10 : みっつの愛の形
「おかえりなさいませ。翠様。コートをお預かりします。」
その日はなぜか、にこにこにこ、と驚くほど機嫌のいいアルフォンスが出迎えてくれた。
私は久しぶりに見た執事版アルフォンスに、若干顔を引き攣らせながらも脱いだコートを手渡す。アルフォンスは恭しく受け取ると、玄関土間でサッと埃を払い皺を伸ばしてハンガーにかけてくれた。靴を脱ぐのまで手伝おうとしたので必死に押し留め、大慌てで炬燵に逃げ込んだ。
「どうしたのアルフォンス。」
「なにがでしょう」
「なんか…コンラートみたいよ?」
「あのような公害と一緒くたになさらないでください。」
「あんた本当コンラートにだけは容赦ないよね」
うん、知ってた。と頷きながらアルフォンスが差し出してきたお水を受け取る。ごきゅごきゅと喉を鳴らしながら飲む私を、じーっと穴が開きそうなほど見つめるアルフォンスに、引き攣った笑みを浮かべた。
何か用なのかと首を傾げて窺えば、アルフォンスはゆっくりと肯定した。
「私はいつも翠様の手助けをしたいと思っております。」
にこにこにこ。その笑顔は到底自然な笑みとは言い難く、私は今朝何かしでかしただろうかと記憶を探った。
今日の朝ごはんはほうれん草の味噌汁と昨日の残りの筑前煮と、カマスの一夜干し、そして大好きな卵納豆だった。夜はこの筑前煮を入れたコロッケを作ってくれるというので、お前は主婦かと呆れて突っ込んだが、これもいつも通りに笑って流していたはずだ。機嫌を損ねるようなことをした覚えはない。それに今朝出かけるまでは、いたって普通だったように思える。と言うことは、私が出て行ってから帰ってくるまでに何かがあったということだ。不在時のことなんか、到底見当もつかない。
アルフォンスは機嫌が悪い時ほどよく笑う。画面版アルフォンスのような無表情は本気で怖いので笑顔なだけまだましだと思うが、この笑顔も割と本気で怖い。
「えーっと…アルフォンス?」
「はいっ」
目を輝かせて近づいてきたアルフォンスは、何かを期待しているようにも見える。まさか私の皮肉を心待ちにしているわけではないだろうと、私は必死に言葉を探した。
「…私何か怒らせるようなことした?」
「滅相もございません。アルフォンスは毎日幸せでございます。」
「えーと。じゃあ、何かな?」
早々に降参した私にアルフォンスはなぜか咳払いをする。
「おほん、私、腐っても王族でして。」
「うん」
「傅かれることには慣れていても、このように給仕に精を出したことは、大地に生を受けて16年、初めてのことにございます。」
「あ。そっか。軍の時も下っ端時代すっ飛ばして指揮官になったんだもんね。」
「はい。この1ヶ月ほど、不肖ながら精一杯努めさせていただいたのではないかと自負しております。」
「うんそうね。私もだいぶ楽させてもらったし…あ、わかった!」
閃いた私は考え込むために捻っていた顔をアルフォンスに向けた。アルフォンスは、顔中いっぱいに喜色を浮かべて私を見ている。
「お小遣いの催促ね!」
「違います。」
即答されて沈む。完璧な答えだと思ったのだが。
再び考え込んだ私に、アルフォンスがおほんともう一度咳ばらいをした。
「翠様、今日が何日かご存知でしょうか?」
「今日?何日だっけ…携帯携帯…えーと、14日?」
「左様でございます。」
「え?なんかあったっけ?スーパーの特売日とか?まさかあんたと出会った一カ月記念日とか言わないわよね?」
「それも捨てがたい記念日ではございますが、違います。」
「なんかあったっけ…14日…2月14日…ん?2月14日?あんたもしかして、チョコほしいの?」
むしろこの男、バレンタインデーなんて知っていたのかと呆気にとられていると、アルフォンスはほんのり頬を染めてもう一度咳払いをした。
