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吟遊詩人はかく語りき

湖畔の騎士

作者: 冬野 暉

 天井近くの明かり取りから午後の陽光が射しこむ聖堂には、いつものように彼の姿があった。

 最前列の長椅子に背を丸めて腰かけ、祭壇上に吊るされた垂れ幕のようなタペストリーをぼんやり見つめている。古びた木製の扉が大きく軋みながら開くと肩を揺らし、慌てたように振り向いた。

「ごきげんよう、セリオス殿」

 目が合ったのを確認し、わたしはにっこりと微笑んだ。途端にばつの悪そうな顔を返される。

「……こんにちは、ユフィーシアさん」

「毎日のように足を運んでくださるあなたの熱心さには感服致しますわ。今日は、礼拝に参加していただけるのですか?」

「いえ……俺は」

 彼は言葉を濁すと、伏し目がちに視線を逸らした。涼しげな蒼灰色のまなざしに深い影が差し、苦悩の表情を昨日よりもいっそう深刻なものに見せる。わたしは思わずこぼれかけたため息を噛み殺した。

 白い陽射しを浴びて、癖のない短髪が磨き抜かれた銅色に輝いている。セリオス・リットフェルはなかなか見目のよい青年だった。切れ長な双眸とまっすぐ通った鼻筋が清廉で硬派な印象を生み出し、薄い唇がやわらかく綻べばそこに温厚さが加わるだろう。均整の取れた長身は武人らしく引き締まっており、サーコートを翻して歩く姿はさぞ凛々しく颯爽たるものだったに違いない。

 宮廷中の貴婦人を魅了し、ひとたび舞踏会に現れればこぞって淑女たちからダンスの相手に指名されたという噂は伊達ではなかったわけだ。しかし、彼が騎士の装束に袖を通すことは二度となく、今はまるで農夫のようなくたびれたシャツとズボンを纏っている。ただひとつ、傍らに立てかけられた長剣だけがかつての身分を示していた。

「残念なことですわ。町の方々はあなたとの礼拝を心待ちにされておりますのに」

 わたしは眉尻を垂らして苦笑してみせた。先代から町で唯一の教会を受け継いで早五年、町民たちの悩みや愚痴につき合わされる日々で培われた根気強さと演技力をなめないでもらいたい。そうでなければ聖職者なんぞやっていられないのだ。

 どうしても引きずってしまう法衣の裾をさりげなく持ち上げ、わたしはしずしずとセリオス殿の許まで進んだ。これでも一番小さな寸法のものを選んでいるのだが、子どものような背丈しかないわたしには余るほど大きい。

 セリオス殿はあいかわらず気まずそうにしているものの、黙って隣に座ることを受け入れてくれた。最初の頃は午後の礼拝の準備のためにわたしがやってくると、挨拶もそこそこに立ち去っていたというのに。さすがにひと月も経つと観念したのだろうか。

「……すみません、気を遣っていただいているのに……」

 あまりにも申し訳なさそうに呟く元騎士に、わたしはいくぶん声を和らげて「いいのですよ」と応えた。

「わたしのほうこそ、急かすようなことを口にしてしまい申し訳ございません。ただ――町の方々は一日も早くセリオス殿が打ち解けてくださることを願っておられるのだと知っていただきたいのです。もちろん、わたしも含めて」

 彼に対する町民の関心の半分が好奇心だ、とは言わない。残りの半分がセリオス殿を労わり、称えたいという好意であることは事実だ。それだけこの青年が抱える事情は特殊で、人々の心を大いに惹きつけるものだった。

 セリオス殿がこの町――トゥアナグリアにやってきたのは、冬の最後の嵐が吹き荒れる夜のことだった。聖堂で一日の終わりの祈りと感謝を捧げていたわたしは、猪のように扉を蹴破って飛びこんできた闖入者に凍りついた。轟々と唸る雨と風が雪崩れこんでくるなか、漆黒の人影は声を振り絞って叫んだ。

「今すぐ婚礼を執り行ってくれ!」と。

 よくよく目を凝らせば、人影の後ろには寄り添い合う若い男女の姿があった。激しく揺れる灯りが照らし出したのは、ひどく憔悴した顔色のとんでもなく美しい少女と、彼女の肩をきつく抱き寄せている若者。そして黒々とした影のなかから現れたのは、厳しい顔つきをしたセリオス殿だった。

