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風の書

 ひらひらと一匹の蝶が花びらのように舞っている。柔らかな日差しを跳ね返し、空に描かれる羽の模様は何処と無く艶やかだ。

 蝶はそのまま宙に羽ばたいていくと輝かんばかりの見事な動作で一輪の花に降り立った。

 僅かに揺れ動く真っ白な花びら。

 思えば、こんな些細な羽風が全ての始まりだったのかもしれない。

 蝶の羽ばたきと共に生まれた風の目は、近くの草花を揺らし、広大な平原を駆け抜けて行った。波紋のように広がるそよ風は、辺りの花を優しく撫でながら青い青い空へと飛びたつ。

 花粉をお供にそよ風が向かう先は森。颯爽と生い茂る新緑の葉っぱをふんわりと包み込みながら、そよ風は木の枝と握手を交わしていった。

 大木と踊りながら挨拶をするそよ風は跳ねるように移動して、そのまま幾つかの葉っぱと共に空を泳ぐことにした。

 風雅に羽ばたく野鳥と手をとり、真っ青な空へと飛躍するそよ風。雲を突き抜け体を回転させながらそよ風は気流に乗って空の旅をはじめた。

 雄大に広がる大気に身を任せ、宙返りをしたり側転をしたりと遊びまわる風はふと自分の真下を見降ろした。

 そこには、かつて自分が足をつけていた壮大な大地があり、若々しい木々に覆われ緑色に輝いていた。また、別の方向には、まるで宝石を彷彿させる水平線がどこまでも続き、緑と青の絶妙なコントラストを生み出している。

 風はあまりの絶景に息を呑み、同時に眼下に広がる風景にしばらくの間心を奪われ、身体と同時に精神までもがふわりと浮遊していると錯覚してしまった。

 妙な解放感に包み込まれながら、今のふんわりとした感覚に酔い痴れていると、風は今度は雲の上に寝そべりながら遥か上空を見上げた。

 ゆっくりと流れていく時を感じながら暫し浩然とした気分に陥る風。

 爛々と光る太陽を見つめながら風は自身の胸に手を当てて思った。

 自分は今物凄く感動している、と。

 そのまま雲の上で優雅で安らかな一時を過ごした風は雲の粘土をこねくり回して好きな形に変えながら、雲の隙間から地上を見下ろした。

 どうやら大分東の方に流されたらしく、彼の眼下には煌めく水平線しか残されてはいない。

 しかし、そんな海上に浮かぶ小さな点が。

 つまらなさそうに口元を窄めていた風は突然視界に収まった孤島に意識を向けると、顔をパッと輝かせながらその島に降りていった。

 異なる生態系に歪な形をした植物。どれも風にとっては新鮮で目から鱗だった。

 木漏れ日に照らされながら奇妙な森の中を散歩する風。穏やかな焦げ茶色の地面の上には植物と苔で彩られた多種多様の緑の絨毯が敷かれている。

 一歩踏み出す度に足の裏から伝わる感触は雲とはまた違う感覚を抱かせ、まるで異世界に転がり込んだような気分にさせてくれる。

 風は時折葉っぱを撫でながら迷宮のように入り組んだ森の中を抜けようと出口を探していると、突然何かが耳元で囁くような感覚がして、ふと立ち止まった。

 思わず首をキョロキョロ動かす風に対し、声は「上だ」と短く伝えると、風を軽々しく持ち上げた。

 そう、足元ばかり見ていた風は気づいていなかったのだ。遠くで地面から空へ真っ直ぐ立ち上る一筋の煙に。


 ーーーあれは、何?


 森や空ぐらいしか知らない風は興味心身な様子で声に尋ねると、声は告げた。


 ーーーあれは煙だ。来い。


 そう言って風の手を引く声。風は声の冷たい手の温度が気になったが、それよりも興味心が勝り、付いていくことにした。

 着いた先は、少し拓けた森のはずれ。しかし、そこで目にした光景に風は思わず絶句した。

 木が燃えている。いや、正確には燃やされていたのだ。色とりどりの毛皮に包まれた二足歩行の生き物によって。

 沈みゆく太陽のような色で燃える木を見つめていた風は胸にこみ上げて来た罪悪感に釣られ無意識に目線を逸らす。逸らした目線の先には、先ほどの声、と見たこともない風が佇んでおり、燃え盛る炎を見つめながら風に語りかけてきた。