「本日は日頃感謝しているものにチョコを贈る日だと“てれび”が言っておりました。私からは、些少ですが“ふぉんだんしょこら”を用意させていただきました。どうぞ今日の良き日にお受け取りください。あ、ちゃんと調整して節約致しますので、費用分はご心配なさらないでくださいね。」
そのあまりの女子力の高い発言に、私がドン引きしたのは言うまでもないだろう。
「…違う、アルフォンス。違うよ。今日は感謝チョコや友チョコがメインの日じゃない。」
「そうなのですか?」
「たぶん当たり前の事実過ぎてテレビじゃ説明しなかったんだと思うけど…今日は、好きな相手…あんた的に言うと想いを寄せてる相手にチョコを贈って思いを伝える日なの。わかる?」
私の説明を聞いたアルフォンスは、予想していたよりもすんなりと『なるほど』と頷いた。
「それでは私の認識は間違いだったのでしょうか?」
「間違いじゃない。確かに義理チョコや感謝チョコを贈る日でもあるんだけど、メインは好きな相手にあげるための日なの。わかったね?理解したね?」
私の言葉にアルフォンスは再び頷いた。そこで私は一度深呼吸をする。
「えーと…つまり…」
ごめん!用意してません!その一言が、どうしても出ない。
女子力満点の“初めての手作りお菓子”を前にすると、人間とはこうも逃げ腰になってしまうのかと驚いた。世の男性が、興味の無い女子に手作りチョコをもらうのを嫌がるはずだ。非常に、申し訳ない。
特に今回、アルフォンスはフォンダンショコラの存在すら知らなかったに違いない。お菓子作りだって初めてだったに違いない。なのにネットで必死にレシピを探して、私に渡そうと用意してくれていたのだ。その気持ちを、どうして『用意していない』と一刀両断できようか。
アルフォンスは、私からも当然あると期待していたのだろう。その期待を裏切るのは、何とも心苦しい。
アルフォンスは、これまでのなんちゃってトコヨ同居ライフで一度も自分の献身についての見返りを要求したことはなかった。
風邪を引いてからはそれなりに気を付けていたが、さり気なさを装ってお礼をしても気づかれるらしく、その度に返礼と気にしないでいいという旨さえも伝えられていたほどだ。それほど謙虚な男が今、私にチョコをくれとねだっている。
いくら疎まれて育ったとはいえ王子様だ。こんな風に質素な生活はしたことがないだろうに、奢らず横柄にもならなかったアルフォンスが、初めて頬を染めながらお願いしてきたもの。それが、感謝している気持ちそのものなのだとはいじらしすぎて泣けてくる。これでは、これだけ尽くしてくれているアルフォンスに何も用意もしていない私は微塵も感謝の気持ちを感じていない極悪非道人のようではないか。
「えーとつまりね、今日は告白の代替えにチョコを上げる日で…感謝チョコとか義理チョコとかいうのはおまけなわけで…つまりえーと…」
頭になかったというか…と言う本音がちらちらと頭をかすめるが、どこまで言っていいものかわからない。しどろもどろな説明に気付いていないはずがないのに、アルフォンスは真っ直ぐに私を見つめて言葉の続きを待っていた。私は冷や汗をかきつつなんとか言い訳を考える。そして私の中でせめぎ合い、討論をしていた大臣たちが一斉に白旗を上げた。
「あ!私用事思い出したんだった!ちょっと出かけてくる!」
「翠様!」
アルフォンスの静止の声を振り切って、鞄を引っ掴んで外に飛び出した。そのままスーパーへ一直線に走った。いくら何でも手作りフォンダンショコラに、コンビニのラッピングチョコ税込1050円を渡すわけにはいかない。取り出したスマホでレシピを調べ、簡単に作れる生チョコをターゲットに絞り、板チョコやバター、ココアパウダーなど必要な材料をレジカゴに詰め込んでいった。