 言葉を忘れて茫然とするわたしに、セリオス殿は切羽詰まった様子で訴えた。

 曰く、後ろのふたりは彼が仕えるこのリオニア王国の王女とその恋人である。若者は王宮の庭園で働く見習い庭師で、王女と身分違いの恋に落ちてしまった。ふたりはセリオス殿の理解と協力を得て逢瀬を重ねていたが、とうとう目撃者が現れて秘密を暴かれてしまった。王女の父である国王は当然怒り狂い、娘を幽閉し、見習い庭師を処断するように命じた。あわや引き裂かれる寸前、セリオス殿の手引きで王宮を脱出し、このトゥアナグリアまで逃げてきたのだという。

 正直に言おう、どこの三文恋愛小説かと思った。

 神官となって実にさまざまな人生の修羅場に遭遇してきたが、まさか王女の駆け落ち騒動に巻きこまれるとは予想もしなかった。今上の御代で王女といえば、〈クースの黒真珠〉とその絶世の美しさを謳われるマルティリーズ姫しかいない。確か、隣国ウェトシーの王太子との縁談が決まったばかりのはずである。

 今にも溶けて消えてしまいそうなほど青ざめた王女の美貌を思わず凝視していると、彼女とその恋人も口々に懇願してきた。もはや自分たちには、このトゥアナグリアの伝説にすがるしか道はないのだと。

 トゥアナグリアは美しい町だ。首都クースより遥か内陸、南の隣国リュトリザにほど近い。町の東側にはリオニアとリュトリザを跨ぐ巨大なグレマール湖が碧い海原のように広がり、穏やかな南風とともに家畜や作物がよく肥える土壌とのんびりした住民の気性を育んだ。おかげで保養地としてそれなりに名が知られているが、たとえば〈象牙色の学都〉が誇るレニス煉瓦のような独自の名産品には欠ける。

 その代わり、この町には古い古い伝説があった。

 およそ五百年前、リオニアという国が産声を上げて間もない時代。かつて母なる海レーテスを抱く沿岸地方は、悪名高き〈災厄の王〉によって支配されていた。邪神ウルスに魂を捧げて不老不死を手に入れた〈災厄の王〉はいかなる刃や毒を以てしても倒すことができず、人々は常闇のような苦しみに喘ぎ続けていた。しかし、地上の惨状を憂えた天空の女神ミアの計らいによって、長きに渡る暗黒の世は終焉を迎えることになる。

 ミアは自らのしもべである聖獣リオノスに、異界から『最も優しく勇敢な心を持つ者』を連れてくるように命じた。リオノスは三千世界の時空を超え、ついにひとりの若者を見出した。彼こそがのちのリオニア初代国王――この世で唯一〈災厄の王〉を滅ぼすことのできた聖剣カレトヴルッフの使い手に選ばれ、数多の冒険と戦いの末に宿敵を打ち倒し、安寧と秩序の光をもたらした〈明星あかぼしの君〉――その尊さゆえに御名を秘されたことから〈呼ばわれることなき勇者〉と謳われるお方だ。

 勇者には、ともに戦い、のちに忠臣となった仲間たちがいた。そのひとりに〈湖畔の騎士〉と呼ばれる男がいる。彼はとりわけ勇者からの信頼が篤い清廉潔白な騎士で、建国戦争の際にも獅子奮迅の活躍を見せたという。しかし、〈湖畔の騎士〉は戦後間もなく勇者たちの許から姿を消した。

 彼はある女性と密かに情を交わしていた。彼女はなんと敵方の生き残り――〈災厄の王〉の血を引く娘だった。勇者に対する背信と知りながらも、騎士は清らかな心根を持つ娘を憐み、愛さずにはいられなかったのだろう。愛しい女を殺すことなどできず、苦悩の末に彼は恋人を連れて逃げ出したのだ。

 騎士の裏切りを知った勇者たちはふたりを追いかけた。南へ南へとひた走った騎士と娘は、とうとう美しい湖のほとりで捕らえられてしまう。勇者は娘を殺して自分たちの許に戻ってくるよう騎士に迫った。しかし彼は剣を投げ捨て、自らの首を差し出した。

