水の書
山奥の森の中にある岩の陰に一輪咲いた小さな白い花。ポタリ、という音が聞こえた途端、これまた小さな雫が鮮やかな白い光を反射させながらまだ若々しい葉っぱから零れ落ちた。
雫はそのまま地面の中に溶け込むと、土の栄養分をたっぷりと吸い上げながら地中を進んでいく。
やがて雫は仲間を見つけたのかゆっくりと時間をかけて他の雫と結びつきながら水になった。
水は静かに、時が止まったのかと感じるくらいゆっくりと山を下っていくと、暗かった地面の中で出口を見つけたのか、光が差し込むその場所に突き進んで行った。
光目掛けて進んだ先には小さな池がある。水滴が穴からポタポタと落ちる度に池に波紋が広がった。
そうして乾いていた地面が次第に糠るんでいき、ほんの僅かながらに水の通り道が出来ていった。
水は段々とその量と道の幅を増やしていくと、風の音と肩を並べて歌いはじめた。
後に小川となった水は大自然の中でせせらぎ、少しずつ流れを速めていく。
小川が流れを強くしていくと、森の中から動物が現れて水を飲み始めた。小川は動物達に水を分けるとその場を去っていく。
やがて小川は空から落ちてくる葉っぱや折れた木の枝をお供にどんどん下の方へと旅を続けた。
時折ぴちゃん、と小さな魚が水を弾きながら飛び跳ねる。小川は魚や岸達に枝と葉っぱを預けると別の方角からやってきた小川と一つになった。
周りの景色が移り変わり、川は木ばかりだった森から少し開けた場所に辿り着いた。
開けた場所には非常に大きな岩が立ち並び一種の繁華街を形成している。川は角ばった石で出来た中央通りを我が物顔で進んでいくと、たまに欠けた石や岩にこびりついていた苔を買ってそのまま通りを抜けていった。
変わらない道のりに飽きたのか川は少しだけ歩くテンポをあげると、下り道を小走りで駆け下りていく。やがて道が途切れると、川は空を飛んだ。川の水は宙に浮かぶ虹のアーチをくぐりながらそのまま下に落ちていく。バシャンという大きな音と共に水のトランポリンに飛び降りると、川は白い水飛沫と大量の気泡を巻き上げながら無事に着地することが出来た。
流石にこの頃には川は疲れていたのか流れを急なものから緩やかなものに変える。川はゆっくりと進みながら周りを観察していた。
角ばった石や、大きな岩は段々と丸みを帯びて川の形に沿って灰色の列を成している。そして先ほどよりも大きくなった魚が水中で踊ると、川はくすぐったそうに体をくねくねと捩らせた。
何処から現れたのか少しだけ高くなった森の方向から熊が顔を出すと、気持ち良さげに水を浴び始め、水滴を跳ねさせながら魚を取った。川は魚に対する後ろめたい気持ちからか歩くスピードを速めた。
心無しか次第に速くなっていく川に追いつこうと岩が重たい腰をあげて転がり始める。しかし、水の流れについていけないと悟った岩は二、三歩で踏みを緩めると、水で湿った顔を覗かせながら苔で出来た緑色の旗を振って彼らを見送った。
川は角ばった岩を背に着実に前に進んでいた。それこそ諦めた地面が彼らを応援するかのように道を広げてくれるまで。
森の木々達も風に揺られ下っていく川の水達にエールを送っている。
美しい木々達のエールに、川は有頂天になってダラダラと動きが止まったかのように道を下っていく。その時、突然明るく自分と同じように輝いていた空がどす黒い雲に覆われていった。
不安げに灰色に染まりながら空を見上げる川の水達。
すると、空から怒声と共に怒りの雷の鞭が振り落とされた。
ーーーこんなところで怠けて何をしているの?
悲しみを帯びた声で青白い拳骨を落とす雲。川は訳も分からずに怒られたことで怒り狂った。そしてそのまま周りの岩や岸辺の木々達に危害を加えると、彼らは魚達に八つ当たりするかのように泥で水をどす黒く汚した。川の暴走を止めようにも、森や風は自分の身を守るのに精一杯で川を止めることが出来なかった。
すると、空から悔しそうな声と共に一滴の涙が降ってきた。
ーーー子ども達よ。今はダラダラと怠ける時では無い。お前達は何の為に生きているんだ?
雲は一滴、二滴と涙を零すと、そのまま大声で泣き始めた。突然泣き出した雲に意味も分からず狼狽える川の水達。川は背中に降る雨に当たりながら雲の言葉について考えていた。
自分は何をしているのか。今後何処に向かい何をするのか。
答えを出せずにいる水に雲はこう伝えた。
ーーー自分の周りを見てみよ。何が見える。
川は周りを見渡した。見ると木々達は震え、倒れないように必死に重心を支えている。それを見てカチンと頭にきた川は雲を思いっきり睨みつけながら荒々しげに問いかけた。
ーーーあなた方が降らせた雨のせいで木々が怯え、震えています。一体何のつもりですか?
