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婚約破棄された公爵令嬢は、王国の未来ごと王太子を見限りました 〜後日談〜

作者: 猫撫子
掲載日:2026/10/24

実はこの話は本編より先に完成していたのでひょっとしたら若干の話のズレがあるかも…

アリシア・フォン・ヴァレンシュタインとの婚約破棄から、一年と半年が経過した。

王都では、ある噂が囁かれるようになっていた。

――次期国王は、国王になれる器ではない。

最初は、ごく一部の貴族たちの間で交わされる小さな囁きだった。

しかし、その噂は次第に広がり、今では王都の商人や職人、さらには酒場に集う平民たちまでもが口にするようになっていた。

原因は、明白だった。

王太子エドワードが、あまりにも無能だったのである。

アリシアが去った直後こそ、王宮の混乱は一時的なものと考えられていた。

優秀な官僚がいる。財務卿も法務卿もいる。王国には長い歴史があり、優れた制度も整っている。

一人の令嬢がいなくなった程度で、国家が傾くはずがない。

その考え自体は間違っていなかった。

問題は、エドワードが、その制度を動かすために必要な人材を育てず、必要な知識も身につけず、必要な責任も果たしてこなかったことだった。

彼は十年以上もの間、アリシアに依存していた。

報告書の内容を理解できなければ、彼女に説明させた。

外交交渉で判断に迷えば、彼女の作成した案を採用した。

財政問題が起きれば、彼女に解決策を考えさせた。

そして、すべてがうまくいけば、自分の手柄として報告した。

その結果、彼の周囲には、彼自身の能力を正確に評価できる者がほとんどいなかった。

いや、正確には、評価していた者たちはいた。

ただし、その評価は、彼が望むものではなかった。

「殿下。本日の会議にて、北部諸侯から重大な申し入れがございました」

財務卿が報告した。

「また北部か。今度は何だ?」

「王室直轄領からの穀物供給について、従来の供給計画を見直すよう求められております」

「なぜだ。契約は続いているはずだろう」

「ヴァレンシュタイン公爵家の支援が終了した影響で、輸送費と管理費が増加しております。その負担を王室が負うのか、各領地で分担するのか、改めて協議したいとのことです」

「そんなもの、今までどおりでよい!」

「それでは、供給を維持できないと申しております」

「ならば、維持できるよう命令しろ!」

財務卿は、しばらく沈黙した。

「……殿下。命令だけで穀物が運ばれるわけではございません」

「何だと?」

「輸送費を支払う必要がございます。馬車と人員を確保する必要もございます。各領主との契約もございます。何より、現在の王室予算では、従来の条件を維持することが困難なのです」

「予算が足りないなら、税を増やせばよい!」

財務卿の顔から、表情が消えた。

「税を増やせば、商人の負担が増し、商品の価格が上がります。農民への影響も避けられません。しかも、現在の状況で増税を行えば、諸侯の反発を招く可能性がございます」

「では、どうしろというのだ!」

「支出の見直しと、段階的な制度改革を提案いたします」

「そんな面倒なことをする必要があるのか!」

エドワードは机を叩いた。

「アリシアなら、もっと簡単に解決していたぞ!」

その言葉に、財務卿は目を閉じた。

そして、静かに告げた。

「殿下。そのアリシア様が、どのような手順で問題を解決していたのか、殿下はご存じでしょうか」

「……何?」

「彼女は、北部の収穫量を調べ、各領地の備蓄量を確認し、輸送経路ごとの費用を算出し、さらに不作に備えた予備計画まで作成しておられました。問題が起きてから慌てて対処するのではなく、問題が起きる前に対策を準備していたのです」