 自分の命と引き替えに恋人を見逃してほしいと懇願したのだ。

 騎士の深く一途な愛に勇者たちは心打たれ、ついにふたりを許した。晴れて夫婦となった騎士と娘は、たどり着いた湖畔の町――このトゥアナグリアで末永く幸せに暮らしたそうだ。〈湖畔の騎士〉という呼び名もこの逸話に由来している。

 やがて騎士と娘がこの世を去ると、町の人々はふたりの死を悼み、彼らの廟として湖のほとりに教会を建てた。そしていつしか〈湖畔の騎士〉は苦難の愛を導く聖人として信仰されるようになり、彼が眠る教会で結ばれた恋人たちに永遠の祝福を与えるという言い伝えが生まれたのである。

 トゥアナグリアは〈恋人たちの聖地〉、あらゆる困難によって許されぬ愛に迷う人々が最後の救いを求めて逃げこむ聖域なのだ。

 たとえ王女と見習い庭師であろうと、わたしが治める教会で婚礼を挙げた恋人たちは正式な夫婦と認められ、その誓いは王権にも侵せない。セリオス殿たちがトゥアナグリアにやってきたのも、この慣習に唯一の希望を見出したからだ。

 ……迷わなかったといえば嘘になる。

 同盟国との政略結婚を控えた王女が王族としての責務を放棄すればどうなるのか、平民であるわたしでも容易に想像がついた。自分の手で、愛する故郷を取り返しのつかない動乱の只中に突き落としてしまうのではないかとも思った。だが、声を震わせて恋人を愛しているのだと告げたマルティリーズ姫の頬を流れた儚い涙を、唇を引き結んで彼女を抱き締める若者の覚悟に満ちたまなざしを、そしてただひたすら主君の幸せだけを願うセリオス殿の献身を目の前にして、わたしの心は決まった。

 四国一の美しさと称えられる姫君にふさわしい花嫁衣裳も、祝福の声も、確かな未来も何ひとつない、嵐のなかの婚礼だった。忠節の騎士が見届け人となり、王女と見習い庭師は誓いの口づけを交わし、ふたりは生涯の伴侶となった。あれほど緊張し、感動した婚礼はあとにも先にも一度だけだろう。

 首都からの追っ手がトゥアナグリアに到着したのは、嵐が過ぎ去った翌朝のことだった。

 小さな田舎町は蜂の巣をつっついたような大騒ぎになっていた。泡を食って駆けつけた町長まちおさと追走隊の代表である騎士に、わたしはマルティリーズ姫が愛する男性の妻となったこと、いかなる権力も彼女たちを引き裂くことはできないと宣言した。町長は衝撃のあまり石像と化し、激昂した騎士はわたしに斬りかかってきた。

 わたしの首を狙った刃は、稲妻のごとく鞘走ったセリオス殿の剣によって打ち払われた。

 ――あのときの、彼の背中が忘れられない。

 セリオス殿は二、三撃で騎士をいなすと、すべての責は自分にあると叫んだ。神に仕える聖職者わたしを弑するなど言語道断、また神によって許された主君たち夫婦を捕らえることも天意に反することである、咎はすべて自分が引き受けると。

 そして彼は追走隊に捕縛され、マルティリーズ姫とその夫君は町長の館で保護されることになった。わたしはただ、わたしを守ってくれた騎士の無事を祈るしかなった。

 結論から言うと、セリオス殿は五体満足で解放された。ただし、騎士の称号と位は永久に剥奪され、死ぬまでクースの土を踏むことは許されない。事実上の追放である。

 彼の命を救ったのは、マルティリーズ姫の訴えと――意外すぎることに、彼女の婚約者だったウェトシー王太子の取り成しだった。

 実は王太子にも密かに愛する女性がいて、彼女を正妃に迎えたいと思っていたのだという。だがマルティリーズ姫との縁談が持ち上がり、慎み深い王太子の恋人は自ら身を引こうとしたそうだ。これに恋人との愛を貫くことを決意した王太子は、ウェトシー国王にすべてを打ち明け、もしも許されぬときは王太子の地位も返上すると宣言した。