彼らの問いかけに雲は形を変えて首を横に降るとそのまま彼らを見降ろした。
ーーー我々が怯えさせているのではない。その証拠に森の奥を見るが良い。
雲の言葉に従い、森の中を覗く川の水達の目線の先にはザーザーと降る雨の中、楽しげに踊る木々達の姿があった。
その様子にまたしても疑問を抱く川達。川が困惑の色に染まりながら空を見上げると、泣いていた雲の一つが答えを伝えた。
ーーーあなたの周りにいる木々達はあなたの怒りに怯えて震えているの。だからまずは落ち着きなさい。そうすれば自ずと木々も震えを止めるわ。
必死になって落ち着いてみようともがく川。しかし、全くといっていいほど落ち着くことが出来なかった彼らは力ずくで木々をなだめようとした。だがそれでも止めることは無理だったようで、川は涙と泥で顔を汚しながら雲に尋ねた。
ーーーどうすればあなた達のように木々を喜ばせることが出来るのでしょうか?私達には何が足りないのでしょうか?
すると、川の問いかけを嬉しく思ったのか雲が一瞬彼らに微笑みかけた。
そして答える雲達。
ーーーお前達の道は幸いにもたった一つだ。それを急がず遅がず進めばいずれと答えがでるだろう。
雲の返事にしかし、まだ納得出来ない様子の水達。川は必死になって空を見上げると、雲の間から太陽が顔を出して空に虹色の橋をかけた。
雲がまた風に乗って去る間際、最後の別れの瞬間にある言葉を残していった。
ーーーまずは世界を知るんだ、子ども達よ。その為に海を目指せ。そこで様々な生き物の神秘を学びどこまでも旅を続けるのだ。その頃には自ずと答えが見つかっているはずだ。
徐々に遠ざかり消えていく雲達。最後に消える瞬間、彼らは消えいる声でこう呟きながら空の彼方へ消えていった。
ーーー考えるのだ。お前達が何の為に生きているのかを。思い出すのだ。自分のするべきことを。
川はその声を心の中にしっかりと刻み込むと、いつの間にか心にかかっていた靄が消えていく感覚に陥った。
そしてこんなところで留まるのでは無く先に進む決意をする。
こんなところでグズグズしてる場合ではない、早く海に行かなくては。
川はそんな想いで広がった道に合わせて体だけでなく心も成長させると、自分の持てるトップスピードで山道を下っていった。
邪魔者はもういない。そんな想いで我武者羅に前に進むと、段々と木々が減っていき、最後には平坦と続く平野が姿を表した。
風が川の周りの畑を撫でるように駆けっこを始める。川は駆け足で更に速く走りながら途中の畑に水を分けていった。
地平線の向こう側には何があるのだろうか?あの丘の向こうにはどんな世界が広がっているのだろうか?
そんな疑問を浮かべながら平野を駆け抜けていくと、風が先に丘の麓のゴールラインを越えた。
風とはここでお別れだ。川は風に手を振りながら丘の周りを周るように右折すると、丘の向こうの絶景に思わず見惚れた。
山の麓にはたくさんの木々が天然の緑の海を創り出し、その先には赤や青の家の屋根が無数と建ち並んでいる。
川は身体をどんどん成長させながら山の麓まで駆け抜けていった。進むにつれて広がっていく世界にワクワクが隠せない川は人が渡るように作られた陸地の下をかいくぐると、どこからか臭い匂いが漂ってきた。思わず鼻をつまむ川に容赦無く汚水が降り注いでくる。川は次々と足されていく汚水とゴミの量に吐き気を催しながら町の中央を突っ走っていった。
岩よりも硬い壁に挟まれてとても苦しそうだ。綺麗に整備されている町並みとは対象的に水の中はどす黒く汚れていた。そんな川の様子に魚達は息苦しさを感じたのか離れていき、ザリガニでさえどこかへ消えていった。
せっかくこんなに広い道を流れているのにまるで空に押しつぶされたかのようにきつく感じる。川は一人孤独感を味わいながらも着実に下流へと下っていった。
もうあの山も小さく見える。森の木々でさえ見えなくなってきた。既に後戻り出来ないところまで歩んできた川はみすぼらしい身のままに前を向いた。
海がすぐ側まで来ている。浜辺の辺りに住む鳥達のさえずりが耳に心地よい。川は意を決したように最後のひとっ走りをしようと身構えるも、途中で何かに行く手を遮られ立ち往生させられた。