「だから何だ!」

「その準備を、殿下は一度でもご自身でなさったことがおありでしょうか」

室内の空気が凍りついた。

「貴様……王太子に向かって、何を言っている!」

「事実を申し上げております」

財務卿は一歩も引かなかった。

「私は長年、王国の財政を担当してまいりました。殿下がどれほどアリシア様に依存しておられたか、誰よりもよく存じております」

「出ていけ!」

「承知いたしました」

財務卿は一礼し、執務室を後にした。

扉が閉まった瞬間、エドワードは手元の書類を床へ叩きつけた。

「どいつもこいつも……!」

彼は怒っていた。

自分の無能を指摘されたことに。

自分を敬うべき人間たちが、以前ほど従順ではなくなったことに。

そして何より、自分が望んでいた王太子としての生活が、少しずつ崩れていくことに。

しかし、彼はまだ、自分の過ちを認めなかった。

すべてはアリシアのせいだ。

あの女が勝手に去ったから、こうなったのだ。

彼女さえ戻ってくれば、何もかも元に戻る。

そう考えることでしか、彼は自分の現実と向き合えなかったのである。

※


一方、リリアーナ・ベルもまた、追い詰められていた。

彼女は王宮の一角に用意された部屋で、王妃教育の教師と向かい合っていた。

机の上には、王国史、外交法、財政制度、貴族法に関する書物が山のように積まれている。

「リリアーナ様。本日は、隣国との条約における相互関税の仕組みについて説明していただきます」

「……また勉強ですか?」

「はい。前回の試験では、基本的な用語についても十分な理解が確認できませんでしたので、復習から始めましょう」

「もう嫌です!」

リリアーナは教科書を閉じた。

「どうして私ばかり、こんなに苦労しなければならないのですか!」

「王太子妃となられる可能性がおありだからです」

「可能性って何ですの! 私は殿下に愛されているのですよ!」

「それと、王妃としての適性は別の問題です」

「アリシア様だって、私のように勉強していたのでしょう? だったら、私にも同じようにできるはずですわ!」

教師は、静かに答えた。

「アリシア様は、学んだことを実際の政務に活用しておられました。知識を覚えるだけではなく、現実の問題を分析し、解決する能力をお持ちだったのです」

「もう、その名前を出さないで!」

リリアーナが叫んだ。

彼女はアリシアが嫌いだった。

自分より美しく、賢く、身分も高い。

何より、自分がどれほどエドワードに愛されていると主張しても、周囲の人間たちは、いまだにアリシアを高く評価していた。

王宮の侍女たちは、何かにつけてアリシアの仕事ぶりを話題にした。

貴族たちは、リリアーナを前にしても、アリシアが王妃になっていればという話を隠そうともしなかった。

そのたびに、彼女は自分が否定されたような気分になった。

だからこそ、彼女は勉強を続けることができなかった。

知識を身につけるためではなく、アリシアに勝つために王妃になりたかったのだ。

そして、王妃になれば、誰も自分を見下せなくなると信じていた。

「私は、王妃になるのです!」

リリアーナは立ち上がった。

「殿下がそう約束してくださったのですから!」

「では、殿下にお尋ねくださいませ」

教師は淡々と答えた。

「王妃に必要な教育を免除してよいと、国王陛下が認められるのかどうかを」

リリアーナは言葉を失った。

彼女は、国王が自分を王太子妃として認めていないことを知っていた。

それでも、エドワードが王になれば、何もかも変わると思っていた。

しかし、現実は違った。

エドワード自身の権限が制限され、婚約の正式な承認も得られないまま、時間だけが過ぎていく。

王宮での立場は不安定で、貴族の夜会に出席しても、以前のようにエドワードの隣に立つことさえ許されなくなっていた。

「……殿下に相談します」

リリアーナは教室を飛び出した。

そして、その日の夕刻、エドワードの執務室に駆け込んだ。

「殿下! もう我慢できません!」

「何だ、今度は……」

「王妃教育をやめさせてください!」

エドワードは額に手を当てた。

「リリアーナ。何度も言っているだろう。教育は必要なんだ」

「では、殿下は私を王妃にするおつもりがないのですね!」

「そうは言っていない!」

「でしたら、どうして助けてくださらないのですか!」

彼女は涙を浮かべた。

「私のためにアリシア様との婚約を破棄してくださったのに……。私だけが、こんなに苦しまなければならないなんて!」

その言葉を聞いた瞬間、エドワードの顔が歪んだ。

彼は、初めてはっきりと理解した。

リリアーナは、自分が王太子妃になるために何をすべきなのか、ほとんど理解していない。

いや、理解しようとさえしていない。

彼女が望んでいたのは、王太子に愛され、豪華な衣装を身にまとい、誰からも敬われる生活だった。

その地位に伴う責任など、最初から考えていなかったのだ。

「……リリアーナ」

「はい、殿下!」

「お前は、本当に王妃になりたいのか?」

「もちろんですわ!」

「王妃になれば、国民の生活に責任を負わなければならない。外交問題が起きれば、国王を支えなければならない。災害が起きれば、救援のために動かなければならない。自分の好き嫌いで物事を決めることはできない」