 困り果てた両国の国王は話し合い、ひとまず政略結婚を次の世代へ持ち越すことに決めた。もともとリオニアとウェトシーの同盟は半永久的なものであり、今回の縁談は改めてその結びつきを強めるためのものだったという。真実の愛を勝ち取ったマルティリーズ姫や王太子の噂はあっという間に市井に広まり、美談として大いに歓迎された。ふたつの国民はそれぞれの王女と王太子を互いに称え合い、思わぬ効果で絆は強くなったようである。

 こうした民衆の反応も、今回の立役者であるセリオス殿の解放につながったのもしれない。

 マルティリーズ姫は王族の身分を返上し、夫君の故郷に移り住んだ。彼女は恩人であるセリオス殿にともに来ないかと誘ったが、彼は「私の役目は終わりました。これから姫のおそばに寄り添いお守りするのは、私ではなくあなたの夫君です」と微笑んで辞退した。

 騎士でなくなったセリオス殿はトゥアナグリアに残ることになった。今は町の安宿のひと部屋を借りて住んでいるらしい。ただ何をするでもなく、湖を見下ろす丘の上で一日中ぼんやりしていたり、思い詰めた表情でひとり酒場で呑み耽っていたりすると耳にした。

 やがてトゥアナグリアで最も美しい季節がやってくると、彼は午前と午後の礼拝の合間にだけ、聖堂に姿を見せるようになった。

 ――セリオス殿がいつも見つめているのは、天空神ミアと、麗しい乙女の姿をした女神を背に乗せた有翼の獅子リオノスが描かれたタペストリーだった。

 このリオニアにおいて、聖獣リオノスは信仰の対象であると同時に王家の象徴でもある。王家に忠誠を誓った騎士の鎧兜には、黄金のリオノスの紋章が誇らしげに輝いているのだとリオニアの子どもならばだれもが知っている。

「……ユフィーシアさんは、リオノスを見たことはありますか?」

 まるでひとり言を呟くような問いかけに、一瞬わたしは反応できなかった。

 セリオス殿から口を開いたのは、はじめてだった。

「え、ええ……幼い頃に一度だけですが、空を飛ぶお姿を拝見したことがあります」

 朝焼けのような金色に輝く鬣、晴天に浮かぶ雲より白く大きな翼、雄々しくしなやかな体躯を包む金剛石のきらめき。まさに有翼覇獣の名にふさわしい勇壮な姿は、今でも鮮やかに思い出せる。

 聖獣リオノス、あるいはその眷属とされる小さな翼獅子モフオンは、五百年以上に渡るリオニアの歴史のなかで何度か地上に降臨している。特に数代前の国王の御代には〈再来の明星〉といわれた異界の乙女とともに現れ、稀代の名君となる王子を戴冠まで導いている。今上陛下はその孫に当たり、リオノスとモフオンは今でも玉座のそば近くに在り続けているそうだ。

「俺は騎士の叙勲を受けたとき、はじめてお目にかかりました。聖獣がご降臨されている御代の新米騎士は、国王陛下に忠誠を捧げたあと、リオノスから祝福を賜ることがしきたりなんです。リオノスがふうっと俺の額に息を吹きかけて――あたたかい、小さな光のようなものが体の中に入ってくる感じがしました。そのとき声が聞こえたんです……」

「声――ですか?」

「人間の声じゃありませんでした。心のなかに直接響いてくるような……とても静かで厳かで、でも優しい声が、『国と民を想う、よき騎士たれ』と……」

 セリオス殿は膝の上でぐっと拳を握ると、深く俯いた。長い前髪がその表情を覆い隠してしまう。

「俺は貴族じゃありません。クースの薄汚い貧民窟で育ったんです。ガキの頃は掏摸なんて日常茶飯事で、そうしなきゃその日の食事にもありつけなかった。父親は知りません。母は酒場の女給で……たぶん、娼婦みたいなこともしていてんだと思います」

 彼がとつとつと語り出した生い立ちは、わたしの胸に冷たく乾いた風を吹きこんだ。セリオス殿がいわゆる成り上がり――貧しい平民の生まれでありながら並外れた剣の才によって王女の近衛騎士にまで上り詰めた実力者だというのは、実は有名な話だ。ただ、真実を知らない者から面白おかしく聞かせられるのと、本人の口から打ち明けれるのとでは重みも深みもまったく違う。