 ーーーあれは人間だ。野分である彼や木枯らしである俺らが大切にしている木々を私利私欲の為に切り捨て、燃やす自分勝手な奴らだ。


 先ほどの声、木枯らしがそう語ると、今度は野分が風に語りかけてきた。


 ーーーそれだけならまだしも、彼らは他の物も一緒に燃やすからたちが悪いんです。おかげで私の住むあたりは煙だらけ。挙句の果てには変な物質まで燃やすので空気が汚染されて、息苦しいやら辛いやら。


 まるで吟遊詩人のように語る野分に同情の視線を送る風。そしてまた二足歩行の彼らを視界に入れる風に、木枯らしは伝えた。


 ーーー全く。許せねぇ。あいつらは共存っていう言葉を知らねぇんだ。はぁ、どうすれば分かってもらえるんだろうな……。


 その瞳に憎悪の色を滲ませながらも何処と無く諦めたように呟く木枯らしに、風は何も言うことが出来なかった。

 そもそも、なぜ彼らは木を燃やすのだろう。何故自分達の住む地球の空気を汚染するのだろう。

 風はそんなことを思い始めていた。

 人間は自分達にとっていいのか、悪いのか、今の風にはまだ判断がつかない。しかし、風の中の心の天秤は悪の方に傾きつつあった。

 そして風は目撃してしまった。

 日が暮れかけた空を飛ぶ蝶の姿を。そしてその蝶が何かに誘われるように真っ赤な火の中へ飛び込む姿を。


 ーーー…………。


 風は自身の目を疑った。

 とにかく信じられなかったのだ。

 風は嘆いた。愚かにも火の中へ飛んで行った蝶のこと、そして人間が作りだした火のことを。

 風には分からなかった。

 無知であった蝶を嘆くべきなのか、この理不尽な運命を嘆くべきなのか、それとも……。


 ーーー人間め……。


 人間を嘆くべきだったのか。

 初めは只の人間に対しての不快感だったのかもしれない。だが、風の心の中では八つ当たりにも近い小さな怒りの炎が燃え始めていた。

 まるで水面に広がる波紋のように大きくなっていく炎は人間が燃やすものよりも大きくなっていって、そして。


 ーーー懲らしめてやる。


 風は人間に自然の逆襲を味合わせることを心に誓った。

 人間にとってはほんの些細なことであっても、風には耐えられなかったからだ。

 元々、感情自体が単純で素直な風はこうして人間に対して怒りを覚えるようになった。

 それから数日。風は木枯らしや野分と共に島を離れ、陸地まで進むと、人間が育てているという畑や果樹園を枯らし始めた。季節外れの風は農家の人を始め、作物を求めているものを困らせた。

 この時に風が冷静であれば、また人間達を違った視点から見れていたのかもしれない。

 しかし、若さゆえか目の前のことしか眼中に無い風は人間達の住処を、畑を悉く破壊していった。

 強風で折れた枝が屋根や庭を襲い、木枯らしによって生まれた枯葉は道路などをこれでもかと汚している。

 だが、風はそれだけでは満足しなかった。

 所詮、一部を破壊しても関係のない人間には意味が無かったからだ。

 逆に彼らは寒いからといって部屋の中に篭り、更に薪を燃やしたり暖房をつけて汚い空気を外に追い出したり。

 こんなに自分達が伝えようとしているのに人間は分かろうともしない。

 風は悲しかった。怒っていた。困っていた。何をすればいいのかわからなかった。

 風の中で小さな疑問が渦巻いている。何をしても効果がない。

 ならば、もっと規模を広くすればいいのではないか?

 そう考えた風は海に浮かぶ帆船を遠くに流したり、畑のまわりに佇むカカシなどを倒しながら思いついた。

 一人では無理でも複数ならば規模を広げられると。

 思い立ったが吉日。早速風は三日三晩、海から山から色んな風に呼びかけていった。

 人間を懲らしめたい。

 でも、一人では無理だ。

 君達の力が必要だ。

 風はまるで人が変わったかのように、積極的に、活発に、そして狂ったように他の風に声をかけていくと、同じように感じていた同志が海に集まるようになった。

 彼らの周りでは巨大な鼠色の雲が薄気味悪い笑みを浮かべながら、轟くような不気味な笑い声をあげている。

 やがて、風は彼らと一つになり、嵐、いや、ハリケーンに変身すると人間の住む土地に向かって一直線に進んでいった。

 海や浜は泣き、太陽の明るい顔には陰りがかかる。しかし、ハリケーンにはもはや関係のないことだ。

 ハリケーンは怯えて縮みあがった魚や恐怖に一斉に飛び立った鳥達をも巻き込みながら水平線を駆け抜けていくと、彼らの目線の先に小さな灯りを見つけた。

 人間だ。

 彼らの目には既に他の物は映っていない。ただ破壊することだけに専念した化け物にさえ見えてくる殺気を発しながら、ハリケーンは念願の改正と言う名の破壊活動を今宵、開始した。


