だった私は、結局彼にずっと慰められて支えられていた。


 そんな彼を好きにならずにいられたのなら、教えてほしかった。16歳の私は、抗う術など知らなかった。


 こんな緊急事態なのに、そんな俗世でよこしまな感情を抱くこと。姉のことを一番に考えたいのに、姉のことより多野さんのことを考えてしまうこと。姉の不在時に、姉の恋人を好きになること。姉のことが心配なのに、多野さんとの時間を大切に思ってしまっていること。


 その罪悪感という重圧に耐えきれずに、何度も好きになるのを止めたいと思った。何度も嫌いになりたいと願った。その度に、多野さんは姉への眩しいばかりの愛情をもって私に接した。私はその光に魅かれるように、多野さんをまた好きになっていた。

 例えこれが幼い憧れであって恋心じゃなくても、ずっと好きだったのだ。姉のことを好きな、多野さんが。


 私は鞄から目的のものを取り出した。今日はこれを渡すために、2年ぶりに多野さんと会うことにしたのだ。


「これ、受け取ってください」


 私の気持ちに気付いている多野さんは、私からものを受け取ったことはない。だけどもう、これで最後にするから。元恋人の妹という立場で好き勝手甘えていた子供の私は、もう最後にするから。貴方を支える勇気も、姉に面と向かって立ち向かう勇気もない私は、これでもう、最後にするから。


「翠ちゃん」

「チョコレートじゃないですよ。」

 静止のために呼んだ名前に茶化して返す。多野さんに話す隙を与えずに言葉を続けた。

「大丈夫です。開けてみてください。」

 困惑する多野さんに、両手で鞄から取り出したものを押し付けた。多野さんはそれを受け取ると、渋々と言った表情でそっと包みを開いた。


「…これは」

「先日、実家で見つかったんです。見覚えがありますか?」

 包みの中身に目を見張った多野さんは、素手で触れることすら出来ずにそれを穴が開くほどじっと見つめた。


「…おぼろげに、だけど。あぁ、そうだ。聖、が。」


 古ぼけた腕時計を見て、多野さんは涙ぐんだ。一瞬にして赤くなった鼻と、強張った表情。全身に入った力で、涙を我慢していることがわかった。


 姉の死がわかり、姉のアパートを引き払う時に遺品の整理も共にした。その時、私達家族は姉の遺品を一切多野さんに渡さなかった。あれだけ私たちを支えてきてくれた多野さんに、意地悪をしたつもりはないが、結果的にそうとられてしまっても仕方がない。恩知らずなことをしたと思う。それでも、故人である姉に縛り付けるものを―――もうどうあっても戻ってこない姉に固執させるようなものを、多野さんに渡していいとはどうしても思えなかったのだ。


 アルフォンスから腕時計を受け取った後、ずっとどうしたらいいのか迷っていた。今更と感じた。そう、今更だ。

 私たちはもう4年も前に一度遺品整理を済ませていて、その時に気持ちの整理を終わらせている。それなのに、またこんな風に彼女の足跡が見つかって、どうすればいいのか迷っていたのだ。両親に渡すべきか、私がずっと隠しておくべきか、それとも―――前に進む原動力にするべきか。


 整理したと、出来たと思っていた心の引き出しの中に、私と多野さんは、どうしても捨てきれない姉との思い出を沢山抱えていた。その沢山の思い出が今、足枷になって雁字搦めに私たちを縛り付けている。前に進む意欲を削り、前を見る視界を削っていた。だけどもう、私たちは前に進むべきだ。


 私は姉の物から離れ、多野さんは姉の物を手にすることで、どれほど想っていてももう届かない想いを捨てれるんじゃないかと。そう思ったのだ。


「姉の物なんですね。」

 勇気を出してよかった。彼の表情を見てそう思っていた私に、多野さんは小さく首を振った。


「いや、違う。これは聖の物じゃない」

 見覚えがありそうなことを言っていたのに否定する多野さんに、私は首を傾げた。


「これは、翠ちゃんのだよ。」

「…え?」

 予想もしていない言葉に目を見開く。

「これは、聖が君に用意していた、誕生日プレゼントだ。一緒に買いに行ったから、間違いない。」

 多野さんの言葉に、驚きで声が出なかった。


「こんな姿になってまで、翠ちゃんの元に戻ってきたんだね。あぁ、そうか。ようやく聖は、君に渡すことが出来たのか。」


 涙ぐむ多野さんの表情は、とても柔らかかった。茫然としている私の手を取ると、赤子を触るかのように優しく腕に時計をつけてくれる。


「聖。君の未練は、少しでも消えただろうか。」

 その言葉に、私の胸は息が出来ないほど苦しくなった。姉の想いにか、未だ姉を想い続ける多野さんの恋情にか、私の恋心にかはわからない。わからないけど、私は今すぐにあの小さくて狭いアパートに逃げ帰りたい気持ちに駆られた。