家に帰り、ココアパウダーまみれになりながらなんとか作り上げた不格好なチョコレートを、満面の笑みでアルフォンスは食べてくれた。型に嵌めずに作った生チョコだけに、翠先生形無しである。
お菓子作りなど可愛らしいことをしたのは、21年間の人生で初めての経験だった。こんな似合わないことを私が自主的にすることになるとは、夢にも思っていなかった。
私が作った不出来な生チョコとは違い、初めて作ったとは思えないほどの絶妙なトロリンフォンダンショコラ(なんとバニラアイス添えだ)を食べれたのだから、まぁいいかと思うことにした。オーブントースターで簡単にできたとか抜かすのだから、奴の女子力の半端なさに私はもう努力さえ放棄したい。したって許されるはずだ。
周到に用意された罠にはまり、自主的にお菓子を作ったと思うように仕向けられていたなんて、口の周りにココアパウダーをつけて喜ぶ無邪気なアルフォンスの笑みから読み取ることなど不可能だった。
***
ある日の夜。今日はレポートがあるので、預言書はこれを終えてからだと告げると、アルフォンスは自分も預言書ノートのまとめをすると言って、エプロンを外して炬燵に潜り込んできた。そんな姿が、完全に日常の一ページになっている一国の王子様はどうかと思う。
炬燵の中で足と足がぶつかる感覚にも、もう慣れっこになってしまった。基本的にアルフォンスがお行儀よく正座をすることで回避しているが、どうしてもお互いに足を延ばしたくなった時は、足の上に足を置くことにしている。もちろん、下敷きになっているほうがアルフォンスの足である。
このレポートを提出してしまえば春休みだ。小学生、中学生のころはあったかなかったかわからなかった程度の少ない休みが、大学生になると子供の頃の夏休みよりも長くなる。レポートの関係で友達よりも少し遅い春休みのスタートだったが、それでも余りある春休みにほくそ笑む。
「そういえば、翠様は私が姉君を聖女だと言うと否定されるのに、何故私が現れてすぐに姉君を聖女だと推測なさったのですか?」
かねてからの疑問だったのだろう。私はレポートの手を一旦止め、アルフォンスが淹れてくれたコーヒーを啜り始める。すると、タイミングを計っていたかのようにアルフォンスが聞いてきた。
ちなみにアルフォンスは、最初の日に飲んだブランデー入りのホットミルクを愛飲していた。本人が飲めるのなら文句はないが、あまりたくさん未成年に飲ませるのもどうかと思い、量にだけは気をつけるように厳命している。
「アルフォンス、私の名字知ってるっけ?」
「確か、姉君の貴名を伺った時に…サオトメヒジリ様と。」
「そう。ヒジリが姉の名前だから、苗字はサオトメ。漢字で書くと、こう。」
私はアルフォンスが差し出してきた予言ノートに、すらすらと“早乙女”と書いた。
「そんで、ヒジリはこう。」
そのすぐ後ろに、“聖”をつけたす。
「はい、これで“早乙女 聖”。最後の二文字を辞書で引いてごらん。熟語になってるから、先に漢字辞典で読み方を、次に国語辞典で意味を引いたらいいよ」
小学生に教えるような口調にもアルフォンスは素直に頷いて二冊の辞典と睨めっこを始めた。その間に、私もレポートをとっとと終えようと視線を落とす。
「『聖女[せいじょ]―――神聖な女性。多く宗教的な事柄に生涯をささげた女性をさす。』」
「あ、終わった?」
顔を上げた私に、アルフォンスは頷いた。
「うん。そう。お姉ちゃんの名前、後ろから読むと『聖女』なんだよね。なんかこれで小さいころからあだ名になっててさ。お姉ちゃんの同級生はみんな『聖女』って呼んでるから、寝起きの頭には何の違和感もなかったっていうか。」