「……」

「それでも、王妃になりたいのか?」

リリアーナは、しばらく黙っていた。

そして、やがて口を開いた。

「……殿下がいらっしゃるなら、何とかなるのではありませんか?」

エドワードは何も言えなかった。

かつて、自分も同じことを考えていたからだ。

アリシアがいるなら、何とかなる。

アリシアが考えてくれるなら、自分は困らない。

アリシアが何とかしてくれるなら、自分は努力しなくてもよい。

二人は、驚くほどよく似ていた。

自分が得るものばかりを考え、責任を負うことの意味を理解していなかった。

そして、二人とも、自分の人生を支えてくれる相手が、いつまでもそばにいてくれると信じていた。

「……今日は帰ってくれ」

エドワードは、力なく告げた。

「殿下?」

「今は、仕事がある」

「そんな……!」

リリアーナは泣きながら部屋を出ていった。

エドワードは、彼女を追わなかった。

机の上には、未処理の書類が積み上がっていた。

その中の一枚には、アリシアが作成した過去の財政改革案が添付されていた。

彼は、その書類を手に取った。

そこには、細かな数字と、緻密な分析と、複数の代替案が記されていた。

そして、最後にはこう書かれていた。

『本案を実施する場合、短期的な負担は生じますが、長期的には王室の財政を安定させることが可能と考えます』

エドワードは、初めて、その文章を最初から最後まで読んだ。

理解するまでに、何度も読み返さなければならなかった。

彼は書類を机に戻し、両手で顔を覆った。

「……私は、何をしていたんだ」

答える者は、誰もいなかった。

※


婚約破棄から二年が経過した頃、王宮に一通の報告書が届いた。

差出人は、王都警備隊の隊長だった。

報告書には、かつてリリアーナがアリシアから受け取ったと主張していた脅迫状について、再調査を行った結果が記されていた。

発端は、王宮の文書保管庫の整理だった。

当時の茶会に関する記録と、王宮の備品管理記録を照合していた職員が、脅迫状に使用された封蝋の不自然な点に気づいたのである。

調査は、慎重に進められた。

封蝋の保管記録。

用紙の購入履歴。

書簡を運んだ使用人の証言。

そして、リリアーナの身の回りで働いていた元侍女たちへの聞き取り。

その結果、驚くべき事実が明らかになった。

脅迫状は、アリシアが書いたものではなかった。

しかも、リリアーナは、そのことを知っていた可能性が極めて高かった。

「……何だと?」

国王は報告書を読み終えると、しばらく黙り込んだ。

「リリアーナ・ベルを、ただちに呼べ」

その命令は、王宮を震撼させた。

呼び出されたリリアーナは、最初こそ余裕を見せていた。

「陛下。私に何かご用でしょうか?」

「この書状に見覚えがあるか」

国王は、問題の脅迫状を机の上に置いた。

リリアーナの顔が、一瞬で青ざめた。

「……それは」

「二年前、お前がアリシア嬢から受け取ったと主張したものだ」

「はい……」

「調査の結果、これは王宮の備品を使って作成された偽物である可能性が高いと判明した」

「そ、そんな……!」

「さらに、当時お前に仕えていた侍女が証言している。お前が、アリシア嬢を王宮から追い出すことができれば、王太子殿下が自分を婚約者にしてくださると話していた、と」

「違います! 私はそんなこと……!」

「では、こちらの証言はどう説明する?」

国王が別の書類を差し出した。

そこには、元侍女の署名と証言が記されていた。

「封蝋を用意したのは、お前の指示を受けた使用人だったという。書簡の作成を手伝った者も、すでに証言している」

リリアーナは震え始めた。

「わ、私は……ただ、殿下に近づきたかっただけで……」

その言葉が、彼女の運命を決定づけた。

国王は、冷たい目で彼女を見つめた。

「つまり、お前は虚偽の証拠を用いて、王太子の婚約者を失脚させようとしたことを認めるのだな」

「ち、違います! 私はそこまで……!」