「こんな姿だ。着けておくのは難しいだろうけど、どうか大切にしてやってくれないか。」

「―――はい、もちろんです。」

 多野さんに渡して、気持ちの整理を付けようと思っていた私の目論見は外れた。また、私の元に戻ってきてしまった。これでは、私たちはまた前に進めないのではないだろうかと、今日一念発起して呼び出した彼の笑顔を見ながら苦しくなった。


「どうして今日、それを僕にくれようとしたんだい?」

 多野さんの声には『あの時一つも譲ってはくれなかったくせに』と言う非難の色は含まれていなくてほっとする。私はどうあっても、この人に嫌われることだけは辛い。

「…前に進めるように、なるかと思って。」

「僕が?君が?」

「…二人とも。」

 段々と自信を無くして言った私に、多野さんが苦笑した。


「そうか、ありがとう。翠ちゃん。君もずっと16歳のままじゃないんだね。」

 その言葉に、私がいつまでも彼の中で“16歳の聖の妹”だったことを再確認し、悲しいような、だけど少しだけほっとしたような気持になった。


 腕に巻かれた腕時計を見る。古びて寂れてしまった時計は、まるで私の気持ちそのものだ。こんなにも汚くなるほど執着して、未練を残して、ずっと多野さんにしがみ付いていたのだ。その汚れ一つ一つに、彼との思い出を抱えながら。

 溢れそうになる涙を堪える。時計にかこつけることで、私はまた逃げを打とうとしていたのだ。私は私の言葉で告げなければいけない。

 私は、今日言う為に覚悟を決めてきた言葉を吐き出すために、スッと息を吸い込んだ。


「多野さん、今までありがとうございました。甘えてばかりでしたが…貴方に会えて、よかった。」

 私の突然の言葉に、多野さんの細長い目が驚きに見開いた。


「ちゃんと朝ご飯食べてください。仕事は無理しすぎないでください。靴下は履くときに両方同じか確認してください。姉のこと忘れないでください。だけどもう、越えてください。本当に、ちゃんと。恋人を作ってください。」


 貴方の嘘なんて、とっくに見抜けるようになっていたと、貴方はずっと気づかないままでいた。貴方にとって私はいつまでも“16歳の聖の妹”だったのだろう。それ以上の価値はなく、けれど絶対にそれ以下にもならない程価値があったのだ。私はその価値を良いようにずっと利用していた。優しくされて、甘やかされて、特別でいさせてもらう為に。ずっとずっと、優しい彼に姉の面影をちらつかせて傷つけ続けてきたのだろう。

 成人も済ませているのに情けない。駄々っ子のように、私は兄にも姉にも多野さんにも、ずっと甘え続けていたのだ。


 姉を乗り越えろと思いつつ、乗り越えさせないようにずっと私が思い出させていたのだ。

 だけどもう、そんなことは終わりにしよう。何がきっかけになったのかはわからない。この腕時計だったのかもしれないし、アルフォンスの聖女に関する説明だったのかもしれないし、時間だったのかもしれない。けれど、ようやくそんな気持ちになれたこの時を逃してしまえば、一生私は姉への、多野さんへの執着を取り除けないような気がしていた。だから今。帰ったら、おかえりと微笑んでくれる人がいる、今。傷ついて帰っても慰めてくれる存在がいる今、私は卑怯にも自分の都合で彼に気持ちを押し付けた。


「今まで本当に、お世話になりました。沢山ご迷惑をおかけして、すみません。お兄ちゃんよりもお兄ちゃんのように感じていました。―――だ、大好き、でした。本当に、ありがとうございました。」


 鞄から財布を取り出すと、最初から用意していた小さなポチ袋を取り出して、そっと飲んだコーヒーの横に置いた。姉の元恋人、という繋がりさえ断ち切ろうとしている今、コーヒー代をいつもの様に奢ってもらう訳にはいかない。そのぐらいの分別は持っていた。私は多野さんの表情を見ることもなくすっと立ち上がる。言いたいことだけ言ってさっさと切り上げようとしたのは、これ以上彼の前にいる勇気がなかったからだ。