 わたしは息を呑んで耳を傾けた。小さな声の震えすら聞き逃さないように。

「七つか八つの頃だったと思います。あるとき、身形のいい男の財布をいつものように盗ろうとしたんです。だけど俺は呆気なく彼に捕まってしまいました。実は、そのひとは当時の宮廷騎士団の団長だったんです」

「当時の……というと、今の元帥閣下ですか?」

「そうです。かつて〈剣聖〉と称えられたアナトール・ジェルファ侯爵です」

 ジェルファ侯爵家といえば、〈象牙色の学都〉レニスを治めるアリクセン侯爵家とともに『武のジェルファ、文のアリクセン』と称される〈リオニアの双璧〉のひとつだ。リオニア王家とその血に連なる六花公家ろっかこうけに永遠の忠誠を誓った、リオニア建国以来の名門貴族である。そして当代のジェルファ侯爵は、百年に一度の天才といわれるほどの剣士として名高い。

「師匠……アナトール様は生粋の貴族なのに、その、なんというか変わったおひとで……浮浪児みたいだった俺のどこを気に入ったのかわかりませんが、『面白いから私の弟子になれ』と言って俺をご自分の屋敷に連れこんだんです」

 わたしはつい黙りこんだ。それは……誘拐ではないのだろうか?

「俺は何度も逃げ出そうとしたんですが、そのたびにアナトール様に捕まって剣を叩きこまれました。俺はいやでいやでしょうがなかったけど……アナトール様は母を屋敷に招いて、まっとうな女中の仕事を与えてくださったんです」

 微かにセリオス殿の視線が持ち上がる。彼は、どこか遠くを見るような目で――微かに微笑んでいた。

「アナトール様は俺に強くなれと言いました。俺には才能がある、強くなれるだけの素質があると。強くなりたくないか、母を守りたくないかと訊かれて……俺は、自分から剣を取りました」

「……閣下は、なぜセリオス殿に剣を?」

「『自分の手で自分を超える剣士を育ててみたくなった』んだそうです。それならご子息たちがいるだろうと言い返したら、『血にこだわっていたら本当の強さは見出せない』とあっけらかんと笑われて……貴族とか平民とか、そういうものは関係ないんだと言ってもらえたようで、とても嬉しかったことを憶えています」

 鮮やかな銅色の髪の少年が傷だらけになりながら木剣を振り回している姿が思い浮かんだ。それを傍らで見守る壮年の騎士――彼のまなざしは、きっと父親のように厳しくあたたかなものだったに違いない。

 セリオス殿は師の期待を一心に受け止め、まっすぐ育ったのだろう。貧しさから抜け出し、少しでも母親に幸せな暮らしをさせてあげたい。そのために強くなりたいという純粋な願いに差しのべられた手に、少しでも報いようとして。

「俺の叙勲が決まったときは、ご自分のことのように喜んでくれました。母も泣いて嬉しいと言って……だから俺は、国中のだれよりも立派な騎士になろうと決めたんです」

 それなのに――という続く言葉が聞こえたような気がした。

 セリオス殿は激情を堪えるように目を伏せ、唇をきつく噛みしめた。

「……あのとき、リオノスからいただいたお言葉に報いるのなら、本当は姫をお諫めすべきだったとわかっているんです。国を背負う王族として、ときに心を押し殺してでも国に尽くさなければならないのだと……主君が道を誤ればそれを正すことこそ真の忠臣の行いだと、俺は知っていたのに……」

「…………できなかったのですね」

 わたしの言葉に、彼は肩を震わせた。

 できるはずもない。なぜなら――セリオス殿はマルティリーズ姫を愛していたのだから。

 忠誠を捧げた主君としてだけでなく、ひとりの少女として。

 涙をこぼして別れを惜しむマルティリーズ姫の前に跪き、その白く滑らかな手の甲にそっと口づけた彼の横顔を思い出す。少女を仰ぐ蒼灰色の瞳は、切ないほどの憧憬といとおしさに溢れていた。

 マルティリーズ姫の恋の手助けをしたのも、彼女とその恋人を守りながら嵐の最中を駆け抜けたのも、すべては愛するひとのため。まるで語り継がれてきた〈湖畔の騎士〉のように、師への恩返しも騎士としての誓いも何もかも捨てて――己の命すら顧みず、ただひとつの愛に殉じようとしたのだ。