「ならば、すべてを説明しろ」

リリアーナは泣き出した。

彼女は、エドワードに愛されていることを信じていた。

彼が自分を守ってくれると思っていた。

しかし、国王の前では、その愛情も、彼女の涙も、何の役にも立たなかった。

調査はさらに進み、脅迫状だけではなく、茶会での嫌がらせについても、リリアーナ側が事実を誇張していたことが判明した。

アリシアがリリアーナを公然と侮辱したという証言は、複数の関係者による聞き取りで否定された。

むしろ、当時の記録には、アリシアがリリアーナの振る舞いを注意した際も、身分を理由に責めることなく、礼儀や宮廷作法を説明していたことが残されていた。

リリアーナは、それを自分への嫌がらせと受け取り、周囲に被害を訴えていたのである。

そして、その訴えを裏付ける証拠を、自ら偽造させていた。

国王は、長い沈黙の末に命じた。

「リリアーナ・ベルを、王宮から退去させよ。王太子妃候補としての扱いは、ただちに撤回する」

「陛下!」

リリアーナは床に膝をついた。

「どうか、お許しください! 私は殿下を愛しているのです!」

「愛情を理由に、他人の名誉を傷つけてよいと考えているのか」

「そんなつもりでは……!」

「お前のつもりなど、今となっては問題ではない」

国王は、厳しく言い放った。

「お前の行為によって、王太子は誤った判断を下し、王室の信用は傷ついた。ヴァレンシュタイン公爵家との関係も悪化した。その責任を、涙だけで消せると思うな」

その日のうちに、リリアーナは王宮から退去させられた。

彼女を養女として迎えた男爵家にも、調査結果が通達された。

男爵家は、彼女が王太子の寵愛を受けていることを利用し、王宮での地位を高めようとしていた疑いを持たれていた。

当主は関与を否定したが、王宮への虚偽の報告を放置した責任を問われ、宮廷での役職を失った。

さらに、貴族社会での信用も失墜した。

リリアーナを迎えたことで得られるはずだった栄達は、すべて幻となったのである。

リリアーナ自身には、王室からの保護も、王宮での待遇も、もはや残されていなかった。

彼女がかつて夢見た王妃の座。

豪華な衣装。

貴族たちからの称賛。

そして、誰もが自分に頭を下げる生活。

そのすべてが、手の届かないものとなった。

だが、本当の地獄は、そこからだった。

※


リリアーナが王宮を去った翌日、エドワードは国王に呼び出された。

執務室には、財務卿と法務卿、王宮の警備を担当する責任者が同席していた。

机の上には、脅迫状の調査報告書が置かれている。

「エドワード。これを読め」

国王は、短く命じた。

エドワードは書類を手に取り、読み進めた。

読み終える頃には、その顔から血の気が失せていた。

「……リリアーナが、偽造させたのですか」

「その可能性を裏付ける証言と記録がある。法務卿が、引き続き事実関係を確認している」

「そんな……」

彼は椅子に手をついた。

リリアーナは、自分を愛していると言っていた。

自分のためなら、何でもすると言っていた。

そして、自分は彼女を信じ、十年以上も支えてくれたアリシアを切り捨てたのだ。

「父上。私は……私は、騙されたのでしょうか」

国王は、しばらく息子を見つめていた。

「お前は、騙される以前に、自分で考えることを放棄したのだ」

「……!」

「アリシア嬢が証拠の不自然さを指摘した際、お前は何と答えた?」

エドワードは、答えられなかった。

「証拠を示せと言われたとき、お前は何をした? 事実を調べたか。関係者を公平に尋問したか。それとも、相手が気に入らないからと怒鳴りつけたか」

「……申し訳ございません」

「謝罪はもう聞き飽きた」

国王は、厳しい口調で続けた。

「お前がアリシア嬢にしたことは、単なる婚約破棄ではない。十分な確認をせず、彼女の名誉を傷つけ、長年の功績を無視し、その能力を王室から遠ざけた。その結果、王室は実務能力の高い協力者を失い、貴族たちの信頼まで損なった」