「翠ちゃん」


 彼の横を通り過ぎようとしたときに、掠れた彼の声が聞こえた。


「俺も、君のことを。本当に、本当に妹のように。大切に思っていた。幸せに、なってくれ。」


 それだけで、それだけで十分だった。


「…はい」

 涙は堪えた。私はそのまま振り返らずに店を後にした。




***




 半ば放心状態のまま家に帰りついた私は、アルフォンスと何を話したのかさえ碌に覚えていなかった。多野さんが腕に巻いてくれた腕時計だけは、ゆっくりと慎重に外して仏壇に置いた。


 今日は散々泣いて、泥のように眠ってしまおう。ずっとずっとそう思いつつ、涙の一つも零せないままだった。


 16から5年間。片思いにしては、長い期間だっただろう。こんなに長い間、ずっと抱えていた姉への罪悪感、コンプレックス、そして多野さんへの慕情。その全てを清算させてきた。なんだかすっきりしたような、全然乗り越えられていないような。そんなまどろっこしい気分だ。


 お風呂上りに髪を乾かすことさえ億劫で、一つに縛った髪にたっぷりと水を含ませたまま脱衣所を出た。肩に乗せたタオルに大きく染みが広がっていく。


「お風邪を召されますよ。早く髪を乾かされたほうが…」

 その姿を見たアルフォンスが、心配そうな顔をして注意してくる。出かける前は不機嫌そうだったくせに、そんなこと全くなかったかのような対応に、まるで子供を嗜める大人のような余裕を見せつけられて苛つく。その顔付きもまるで腫物を触るようで嫌だったし、21にもなって風呂上がりのことで一々子供のように注意を受けたくもなかった。アルフォンスの言動にも自分の気持ちの揺れ動きにも一つ一つがえらく気に障ってしまう。


「なに?うなじが気になる?16歳だもんね~お盛んなころだもんね。ねぇ、一発やらせてあげよーか?」

「女性がそのようなことを言ってはなりません。」

 私の明らかな挑発にも乗ってこない。いつものように冷静に、だけどいつもより幾分も優しい音色で私を諭す。

「はいはい、はしたのうございますもんね。王宮育ちのお坊ちゃまには刺激が強すぎたよね。寝かしつけに絵本でも読んであげましょうか?」

 だけどそんなアルフォンスにどんどん苛立ちが増していく。16歳、私が、多野さんを好きになった年だ。

 あのころ、私がこれだけしっかりしていれば。これだけ確固たる信念があれば。姉を第一に考えることが出来て罪悪感を抱くこともなく、多野さんを好きになってこんなに辛くなることもなかったのだろうか。

 なんで、同じ16歳なのに、こんなに違う。


「翠様、私でよろしければ力になります。」

 なにがあったのか、なんて聞かないアルフォンスに腹が立つ。なにかがあったことなど、私の態度を見ていればわかるだろう。

「うるさい!ペットのくせにしゃしゃり出てこないで!あんたに、何が出来んのよ!」

 そんな無意味な質問をしないアルフォンスにも、どうして理由を聞いてくれないのかにも、心配をさせることにも、素直になれない自分にも。全てに腹が立ってしょうがない。


「…しばらくお一人になりたいでしょう。私は出ておきますので。」

 その言葉に驚いて私は振り返った。その拍子に、髪から水滴がカーペットにぽたぽたと落ちた。

 私の表情を見たアルフォンスが、目を見開く。そのアルフォンスの顔を見て、私はしまったと感じた。出て行ってほしくない、全面にそう書かれていた顔を、アルフォンスはしっかりと見ただろう。

 アルフォンスはそんな私に微かに微笑むと、私の傍をすり抜けて廊下に出た。


 ちがう。出て行ってほしくないんじゃない。そうじゃなくて、このトコヨで彼が出て行く場所がないだろうと、そう思っただけだ。またあの日のように寒空の下を彷徨うのかと思うと、憐れんでしまっただけだ。


「翠様、これを。」

 廊下に出て行ったアルフォンスが戻ってきたことにも気づいていなくて、ハッと顔を上げた。アルフォンスはどうやら台所へ行っていたらしい。アルフォンスの持つマグカップの中には、蜂蜜のいい香りがする琥珀色の液体がたっぷりと注がれていた。底には不思議な濁りと、立ち上る湯気からはすっきりとした香りもある。