 その想いは、決して叶わぬと知っていながら。

「俺は名前も顔も知らないだれかよりも、姫がお幸せであることを望みました。たとえ国を傾けることになっても、あのひとの苦しむ顔なんて見たくなかった。ずっと笑っていてほしかった。この手で触れられないひとだとわかっていたからこそ……せめて、俺があのひとの幸福を守ってさしあげたかったんです……!」

 とうとうセリオス殿は両手で顔を覆うと、痛々しい嗚咽を洩らした。

 わたしは思わずその背に手を伸ばしかけ、ぎゅっと拳を握りこんだ。この美しくも切ない物語においてわたしは傍観者に過ぎず、彼の告白を静かに受け止める役目だけを求められているのだ。

 細く息をつき、わたしは祭壇を見上げた。年月に色褪せてもなお鮮やかなタペストリーのなかで、波打つ豊かな髪をたなびかせた女神が不変の微笑みを湛えている。

「……セリオス殿は〈湖畔の騎士〉がなぜ『騎士』と呼ばれ続けたかご存じですか?」

「え……?」

 まるで子どものように頬を濡らした青年が顔を上げる。わたしはわずかに首を傾げ、慈悲深いミアのように笑ってみせた。笑えたと、思う。

「彼は建国王に許されたのちも、実は騎士の位を再び得ることはなかったのです。名もない民のひとりとして妻との平凡な幸せを望んだ……。しかし、人々は後世に残るまで彼を騎士の鑑と賞賛しました。それは、彼が『ただひとりのための騎士』だったからです」

「ただ、ひとりのための……?」

「彼はこう言い残したといいます。『騎士とは、決して変わらぬ真心を持って守るべきひとに尽くす存在である』と。そして彼は、生涯をかけて愛する伴侶の騎士であり続けたのです」

 確かにセリオス殿は国に尽くす騎士としては失格かもしれない。だが心から愛したひとを守り抜き、そのひとのためにすべてを捧げようとするほどまでに深い想いは、何にも恥じぬ誇り高い真心だとわたしは思う。

 だれもが高らかに称えるだろう、セリオス・リットフェルこそが忠愛のなんたるかを知る真の騎士だと。

 そして彼の行いは主君だけでなくウェトシー王太子の心も救い、悲しみではなく喜びでふたつの国を結びつけた。セリオス殿の曇りない想いこそが、この奇跡のような結末をもたらしたのだ。

「胸を張りなさい、セリオス・リットフェル。あなたはマルティリーズ姫の忠実なる騎士の栄誉を約束され、末永くリオニアの民に語り継がれるでしょう」

 泣き濡れた双眸が大きく見開かれ、震えた。

 なんと押しつけがましい言い分だろうか。リオノスが聞いたら呆れてため息をついたかもしれない。だがきっと、この国で生きて死んでいった人々の営みをだれよりも長く見守り続けてきた存在ならば、こう言うだろう。

「だれかを愛し、想う心こそ、そのひとの生きるふるさとを、国を、やがてすべてを想い、守りたいという願いにつながっていく。あなたはこれからもこのリオニアを想い、守り続けていくのでしょう。――あなたが愛するひとが生き、愛する国を」