 その頃、大陸では人間達が眠りについていた。風さえ感じない静寂に包まれた夜。

 それが嵐の前の静けさだと気がついたのは鳥と犬と一部の人間だけだった。

 断末魔を彷彿させるカラスの鳴き声と共にあらゆる鳥達が一斉に飛び立つと、一目散に人間の街から離れていった。

 残されたのは満月も星も見えない真っ暗闇な空に吠える犬と、時折走り去るエンジンの音だけ。

 信号機の色が規則的に変化していく。その度に舗装された道が赤や緑に染まっていく。

 しかし、突然。黄色の灯りが赤に変わるその刹那、赤色のライトが急にチカチカと途切れ途切れに発光すると、プツリと何かが切れる音がした。

 オレンジ色に輝いていた街灯が成りを潜める。

 そして、突如。ビュー、という音と共に街中に余興の冷たい風が通り過ぎると、街の空に薄汚い色をした灰色の雲が現れた。

 何処かで遠吠えをあげていた犬の口からクゥーンという弱々しい音が聞こえてきた。

 ポタリ、と小さな爪垢ほどの雨粒がこぼれ落ちる。

 そして…………。


 ガタン、ガタガタガタガタガタガタガタガタ、バーン!!!


 空から大きな広告用の看板が降ってきたかと思うと、弱々しい声をあげていた犬の真横に落ちた。

 間一髪で避けた犬の脚は恐怖に竦んでいる。

 犬はそのままキャンキャンと鳴いたかと思うと、風の魔の手から逃げ延びるべく走りだした。

 疾風の如く街を駆け抜ける犬。しかしその行く手を阻むように大粒の雨が犬に襲いかかるように降ってきて、犬はずぶ濡れになりながらも必死に脚を動かしていった。


 ヒューン……。


 だが、もう、遅かった。

 犬は腹の辺りに強風を浴びたかと思うと、直様建物の壁に当たり気を失った。

 そして、仄暗い路地裏では、ゴミ箱が風の勢いで倒れてその中身をぶちまけている。溢れ出たゴミからは異臭が漂いはじめ、辺りにこびりついていった。

 道路では空から降ってきた水と、壊れたマンホールから吹き出た下水が辺りを汚らわしい茶色に染めている。もはや吐き気さえ覚える光景に生物のいる影は見当たらない。

 しかし、これはただの序の口。

 ハリケーンによる破壊活動はこんなものでは終わらなかった。

 乗り捨てられていた自転車は、風に押されて幾度と大車輪を繰り返し、とあるアパートの屋根は大洪水に陥って、水の重さと強風に耐えきれずに大きく歪んだ。

 車でさえも飛ばされる異常気象に気休め程度に植えられていた観葉植物でさえも真ん中の幹の部分がポッキリと折れてしまった。

 大惨事。大災害。壊滅状態。

 果たしていずれかの言葉で今の街の状態が表現出来るだろうか。

 こうして、人間の住んでいた街はハリケーンの手によって、木っ端微塵に、支離滅裂に破壊された。

 解体された建物が無数に建ち並んでいる。まるでゴミ屋敷のように積み上げられた木材やガラスがその場全体を覆い、もはや足の踏み場さえ消えている。

 肩で息をしながらそんな街の様子を見ていたハリケーンは急速にしぼんでいく怒りと共に座り込んだ。

 あれほど懲らしめたかった人間はもういないし、彼らが住んでいた街も消した。

 だが、同時に風へと戻ったハリケーンはどこかやるせない気持ちを胸に抱きながら考えた。

 これで本当に良かったのか、と。

 元々熱しやすく冷めやすい性格をした風は罪悪感に苛まれる心の中でそう思った。

 空はすっかり晴れ上がっているのに自分の中では曇りがかかっている。


 ーーーなんでこう、モヤモヤするんだ!自分は地球にとって正しいことをした筈なのに。


 風は何がなんだか分からなくなり無我夢中でどこかに駆け出した。

 目的も当てもなく闇雲に、そして自暴自棄に空高く登っていく風。

 遠ざかる街はゴミ捨て場のように荒れくれている。

 やがて、風は雲一つない澄んだ空に辿り着くと、一人しくしくと泣き出した。

 留まる事を知らない涙に戸惑う風。

 腫れてきた目元を擦りながら風はポツリと呟いた。


 ーーーあれは正しかったのかな?