 そんな、余裕の気遣いが。とても私の神経を逆なでさせているのだと気付いてほしい。


「アルフォンス、来てよ。」

「どうなさいました?」

 腕を引く私に驚いて慌ててマグカップを炬燵の上に置いたアルフォンスは、歩いて数歩もないベッドの上に促すままに大人しく座った。そのアルフォンスの肩をトンと叩くと、驚くほど簡単に押し倒すことが出来た。体の力を適当に抜いて、全身を密着させるように腰を押し付けた。分厚い冬着に阻まれて、彼の心臓の音は聞こえない。


「みどりさ」


「ねぇ、しようよ」


 アルフォンスの真っ白い首筋に歯を立てるように吸い付きながら、吐息だけの掠れた声で告げる。舌で舐め上げた湿った肌にかかった吐息の冷たさにか、アルフォンスが身を固くさせた。徐々に赤みを帯びて行く肌に満足しながら舌を這わす。

「筆下ろししてあげる」

「“ふでおろし”?」

「童貞もらってやるって言ってんの」

 アルフォンスの体に合った細身のジーンズの上から、そっと撫で上げた。アルフォンスのそこは、この状況に混乱しているのか、それとも私じゃ反応すらしないのか。堅いジーンズ生地の上から触っても、どこにあるのかすらさっぱりわからなかった。


 私の言葉に絶句しつつも、次の言葉を何とか探そうとするアルフォンスからは、童貞特有の緊張も恐怖も読み取れなかった。私は呆気にとられて、逆に開き直ってしまった。


「なんだ、したことあるんだ。じゃあいいじゃん」

「何故」


 私の言葉に、否定も肯定もしないアルフォンスのセーターを捲りシャツをジーンズから引っ張り出す。腹筋に触れると、そこは信じられないほど堅かった。てっきりこの美少女顔同様ふにゃふにゃした体つきを想像していた私は驚いて手が止まる。しかし、堅い腹筋に毛の感触ひとつない女のように皇かな肌は思った以上に障り心地がよく、つい指の腹で執拗に撫で回す。

 手のひらにしっとりと馴染む肌は、彼の汗でか、服の中に籠る熱でか次第に湿ってきて、私はその反応が嬉しくて彼の首に、耳に、髪の生え際に。匂いを嗅ぎながら口付けていく。アルフォンスの体の強張りに、私はよりいい気になって唇を這わせた。私と同じボディソープを使っているはずなのに、アルフォンスはいい匂いがする。そこに若干の男の匂いを感じて舌で舐めとる。油のような、獣のような、男の匂いが少年からほのかに立ち上っていた。

 腹から胸に亘って弄っていた手を下げた。買ってあげたジーンズはローライズで、ジッパーの距離も短い。見もせずに片手でボタンを外すことなど、不器用な私にできるはずないと最初から諦め、ジッパーを下ろして中に手を忍ばせようとする。熱気がジーンズの隙間から手に伝わってきた。


「翠様っ」


「カチュアちゃんは恋人じゃないんでしょ?ならいいじゃん。一回ぐらい。」


 指先に彼の物が触れようとした瞬間、それまで私を言葉で止めるばかりだったアルフォンスは急に体を起こそうと力を入れる。こんな堅い腹筋を持つアルフォンスに本気を出されれば押し倒しておくことなどどう考えても不可能で、私は一瞬のうちに彼の上に馬乗りになって座っていた。


「翠様退いてください。なりません。」

「なんでよケチ!いいじゃん減るもんじゃないんだし!」

「いいえ、とんでもなく減ります」

「何がよ」

「私は翠様に生涯の忠誠と愛を誓いました」


 その真摯な瞳に一瞬怯んでしまい、私は何か重要なことを聞いた気がしたが気に留めれるだけの余裕がなかった。何か言い返さなければ、彼に言い負かされると咄嗟に判断したのだ。


「じゃあそのご立派な忠誠心で愛をちょうだいよ!」

「なりません。」

「ペットなんでしょ!言うこと聞きなさいよ!」

「さぁ温めなおしてきますから。今しばらくお待ちください。翠様の好きな、すりおろしリンゴを入れてあるんですよ」

 真正面から見つめ合うようにして膝の上に乗り上げたいた私から、後退するように抜け出すと、アルフォンスは先ほど炬燵の上に置いたマグカップを手に台所に向かおうとする。その背中にクッションを勢いよく投げつけた。中身が零れようが、掃除をするのはアルフォンスだ。知ったこっちゃない。