「……」

「そして今、彼女に戻ってきてほしいと願っているのだろう」

エドワードは、うつむいた。

国王は、容赦なく言い放った。

「だが、もう遅い。彼女はお前を支えるために生まれてきたわけではない」

その言葉は、エドワードの胸に深く突き刺さった。

「父上……私は、どうすればよいのでしょうか」

「自分で考えろ」

国王は立ち上がった。

「それがお前に足りなかったものだ」

その日、エドワードは初めて、リリアーナに対する愛情そのものを疑った。

自分は本当に、彼女を愛していたのだろうか。

それとも、アリシアのように自分を叱ることもなく、何をしても褒めてくれる彼女に、心地よさを感じていただけなのだろうか。

答えは、簡単には出なかった。

しかし、彼が一つだけ確信できたことがある。

リリアーナを選んだのは、自分自身だった。

彼女を信じることを選び、アリシアを疑うことを選び、婚約破棄を宣告したのも、自分自身だった。

誰かに強制されたわけではない。

だからこそ、責任を他人に押しつけることはできなかった。

それから数日後、エドワードはリリアーナに会いに行った。

彼女は、王都の外れにある男爵家の別邸に滞在していた。

「殿下……!」

リリアーナは、彼を見るなり駆け寄ろうとした。

しかし、エドワードは一歩下がった。

その動作に、彼女の顔が強張った。

「……殿下?」

「リリアーナ。脅迫状のことを聞いた」

彼女の唇が震えた。

「ち、違うのです。あれは……」

「本当のことを話してくれ」

「私は……ただ、殿下と一緒にいたかっただけなのです!」

「だから、アリシアを追い出そうとしたのか?」

「……!」

「偽の証拠まで作らせたのか?」

リリアーナは泣き始めた。

「だって、アリシア様がいなくなれば、殿下は私だけを見てくださると思ったのです!」

エドワードは目を閉じた。

「……私は、お前を王妃にすると言った」

「はい……!」

「だが、それは間違いだった」

リリアーナの表情が凍りついた。

「……どういう意味ですか?」

「私は、お前を王妃にすることはできない」

「そんな……!」

「王妃としての責任を果たせるかどうか以前に、私はお前を信じられなくなった」

「殿下! 私は殿下を愛しているのです!」

「ならば、なぜアリシアを陥れた?」

「それは……!」

「私のためだと言うのなら、なぜ私が正しい判断をするための情報を、自分で壊したんだ!」

初めて、エドワードは怒鳴った。

しかし、その怒声は、かつてアリシアに浴びせたものとは違っていた。

それは、彼自身の愚かさに向けられた怒りでもあった。

「……もう、帰ってくれ」

「殿下……!」

「私は、お前との結婚を約束できない」

リリアーナは、その場に崩れ落ちた。

「そんな……。私は、すべてを失ったのに……」

エドワードは、彼女を見つめた。

かつてなら、彼女の涙を見ただけで、何もかも許していたかもしれない。

しかし、今は違った。

彼女の涙を理由に判断を曲げれば、また同じ過ちを繰り返すことになる。

「……私も、失ったものがある」

彼はそう告げ、背を向けた。

リリアーナは、彼を呼び止め続けた。

だが、エドワードは一度も振り返らなかった。

愛していると言い続けた少女を、彼は自分の意思で置き去りにした。

それは、かつて彼がアリシアにしたことと、驚くほどよく似ていた。

※


脅迫状の事件が公になったことで、王太子エドワードに対する批判は、決定的なものとなった。

貴族たちが問題視したのは、リリアーナの不正だけではない。