 自嘲気味に呟く風はじわじわと蝕み始めた自負の念に駆られながら下を見降ろすと、どうやら自分は随分高い所まで来ていることに気がついた。

 なんだか、身体が悴んできて震え始めている。風は既に漏れ溢れていた白い吐息を見つめながらそんなことを感じていた。

 白い吐息の消える先には満天の星空が広がっている。そこら中に散りばめられた星屑を見ながら風はそれらを触りたいと思った。

 高度を上げて大気圏を越えようとする風は、途中サファイア色に輝くオゾン層を見て号泣した。

 吸い込まれんばかりの青色に風は言葉も出ない。前に太陽を見て感動していたが、同じような感動は二度と起きないと思っていた風はあまりの美しさに心を打たれた。

 宇宙はもう、すぐそこまで来ている。なんだか身体がなくなっていく不思議な感覚を覚えながらも登る風の目線の先には星と宇宙の境界線があった。

 この先に進めば自分は消える。そんな思考が頭の中を掠めた。


 ーーーこれで良かったのかもしれない。


 風はこれまでの日々を懐かしく思いながら片足を振り上げた。

 宇宙への一歩を踏み出すその瞬間、風は突然眩い光に包まれたと思うと、彼の前に太陽が現れた。

 眩しすぎて思わず目を隠す。そんな彼をクスッと笑いながら太陽は今度は悲しげな表情を作ると風に尋ねた。


 ーーーこれからどこに行くのですか?


 感情を感じさせない淡々とした声に風は足を止めた。足を下ろしながら俯く風に、太陽はただ優しげに微笑む。風は最初に迷いを感じさせていた表情を振り切ると、どこか諦めたような息を漏らしながら太陽に告げた。


 ーーー責任を取りにここから去ろうと思っています。


 思い出すのは彼が破壊した街だった場所。怒りに振り回されながら暴れていた風は今は悲惨な状態に陥った街を思い返しながら記憶の中に沈んでいった。

 恐怖に怯える子供の後ろ姿に、もはや絶望感に晒されていたとしかいえないほど震えていた犬の瞳、そして必死に鳴き声をあげながら一斉に飛び立つ鳥達の姿。

 一体どれくらいの動物達を恐怖心に陥れたのだろうか。

 だから風はたとえ誰かに何と言われようとも静かに消えていくつもりだった。


 ーーー責任を取る?あなたは気づいていないんですか?これまでの無責任な行動に。本当にこれが最善だと思っているのですか?


 太陽の言葉に一瞬だけ決意が揺らぐ風。確かに今の今まで覚悟は出来ていた筈なのに……。

 これが一番正しいのか、それとも……。

 風には分からなかった。だが、太陽はそんな風の気持ちを察すると優しげにこう告げた。


 ーーーあなたはこれまで人間に対して否定的でした。確かに一部の人間は自分の利益の為に他の生き物を蔑ろにしているかもしれませんし、そんな彼らに罰を与えるのは寧ろ正しいのかもしれません。ですから、だからこそもっと視野を広げて見てください。きっと何か違うものが見えてくるはずです。


 視野を広げる。違うものを見る。

 出来そうで今までやっていなかったことを知って風は無性に悔しくなった。

 そうだ。自分は木を燃やしていた人間のことしか知らないじゃないか。

 それに気がついた時、風の心の中の靄が一瞬で晴れたような気がした。

 人間のいいところを探す。つまり、お互いに破壊しあうのではなくともに生きる為に相手と協力できるところを探すこと。

 風は何も言わずに自分に協力してくれた他の風や雲のことを思い出しながら何故かそんなことを感じた。

 風で吹けばどこか遠くに流されてしまうのに一緒に行ってくれた雲。

 風で乾かせば一瞬で消えるのについて来てくれた雨や水。

 ついさっきまで気づかなかったことに気づいた、いや、気づかされた風は太陽に感謝の気持ちを伝えた。

 そんな風に太陽は、


 ーーー私は何も言っていません。あなたが自分で気がついたことですよ。さぁ、分かったならもう行きなさい。あなたはもう、やることは分かっている筈ですよ。


 そう言って謙遜すると風の背中をそっと押した。

 もう迷いはなくなった風のその後の行動は早かった。

 激しく揺れていた飛行船を元に戻し、一気に下っていく風。迫り来る風圧と気流に文字通り顔を歪ませながら勢いよく落ちていった。青い海のその向こう、のどかな田舎風景を視界の隅に収めた風はそこに向かって一直線に進むと空中で華麗にダンスをしながらゆっくりと降下していった。

 のんびり和やかでほんわかとした丘の上。そこには時代を感じさせる古い風車が回っている。

 その後方では一際背の高い風力発電所が。

 風はこの二つに人間の将来を感じながらふー、とかざぐるまを回すように静かに息を吹きかけた。

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