「いらないったら!なによ、アルフォンスのっばかっ!」


 ありったけの勇気を振り絞って肌を合わせてくれと言っているのに。必死に色気をかき集めて誘惑してるのに。恥を忍んで、抱いてってお願いしてるのに。こんな風にしか誘えないけど、可愛くないってわかってるけど、私なんかじゃそんな気になれないかもしれないけど。それでも、女にこれだけ積極的になられてるのに逃げるなんて、お前はどこぞのドラマのヒーローか!女なんてより取り見取りすぎて、こんな色気もない学もない面倒くさい大家、こんな不良物件、手を出す価値もないってか。


 女に恥をかかせるなんて、さいていだ。最低だ馬鹿野郎。


 濡れた髪のままベッドに突っ伏した。

 ガスコンロを止める音がして、ドアが開いた。いつもよりもずいぶんと静かな足音が近づいてきて、コトリと炬燵の上にマグカップを置く気配がする。


「みどりさま」

「アルフォンスなんてだいっきらい。はなしかけないで」

 アルフォンスの顔も見るのが嫌で、組んだ腕の中に顔を隠した。そんな私の可愛くない行動と言葉に、アルフォンスは一つため息をついて離れて行った。


 あぁこれだ。いつものパターンだ。私はすぐに自分の行動を後悔した。


 強がりばかりで意地っ張りで口が汚い私。だけど付き合い始めると、とことん彼に依存して甘えたがった。その甘え方が下手だからよく喧嘩になって、喧嘩になると絶対に自分から謝れなかった。自分が悪いとは分かっていても、どうしても折れることができなかった。どうせ、一番好きな相手じゃないしいいやなんて自棄になる事も少なくなかった。

 こんなことばっかりだって学習してるはずなのに、どうしても直らない。


 アルフォンスは付き合ってるわけじゃないけど、付き合ってたどの人たちよりも身近にいると感じる。だからだろう。甘えすぎて依存しすぎて。それで重荷になっている。抱いてくれなんて、そこそこ親しい人間に言われるのが一番重いに決まっている。面倒くさく思われるに決まってる。特にアルフォンスにとっては、流されてその願いを叶えて気まぐれに追い出されるより、最初に約束した手を出さないという条件を守り部屋を確保したいに決まってる。対人関係幼稚園児レベルかよと自分に呆れた。


 アルフォンスに甘えている原因はわかってる。彼が絶対に、私を裏切れないからだ。彼は自分の世界に帰るまでは、どんなに嫌でも私の元に留まるしかない。私のご機嫌を取り続けるしかない。そうじゃなければ、今日の宿もご飯もないからだ。私は本当にペットを飼ってる主人のようにここで機嫌を取られるのを待っていればいいだけ。


 多野さんへの利用を止めた次は、アルフォンスを利用しようとしている。

 いいや、アルフォンスと言う次の生贄が出来たからこそ、多野さんを切ることが出来たのかもしれない。

 一人にならないための、生贄が。


 こんな醜い私を、誰が本気で相手してくれるだろうか。


「翠様」

 戻ってくるとは思わなかった声が聞こえて、びくりと体を震わせる。ギシリときしむベッドの音がして、私のすぐ横に座った気配がした。


 頭に、柔らかい感触が当たる。それがタオル地で、アルフォンスが優しく髪の毛を拭いてくれているのだと気付くのにしばらくかかった。


 だって、アルフォンスはあの誓いの時以外、絶対に、自分から触れてこなかった。


「貴方は本当にほっとけないですね」

「―――え?」

「貴方といるとね、私は元気になるんです」

「…うるさいってこと?」

「とてもあいらしいということです。」

「うそつき」

 私は咄嗟に反論した。

「嘘ではありません」

「おべっかこぞう」

「おべっかでもございません。こんなに可愛らしい女性に、私は今まで一人も会ったことがありません」

「はいはい」

「なにがあったんですか?私では力になれませんか?」

 心に、羽毛のようにそっと触れる、ずっとほしかったその言葉に、私の意地は完璧に砕け散った。


「…ふられてきたの」

「…―――それは、抱かなくて本当によかった。」

 心底ほっとしたというような声色に、私は勢いよく体を起こしてアルフォンスを睨みつける。


「なによ!他の男にふられるような女じゃ、王子様の一晩の相手にさえならないって?」

「そうではありません。」

「じゃあなによ!ばーかばーか!アルフォンスのばーーか!」

 子供のようだ。わかっている。だけど、アルフォンスの前だとこんな自分が止まらない。


 きっと、何を言っても受け入れてもらえると思っている。だからこんな暴言ばかり、失礼なことばかりしてしまう。だけど、アルフォンスも悪いのだ。こんな私を、優しい笑みひとつでかわして、温かい言葉で包み込んでしまう、アルフォンスも悪いのだ。