急に道の進行方向が変わる。人工的に作られたその道はまさに驚きの連続だった。先へ進む度に回転したり揺さぶられたりであまりの目まぐるしさに平衡感覚まで失ってしまうようだ。
川は前に行くに従って自分の身体が綺麗になっていくことを実感すると、今度は流れに包み込まれるように身を任せた。
やがて全てのアトラクションを制覇した川は自分と同じように清潔になった他の水と合流して手を取り合いながら仲良く下っていった。
潮風に抱きかかえられる。周りはもう完全に砂だらけだ。川は壮大海に胸を踊らせ、これまでに無い爽快感を味わいながらようやく大海原へと旅立っていった。
もうちっぽけな川ではなく、この世界で一番青い海となった水は海藻で出来た入場券を片手にあちこちを冒険することにした。
色鮮やかな珊瑚礁の舞に感動し、天然の海の水族館に心を奪われる。
小さな命の誕生に涙し、これまでに見たことのないほど大きな鯨に圧倒され、歓喜の言葉をあげる。
日の光が届かない深海では提灯アンコウが明かりを灯し、水のしょっぱさに顔をしかめていると、魚達が甘いランデブーを巻き起こす。
美しい海。綺麗な海。全ての始まりであって全ての終わりでもある海。
さざ波はメロディーを奏で、津波は生き物の命でさえも呑み込む。
海はそんな全てを堪能することが出来たあまり感激して言葉を失ってしまった。
だが、同時に海の中を旅してきた水は気づいてしまった。
海は大きすぎると。努力の汗も悲しみの涙も染み込み過ぎていると。
だから海は考えた。
どうすれば全ての生き物は自分を身近に感じることが出来るのか。
どうすれば彼らに全てを伝えることが出来るのか。
そして海はある答えに辿り着いた。
そうだ。自らを届ければいいんだ。空を飛んで自分の全てを彼らに分け与えればいいんだ、と。
それからの海の行動は実に早かった。
海は空に浮かぶ太陽に頼み自分を軽くするよう頼んだ。同時に太陽のような暖かさを望んだ。
太陽はそんな海の申し出に一瞬戸惑う素振りを見せ雲の間に隠れると海に問うた。
お前は海を離れてもいいのか。必ずしも全ての場所に運べるわけではないがそれでもいいのか。
はい。海は二つ返事で即答すると、全てを受け入れるかのように腕を広げた。そんな海を優しく照らす太陽。
海はただの水となり水蒸気になり雲になると飛びやすいように自分の形を変え出発の準備を整えた。
風は雲の背中を後押しするようにふー、と息を吹くと雲はその風に乗っかってプカプカと前進をはじめた。
町を越え、丘を越え、野原を越え、途中の休憩場所で汗を流しながら大地に潤いを与える。
途中でとどまっている川を見つけると海を目指せと激励した。かつての雲と似たようなことを言っている自分をおかしくも思いながら雲は昔の自分と川を重ねていた。
木が喉を渇かせば水を与え、生き物が争えば涙を流して憩いの場を与えた。
そうしてどんどん小さくなっていく雲は最後の力を振り絞って山頂を目指した。自分が生まれ、自分が旅立った場所へ。
しかし、頂へ向かう途中、雲は小さなうさぎが怪我で倒れているところに出くわした。このままでは山頂に辿り着く前に自分はいなくなってしまう。
そう思った雲はうさぎを見なかったことにして先へ進もうとしたが、あまりに辛そうなうさぎの為に雲はその小さな姿を懸命に変え、これまた小さなうさぎとなって彼をあやした。
うさぎはとても眩しそうに空を見上げている。しかし、うさぎは気力が尽きたのかゆっくりと瞼を閉じるとそのまま土に帰っていった。
うさぎの死に戸惑う雲。このまま進めば自分もうさぎのようになってしまう。恐怖のあまり立ち止まる雲。
白かった顔はどんどん灰色に染まっていき、思考が全て消極的になる。
ヒューと心の奥底で風が諦めようか、と呟いた。
今ならまだ海に戻って全てをやり直せる。若き頃の自分に戻れる。
そう囁いたのは悪魔だったのか天使だったのか。
雲は後ろめたい気持ちで元来た道を振り返っていた。どこまでも広い海があんなに小さく見える。
自分のことを待っている。
そう、雲は感じた。雲は一歩だけ後ろに下がってみた。山頂が小さくなり海が少しだけ大きくなる。
もういいんじゃないかな。諦めてもいいんじゃないかな。
雲が全てを諦めて踵を返そうとするその瞬間、一筋の光が自分より遥か上空にいる太陽からもたらされた。
ーーー雲よ。何をしているのですか?