実際、元同級生たちが姉の弔問に訪れてくれた際に、一様に『聖女が…』『聖女に…』と泣きながら語ってくれたおかげで、しばらく私の知り合いや父の職場関係者などに『故人は何者なんだ?』と思われていたらしい。
「翠様にもあるのですか?漢字に意味が」
私の話を聞いて笑っていたアルフォンスが、ふと思いついたかのようにそういうと、辞書を捲ろうとした。アルフォンスは既に読み方でも画数でも漢字を調べられることが出来るので、私の漢字の意味にすぐに辿り着くだろう。私はアルフォンスの澄んだ両の瞳を見ると、顔を真っ赤に染めて辞書を奪った。
「ないしょ!調べたら髪の毛三つ編みにするからね。」
一度その金髪を三つ編みにしまくって遊んだまま寝たら、次の日くりんくりんになっていた。その姿を見て、『外国の赤ちゃんってこんな感じ~!』と爆笑しながら携帯で写真を撮りまくっていた私を思い出したアルフォンスは、苦笑しつつも首を縦に振ってくれた。
***
「翠様、こちらをどうぞ」
幸せの形は、若草色の風呂敷に包まれていた。
「なにそれ?」
アルフォンスが差し出してきたものを、朝の準備もしっかり終わったというのに未だ頭がぼうとしている私は寝ぼけ眼で受け取った。受け取ってみると、そこそこ重い。こんな物うちにあったかな?と思って引っ繰り返そうとすると、衝撃の一言を見舞われた。
「お弁当です」
「お、お、おべんとう!?」
一瞬にして目が覚めた私は、お弁当と言う名の神々しい物体をすぐに両手で支えた。現金なものである。
「え、なに。じゃあこれからは、無駄に体育系が多いがためにすぐに完売になる購買に走って行ったり、無駄に体育系が多いがために揚げ物とか丼とかガッツリ系ばっかり仕入れてるコンビニに中指立てたり、無駄に体育系が多いがために近くの定食屋がほとんど満員で入れなかったりするお昼事情に、悩まされなくってすむってこと?!」
お礼を告げるよりも先に、咄嗟に本音がポロリと出てきた。体育大学ではないが、運動部がそこそこ有名なうちの大学は結構人口密度が高くなったように感じてしまう男たちが多い。そんな男たちにか弱い一般女子が勝てるはずも無く、お昼戦争はいつも無残に負けていたのだ。
しかし、それも3年の終わりともなれば慣れてくるもので、ここ最近では何の違和感も持っていなかった。むしろお昼こそが本番と言う印象すらあった。そんな私の周りに、手作り弁当をせっせこ朝から拵えて登校してくる女友達などいるはずも無く…類で呼んだ友と仲良く購買にダッシュを繰り返していたのだった。
そんな、そんな日々に終わりを告げる幸せの物体が私の目の前に降り立ってきた。
「“てれび”で特集を組んでいまして、何かと思って調べたところ喜んでいただけるかと思って昨日買って参りました。…大変喜んでいただけたようで何よりです。」
「こちらこそ何よりです!ありがとう。テレビ先生本当にありがとう。アルフォンスに文明の機器を与えた私。本当にありがとう。」
「それ私への感謝が入っているようには思えないのですが」
「小さじ一杯分ぐらい入ってる」
「それは嬉しゅうございます。」
にこにこと微笑むアルフォンスに、私も珍しく嫌味のない笑みを浮かべる。
「アルフォンス、でかしたぞ!大変結構なことです。これは本当に素晴らしい。エキサイティングですね。これからも日々、励むように!」
「はい、かしこまりました。」
女よりもよほど美しい顔でくすくすと笑いながら、アルフォンスは頷いた。
ウキウキと若草色の風呂敷に包まれたお弁当を持って出かけていく私に、アルフォンスがいつも浮かべる無邪気な笑みとは違う笑みを浮かべていたことも、胃袋を完全に掴まれていることにも、私は全然気づいていなかった。
ちなみに、お昼に友人達に高々と掲げて自慢したお弁当は、私の口に一つも入ることなく奪われて終わった。
引用:goo辞書より