「馬鹿なのは、貴方をふったその男です。世界一の馬鹿でしょう。」

 ご希望なら、闇討ちしてきましょうか。


 淡々とした口調はどこまでも優しくて甘い。アルフォンスには似合わない凶悪な冗談に、私は勢いを削がれてしまい、俯いた。

「…そんなことない。世界一格好いいよ」

 しおれたような声で呟いた言葉はアルフォンスに聞こえていたらしい。アルフォンスは深呼吸をするかのように深い息を一つ吐き出すと、諭すようにそっと囁いた。


「…今日はもう眠りましょう。」

 その声が傷つきささくれまくった心に非常によく効いた。その声を離したくなくて、私はがっしりと目の前にいるアルフォンスの腰を掴んだ。


「アルフォンス、今日は一緒に寝よう?」

 私の暴論に匙を投げそうになったアルフォンスは、それでも王族として骨の髄までマナーが身についていたのだろう。しっかりと匙を持ち直し、テーブルに座りなおす。

「…眠るまでお傍に侍らせていただきます」

「だめ。電気消して入って。」

「洗い物がまだ」

「明日手伝うから」

「お風呂の掃除も」

「明日入る前に洗っとくよ」

「…ベランダの家庭菜園に水やりを」

「こんな夜中にするか!」

「水道の水漏れの点検を」

「これ以上ごねるなら、追い出す!」

 絶対に使いたくなかった切り札まで使ってアルフォンスを引きとめた。ずるいとわかっていた。トコヨに頼れるものが一人もいないアルフォンスを叩き出すことがどういうことか、私もそしてアルフォンスも、きちんと理解しているからだ。


 だけど、そんな心底汚い切り札を使ってでも、もうこれ以上、アルフォンスに拒絶されることが辛かった。


「…承知致しました」

 アルフォンスは、私の狡さを知りながら、私に恥をかかせないために飲んでくれた。

 その返事が私とアルフォンスの立場を示唆していた。何故か、断られることよりも。ずっと、ずっと辛かった。


 電気を消すために一旦離れたアルフォンスが大人しく戻ってきた。両手を広げて待っている私に、豆電球でもわかるほどの苦笑を浮かべる。私の両手を無視して、頭をそっと撫でると、しずしずと布団に入ってくる。


 アルフォンスは私が言わずとも、背を向けて眠った。その背中が気遣いのようにも、拒絶のようにも見えて、滲んだ涙が目尻からすっと零れた。私は、想像していたよりもずっと堅くて広いアルフォンスの背中に抱き着く。

 額を背中に押し付けて、嗚咽を飲み込んだ。ずっと、泣けなかった涙が、次から次に溢れてくる。


 ねぇアルフォンス。あんた、もうすぐ帰っちゃうんだよ。


 ゲームの物語は、もうそろそろ終盤に入るだろう。16人中14人が集まったと報告したら、残り二人はクリア後の隠しキャラだとリカちゃんに告げられた。


 多野さんに言わなきゃいけなかったお別れを告げるのに、弱虫な私は5年もかかった。

 私は、こんなに依存してるあんたに。さようならってちゃんと言えるんだろうか。メールも電話も届かない。二度と言葉を交わせなくなるあんたに、その時にちゃんとさようならって言えるんだろうか。


 アルフォンスが見てないのを良いことに、私はずっと泣き続けた。そんな私にアルフォンスは何一ついうことなく、ただじっと背中を貸し続けてくれていた。

 真正面からは、抱きつけなかった。私を抱きたくないと言い放ったくせに、16歳の思春期の体がほんの少しでも反応したら、二度と使えなくなるように蹴り上げてしまいそうだったからだ。


 アルフォンスは話をしている間、ずっと髪を乾かし続けてくれていた。地肌を揉むように優しく撫でて、髪をタオルに押し当てるようにして水分を奪っていく。ずっとそうやって乾かしてくれていた髪は、いつの間にかほとんど乾いていた。

 その手つきはまるでお姫様になったような錯覚さえ引き起こさせるほど、恭しく丁寧だった。セックスを断った相手の髪にすぐ触れてるとか、この男大人になったら何人女を泣かせるんだろうと、泣きすぎと眠さからぼんやりとしていた頭で思った。






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