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さて、国王がこの日の政務にあてるはずだった気力をも失っていた頃、その原因たるロランは城の来客が宿泊する際に使う部屋にいた。
当然ながら無許可での使用は許されないが、ここに来るまでの間で彼女を窘められる者は一人としていなかった。
なにせ引きずっていたのが、国王よりも恐れられているマリユスだったのだ。現実だと認識できた者すらいなかったかもしれない。
扉を三つほど蹴破り、ロランは捕らえていた獲物をベッドの上へと投げる。細腕のどこにそのような力があるのだろう。首根っこを掴んで以降マリユスは一言もしゃべっていなかったのだが、彼女はそれを恐ろしさのあまりだと思っている。
「さーて、可愛い泣き顔見せろよ。大丈夫、痛くしないから」
まるっきり悪役のセリフだ。可愛い顔して他人の髪を鷲掴み、舌なめずりをしながら顎に手を添え顔を上げさせるなど、それだけで牢に押し込むべきだろう。それが馬乗りになっていても身長差が歴然な小柄の女であれば悪夢ですらある。
ロランは薄暗いせいもあり、ご機嫌な様子で顔を覗きこんだ。
その時だった。絹のように手触りの良い蒼色の髪の隙間から、ロランの身体を一瞬でも竦ませる鋭い気配が放たれる。
それでも彼女は本能的に危機を察し、素早く距離を取ろうとした。
しかし、ほんの僅かな時間が戦いを左右するように、腕を掴まれあっという間で視界が反転した。しまいには頭の上で両手を拘束される。
それでもロランは、まだ自由であった両足を使い遠慮なく渾身の蹴りを繰り出した。
あいにくと回避されたが、それでも両者の間に距離が生まれる。
「てめえ何もんだ!」
ロランはすぐさま身を起こしながら叫んだ。油断していたとはいえ身動きを封じられた、攻撃を避けられた。それだけでもう相手は素人ではない。
だが返事はない。耳に届くのは、心底楽しそうな笑い声だった。表情は俯いているため分からないが、肩が小刻みに震えている。
すぐに怒髪天を突いた。ロランはベッドに手を付いて起き上がり、飛びかかろうとする。
そこでやっと彼女は気付いたのだ。両手でジャラリと鳴っている物に。
「……は? て、じょう? はあ?!」
それは、とても見慣れているどころか何度かご厄介にまでなっている手錠だった。灯りの乏しい部屋ではシルバーが放つ光沢がとても強調される。
これにロランがどういった反応をみせたかといえば、なんともまあ彼女らしかった。
「おい! たしかにあたしはこういったのも好きだけどな、それはあくまでする方なんだよ! しかも手錠なんて邪道だろ、ここは服を引き裂いてだな!」
この所業が邪道ならば、お前は外道だ。おそらくゴードンならばそう突っ込みを入れたはずだ。
未だ無言なマリユスはなおも笑いながらロランに近付くと、警戒して身構えた彼女をあっさりと組み伏せた。
予想以上に強い力で逃れられない。しかもこいつは人の身体の仕組みを熟知している。さすがのロランも焦り、必死に抵抗する。
なにより一連の身のこなし方が、ロランには裏稼業の人間と被って見えた。気配を殺し存在を溶かし、静かにひっそりと仕事を遂行する暗殺者の動きだった。
そして、間近に迫った瞳の恐ろしさといったら。『誰だこいつを羊なんて言ったのは! あたしか!』思わず心の中で叫んでしまうぐらい狂気をまとって爛々としている。
さらには唇を噛み千切られると思うほどの激しいキスをされ、本気で殺られると覚悟した。
「やっと、手に入れた」
だが、息継ぎすら許されなかったせいで朦朧とし始めた頃、耳元で囁かれた言葉はとても苦しげで――
わけが分からない。なんなんだこいつは、と思考が巡る。だからといって、まんまと騙された挙句好きなようにされて大人しくしていられるほど、ロランは温厚でもか弱くもない。同情心ははるか昔に消えている。
外の世界へと飛び出したのは、十五の誕生日の前日のことだった。今に比べれば中身もはるかに女らしく、容姿にいたっては今以上に可憐だった頃。気合のみが十分で、実力は不十分。そんな剣と棒の違いも分からないような少女は、三日目にして出会った一人の傭兵によって、生きる術を一から全て叩きこまれた。
子供ならば軽々と三人は、大人の女性でも平然とぶら下げられるほどの太い腕が印象的な、筋骨隆々の大男が師匠となってくれたおかげで今の彼女がある。
世界中を放浪するフリーの傭兵であった師匠とは、三年ほど共に旅をした。思い出の中に楽しさはなく、けして優しくもなかったが、それでも感謝の念は大きい。
ただ、そのせいでロランの好みは大幅に偏っただろう。本人に才能が溢れていたこともあるだろうが、育てることに初めから難色を示さなかった師匠は、国外へと出るのをきっかけに別れる際、これまでの養育費だと言って彼女の純潔を奪っていったのだから。
ロランはそれを恨んではいないが、その時に感じた。たとえこういった場面であっても、自分は主導権を握られるのが大嫌いだと。どんな時でも自分を支配するのは自分でなければならない、と。
だから――
「離しやがれっ!」
熱いまなざしを向けるマリユスへ、手加減無しの頭突きをお見舞いした。
彼はぐったりとしていたロランに油断していたのか避けきれず、二人して視界で火花が散ったような衝撃を受ける。
立ち直りが早かったのはロランだった。
「興醒めだ! 帰る!」
そして、手錠をされたまま逃亡を図った。
「逃がすはずがないだろ。俺がどれだけ今日という日を心待ちにしていたか」
だが進路を塞がれ、マリユスの伸ばしてくる手を猫のようにしなやかに避けつつロランは怒鳴った。
「なんなんだよてめえ、あたしを一体どうするつもりだ!」
「安心しろ、監禁なんて野暮な真似はしない。俺流に愛でるだけだ。痛くは……あるだろうが」
「いてえのかよ!」
「仕方が無いだろ。お前は誰にでも笑うが、誰にも泣き顔は見せない。だからそれを俺だけの特権にする」
「変態!」
「お前にだけは言われたくない」
宰相が自分は一生現役だと主張するせいで立場上はまだ補佐のままなマリユスと、失敗なしな凄腕の傭兵団をまとめあげるロランのこの会話が周囲に漏れた日には、国の中枢が滂沱し、百戦錬磨な戦士が項垂れること受け合いだ。低次元を通り越し異次元にまで届いてしまっている。
「寄るな、触るな、ていうか死ね!」
「俺を望んだのはお前だ」
「じゃあ返品だ、返品! それとも死体で返されてえか?!」
「言っとくが俺に刃を向ければ即刻処刑だからな」
次第に、ロランが伸びてくる手を避けるのから、マリユスが彼女からの攻撃を鮮やかな身のこなしで避けるようになっていく。
それにしても、どちらもまともな人間でないのは確実だとして、二人の間には一つだけはっきりとした違いがありそうだった。それはもしかしたら致命的なものになってしまうのかもしれない。
だというのに直情的なロランは気付かず、ことごとく言い負かされていた。
こうして、どが付くほどのサディスト同士の仁義なき戦いの火蓋が切られたのである。
相当に派手な音が響いていたが、誰もがわが身可愛さに部屋へ入って来ることはなかった。