彼女の訴えを十分に調べず、王太子という立場を利用して婚約者を断罪したエドワードの判断力だった。

もし、あの夜、アリシアが冷静に反論していなければ。

もし、彼女が偽造の証拠を見抜けなければ。

もし、彼女が長年の功績を説明することさえ許されなかったら。

一人の公爵令嬢は、虚偽の罪によって社交界から追放されていたかもしれない。

そして、彼女が将来の王妃となることを前提に進められていた数々の事業は、さらに大きな混乱に陥っていた可能性があった。

貴族たちは、エドワードに国を任せることを恐れ始めた。

その結果、王宮では、王位継承に関する議論が本格化した。

ある日の王族会議。

国王は、出席者全員を見渡した。

「本日は、王太子エドワードの今後について決定する」

重苦しい沈黙が広がった。

エドワードは、国王の前に立っていた。

すでに、何が議論されるのかを察していた。

「エドワード。お前は王太子としての責任を果たしてきたと思うか」

「……いいえ」

彼は、かすれた声で答えた。

以前の彼なら、反論していただろう。

自分は王太子なのだから、王位を継ぐ権利があると。

しかし、今の彼には、その言葉を口にする資格がないように思えた。

「お前は、婚約者に対して不公正な判断を下した。その判断によって、王室の信用を傷つけた。さらに、王太子妃となる可能性があった者の選定においても、私情を優先した」

国王は、一つひとつ言葉を重ねた。

「そのうえ、政務に必要な知識を十分に身につけず、長年にわたって他者の能力に依存してきた。問題が起きれば責任を部下に押しつけ、反論されれば権威を振りかざした」

エドワードは、うつむいた。

「これらの問題は、一時的な失敗ではない。王太子としての資質に関わる問題だ」

国王は、最後に告げた。

「エドワード・フォン・アルトハイム。お前を王太子の地位から廃する」

その瞬間、会議室が騒然となった。

エドワードは顔を上げた。

「……父上」

「王位継承順位は、次の適格な王族を中心に再編する。お前には、王族としての生活に必要な最低限の待遇を残すが、政務に関する権限は与えない」

「お待ちください!」

エドワードは叫んだ。

「私は……まだ、やり直せます!」

国王は、冷たい目で息子を見つめた。

「やり直す機会は、何度もあった」

「……!」

「アリシア嬢が証拠を示したとき。財務卿が忠告したとき。私がお前を呼び出して叱責したとき。そのたびに、お前は自分を省みることができたはずだ」

国王は、静かに首を振った。

「しかし、お前は変わろうとしなかった。今になって反省したからといって、国民や貴族たちに、再びお前を信頼しろと命じることはできない」

エドワードは、膝から崩れ落ちた。

彼が幼い頃から当然のものとして考えていた王位。

いつか座るはずだった玉座。

そのすべてが、自分の手から離れていった。

「……私は、王になりたかったのです」

その言葉は、誰に向けられたものでもなかった。

国王は、しばらく黙っていた。

そして、静かに答えた。

「王になることと、王にふさわしい人間になることは違う」

エドワードは、何も言えなかった。

その日、彼は王太子ではなくなった。

豪華な宮殿は明け渡され、専属の侍従や護衛も大幅に減らされた。

王宮での発言権は失われ、公式行事での席次も変更された。

昨日まで彼に頭を下げていた貴族たちは、必要最低限の礼儀を保ちながらも、彼との関係を慎重に見直し始めた。

彼の周囲から、人が消えていった。

かつて彼の機嫌を取り、彼を褒め称えていた者たちは、次の王位継承者に近づこうとした。