「俺、は……」

 マルティリーズ姫に笑っていてほしいというセリオス殿の言葉が、ほんの少しだけわかった気がした。彼が笑ってくれたら、わたしはきっと簡単に幸せになれる。

 わたしは懐から手巾を取り出し、セリオス殿の頬をそっと拭った。せめてこれくらいは見逃してほしい。

 すると、端整な騎士の面立ちがみるみるうちに赤い林檎のようになった。銅色の髪から覗く耳の先まで真っ赤に染まり、触ったら火傷しそうなほどである。

「セリオス殿?」

 いったいどうしたのかと顔を覗きこむと、彼は勢いよく身を引いてそのまま床に転げ落ちた。

「うわッ」

「だ、大丈夫ですか!?」

 石でできた床はひどく堅い。案の定痛そうな音が聞こえ、セリオス殿は頭を抱えて呻いている。

「どこを打ちました? 痛みは?」

「す、すみません……平気です」

 よろよろと立ち上がったセリオス殿は、なぜか長椅子に座り直さずわたしの前に片膝をついた。それが騎士の礼だと気づき、わたしは慌てた。

「どうぞ立ってください、あなたが跪くべきお方はマルティリーズ姫おひとりでしょう!」

「……いいえ、優しきおひとよ。あなたへの敬意と感謝に、どうか私に騎士であることをお許しください」

 しっかりと落ち着きを取り戻した声でセリオス殿は言った。わずかなはにかみを帯びた、だが清々しい笑みがそこにあった。

 わたしは言葉を忘れた。

「あなたのお言葉が思い出させてくださいました。母や師、姫が生きるこの国を愛しいと思い、だからこそ守りたいと願ったはじまりの心は――確かに私のなかに息づいていたのだと。この手が剣を握られる限り、民が私を騎士と呼んでくれる限り、死してなお我が魂はリオニアの守護者のひとりとなりましょう」

 手巾を持つ手を優しく包みこまれる。まるで姫君のようにわたしの手を押し戴き、セリオス殿は凛と告げた。

「あなたたちリオニアの民に、いつまでも変わらぬ親愛と忠誠を」

 熱くやわらかな唇が手の甲に触れた。一瞬の口づけに、わたしは泣きたくなった。

 ああ、確かに彼は騎士なのだ。わたしたちの騎士、愛すべきリオニアの騎士。

 その強い想いがたまらなく嬉しく、ほんの少しだけ切なかった。

 わたしはセリオス殿の手に片手を重ねた。

「ありがとう――もうひとりの〈湖畔の騎士〉」

 すると、セリオス殿は目を細めて微笑んだ。少年のように屈託のない、晴れ渡ったリオニアの空を思わせる笑顔だった。

 それだけで、わたしには充分だった。

 ふと聞き慣れた鐘の音が天井から降ってきた。わたしはハッと我に返り、慌てて立ち上がった。もうすぐ午後の礼拝がはじまってしまう!

 セリオス殿も時刻に気づいたのか、目を瞬かせて腰を上げる。なぜかつながれたままの手にわたしがおろおろしていると、「ユフィーシア」と笑みを含んだ声が呼んだ。

「俺も礼拝に参加してもいいですか?」

「もっ、もちろん! きっと皆さん喜びますわ」

「あなたは?」

 きょとんとセリオス殿を見上げると、照れたように笑いながら蒼灰色の瞳が見つめてくる。彼は子どものような表情の持ち主らしい。

「あなたは喜んでくれますか」

「……ええ、心から歓迎致します。セリオス殿」

「セリオス、と」

「え?」

「よかったらセリオスと呼んでください。……ユフィーシア」

 そこではじめて敬称をつけずに呼ばれたことに気づき、わたしは混乱と歓喜と羞恥にどうしようもなくなった。ぱくぱくと口を動かしていると、彼はいたずらが成功したように軽やかな笑い声を上げた。

 とりあえず、参拝者が扉を開けるまでに火照った頬をどうにかしなければならない。




 のちに、セリオス・リットフェルは〈湖畔の騎士〉と謳われるようになる。

 彼の深い忠愛の心はリオニアの人々に愛され、その後の活躍とともに長く語り継がれていった。騎士の傍らには常に灰銀の髪と若草色の瞳を持つ少女のような神官の姿があり、トゥアナグリアを訪れる数多の恋人たちに祝福を与え、〈騎士に守られし聖母〉と呼ばれて広く慕われたという。

 トゥアナグリアに残る伝説と同じく、セリオス・リットフェルの物語はこんな風に締め括られている。〈湖畔の騎士〉は愛するひとと結ばれ、いつまでも幸せに暮らしました――と。

拙作は、異世界召喚競作企画『テルミア・ストーリーズ+』の『テルミアおまけ部門』参加作品です。作中の設定の一部は企画元よりお借り致しました。


Image song いきものがかり『ふたり』

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― 新着の感想 ―
[一言] とても美しい小説だと思いました. 出てくる単語,目に浮かぶ情景,ストーリー,舞台,背景となる歴史,伝説,すべてがていねいで美しいです. 常に神官であり続けようとするユフィーシアを見ていると…
[良い点] すごい良かったです! 騎士の苦悩とそれを癒そうとする聖職者っていう設定から、キャラクターの台詞の一つ一つ、描写の一つ一つが全て素敵でした。きゅんとしました。 ぜひ、この後二人が結ばれるまで…
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