短い言葉に込められた力強い声。その眩いばかりの太陽に目をしかめながら雲は答えた。
ーーー帰るのです。海に。生命の源に。
雲の言葉に悲しげに目を吊り下げる太陽。しかしそんな太陽も雲のせいで地上からは見えない。太陽は輝きを失った声で雲に聞いた。
ーーーどうして?何故生まれ故郷ではなく、育った川でもなく海に帰ろうとするのですか?
雲はすぐに答えようと口を開いたが、心の中でわだかまりを覚え、一瞬躊躇してしまう。気のせいだと思い直し雲が言った言葉に太陽は素直に耳を傾けていた。
ーーー何故なら海は漲るほどの活力で溢れ、希望に満ちているからです。魚を見れば元気に泳ぎ、水面を見れば弾むように銀色に輝いています。空がおめかしをする際は鏡にもなり、水中を覗けばそれだけで何千何億もの絵画が現れます。そんな美しさや輝きに満ち溢れた海へ帰ることに何か問題はあるのでしょうか?
雲の言葉は本心からのものであったが、彼の言葉には心がこもっていなかった。太陽はそれをすぐに見破るともう一度雲に問いただした。
ーーー何も問題はありませんし、あなたの言葉は本心からくるものだというのも充分に分かりました。ただ、それで本当にいいのですか?あなたが山頂に向かっていたのには何か理由があったのではないですか?
それは…、と雲は言い淀んだ。そして気づいたら震えていた。産まれたての子鹿のように。恐怖に怯える子供のように。
太陽はようやく雲の本心が見えた気がしてふと微笑んだ。そして雲に尋ねた。
ーーー怖いのですね。苦しいのですね。分かりますよ。
雲は太陽の言葉に耳を貸さず、気づいたら怒声の雷を鳴らしていた。
ーーーあなたに私の何が分かるのですか?初めからずっと生き、これからも生き続けるであろうあなたに私の死への恐怖は分かりますか?ずっと輝き続けてきたあなたに永遠の暗闇に呑み込まれなければいけない私の悲しみは分かりますか?
雲は泣いた。今までよりも一番暗く、低く、どす黒い声で。雷は青白く轟き、風は嵐を呼んだ。悲しみに包まれた雲はここで最後の息の根を止めようともがき苦しみ運命に抗った。
今なら帰れる。まだ間に合う。そんな気持ちで。
すると、太陽は雲から目を逸らし、遠くを見つめるように虚空を見るとポツリポツリと語りはじめた。
ーーーあなたの父親もあなたの母親も初めはあなたと全く同じでした。
雲はほんの少しだけ涙を緩めると、太陽を見上げた。
ーーーその上の祖父母も、そのまた上の代も今のあなたと同じように。
雲は自分の耳を塞ごうとした。しかし太陽はそんなことはお構いなしに彼の心へと語りかけてくる。
ーーーそして彼らは戻ろうとしたのです。あなたと同じように。
もうやめてくれ。そんな叫び声が聞こえた気がした。だが、その叫び声も次の太陽の声で掻き消されていってしまう。
ーーー雲よ。
太陽は鋭い声で雲を呼ぶと、正面から真っ直ぐに彼の目を覗き込んだ。
そして………………。
ーーー考えなさい。自分のするべきことを。思い出しなさい。何の為に自分が生まれたのかを。
雲は太陽の言葉を聞いた瞬間、まるでフラッシュバックのように過去の記憶が浮かびあがってきた。
数々の試練、巡り合えた動物達に懐かしい景色。喜びも悲しみもつい昨日のことのように感じられる。
そして雲はかつて自分がまだ川だった頃に聞いた雲の言葉を思い出していた。
ーーー考えるのだ。お前達が何の為に生きているのかを。思い出すのだ。自分のするべきことを。
太陽の言葉と似ているようで違う、違うようで同じ言葉をかつての川は聞いた。そして今、雲となった水にとってこの言葉は憧れでもなく、届かなかった夢でもなく、現実として胸の中で輝いている。
雲はそれを一瞬でも忘れそうになった自分を嘲笑ってやりたい気分になった。そして雲は太陽に別れを告げる。
ーーー太陽さん。私は行きます。自分のすべきことを終わらせに。例えこの身を失おうとも。
雲の後姿は清々しかった。あの小さかった滴も今では盛観そのものだ。
雲は山頂に辿り着くと雪となり、雨となりながら大地を濡らした。
もう雲は霞がかかって見えなくなってきている。やがて雲は静かにその一生を終えると、空気の中へ溶け込み消えていった。
ポタン、としおれた白い花に滴がかかる。
空では太陽が輝くばかりの七色の橋をかけて笑っていた。