エドワードに忠誠を誓っていたはずの者たちでさえ、生活と家名を守るために距離を置いた。

彼は、ようやく理解した。

自分が王太子として愛されていたのではない。

王太子という地位に、人々が群がっていただけだったのだ。

そして、その地位を失った自分には、何も残っていなかった。

※


リリアーナの転落も、止まらなかった。

男爵家は、彼女を迎えたことで王室との関係を深め、将来的には伯爵位への昇進さえ期待していた。

しかし、脅迫状の偽造事件によって、その期待は完全に潰えた。

王宮からの正式な通達を受けた男爵は、激怒した。

「お前は、何ということをしてくれたのだ!」

「お父様、私は……!」

「黙れ! お前を養女に迎えたのは、王太子殿下との縁ができれば、家のためになると考えたからだ!」

その言葉に、リリアーナは凍りついた。

「……私を、家のために?」

「当たり前だろう! お前の魔法の才能が評価されたからこそ、我が家はお前を迎えたのだ。王太子妃になれば、我が家の地位も上がる。そう考えていた!」

「でも、お父様は私を娘だと……!」

「今さら何を言っている!」

男爵は机を叩いた。

「お前のせいで、王宮との関係は断たれた! 貴族たちは我が家を笑いものにしている! 商人たちも、これまでのような条件で取引してくれなくなった!」

彼は深く息を吐き、冷たく告げた。

「お前を養女として迎えた判断は、間違いだった」

リリアーナは、その場に立ち尽くした。

彼女は、男爵家の養女になったとき、自分は特別な人間になったのだと思った。

平民だった自分が、貴族の仲間入りを果たした。

魔法の才能がある自分なら、きっと誰よりも幸せになれる。

そう信じていた。

だが、彼女を迎えた男爵家が求めていたのも、彼女自身ではなかった。

彼女の才能。

王太子とのつながり。

それによって得られる利益。

彼らもまた、自分に都合のよいものを求めていただけだったのだ。

数週間後、男爵家は正式に養女縁組の解消を申請した。

手続きは法に従って進められ、リリアーナは再び平民としての身分に戻ることになった。

彼女は、王宮から支給されていた衣装や装飾品を返還しなければならなかった。

贈与の条件が確認できる品々についても、所有権を巡る整理が行われた。

彼女の部屋にあった豪華なドレスは、次々と運び出された。

宝石箱は空になった。

絹の寝具も、調度品も、彼女のものではなくなった。

最後に残されたのは、最低限の衣服と、少額の生活費だけだった。

「……こんなの、嘘よ」

リリアーナは、空になった部屋を見つめた。

「私は、王妃になるはずだったのに……」

誰も答えなかった。

彼女は、かつて自分が嘲笑したアリシアの姿を思い出した。

アリシアには、知識があった。

家族がいた。

領地があった。

自分自身の力で何かを成し遂げる能力があった。

だからこそ、王宮から追い出されても、自分の人生を続けることができた。

しかし、リリアーナには何があるのだろう。

彼女は、王太子の愛情があれば何もかも手に入ると思っていた。

勉強も、仕事も、人間関係も、自分で努力する必要はないと考えていた。

そして今、その愛情を失った。

貴族の身分も失った。

自分を利用しようとした家族からも見放された。

残されたのは、自分が選んだ行動の結果だけだった。

リリアーナは、王都の小さな宿屋で働き始めた。

最初は、貴族だった自分が給仕をするなど耐えられないと思った。

客に頭を下げるたびに、惨めな気持ちになった。

注文を間違えれば叱られ、仕事が遅ければ給金を減らされた。

誰も彼女を特別扱いしなかった。

「私は、王太子殿下に愛されていたのよ!」

ある日、彼女は客に向かって叫んだ。

客は、冷めた目で彼女を見た。

「それで?」

リリアーナは、言葉を失った。

「ここじゃ、仕事ができるかどうかが大事なんだ。昔、誰に愛されていたかなんて、飯の一つも運んでくれないだろう」

客はそう言って、食事を続けた。

リリアーナは、何も言い返せなかった。

かつて彼女が見下していた平民たちは、彼女を見下すために集まってきたわけではない。

ただ、自分たちの生活を送っているだけだった。

そして、その生活の中では、王太子に愛されていたという肩書など、何の役にも立たなかった。

※


それからさらに三年が経った。

アリシア・フォン・ヴァレンシュタインは、二十三歳になっていた。

彼女の領地改革は成功を収め、ヴァレンシュタイン領は王国でも屈指の豊かな地域となっていた。

農業生産は安定し、街道は整備され、学校の数も増えた。

商人たちは領内への投資を増やし、周辺領地からも改革の手法を学びたいという申し出が届いていた。

アリシアは、父アルベルトの補佐を経て、領地経営の中心的な役割を担うようになっていた。

彼女の名声は、国境を越えて広がっていた。

隣国の王族からも、彼女の政治的手腕を高く評価する声が上がっていた。

そして、彼女はその年、隣国の王弟との婚姻を正式に決めた。

相手は、アレクサンドル王弟。

政治と経済に明るく、領地経営にも理解があり、アリシアを単なる公爵令嬢としてではなく、一人の実務家として尊重する人物だった。

婚約発表の知らせは、王都にも届いた。

その報せを聞いたエドワードは、しばらく何も言えなかった。

「……アリシアが、結婚するのか」

「はい。隣国から正式な発表がございました」

侍従が答えた。

「そうか……」

エドワードは、窓の外を見つめた。

彼は、すでに王太子ではなかった。

政務から遠ざけられ、王宮の一角で静かな生活を送っていた。

表向きは王族としての待遇を維持されていたが、重要な決定に関わることはなく、公式行事でも以前のような注目を浴びることはなかった。

それでも、彼は時折、アリシアの噂を聞いていた。

彼女が領地を豊かにしていること。

領民から慕われていること。

他国の王族からも評価されていること。

そのたびに、彼は自分が失ったものを思い知らされた。

そして今、彼女は自分とは無関係の未来を選んだ。

エドワードは、彼女の幸福を願うべきだと理解していた。

しかし、心の奥底では、どうしても考えてしまう。

もし、あの夜に婚約破棄を宣言しなかったら。

もし、彼女の話を聞いていたら。

もし、自分が彼女にふさわしい人間になろうとしていたら。

彼女は、今も自分の隣にいたのだろうか。

だが、その問いに答えはなかった。

彼女は、もう自分の隣にいない。

それが現実だった。

そんなある日、王宮に一人の女性が訪ねてきた。

リリアーナだった。

以前の彼女の面影は、ほとんど残っていなかった。

豪華なドレスも、宝石もない。

身につけているのは、質素な衣服だけだった。

「……殿下」

エドワードは、驚いた。

「リリアーナ……どうしてここへ」

「お願いがあるのです」

彼女は、深く頭を下げた。

「私を、助けてください」

エドワードは黙っていた。

リリアーナは、涙を浮かべながら続けた。

「私は、もう耐えられないのです。仕事はつらく、生活も苦しい。誰も私を助けてくれません」

「……」

「殿下なら、私を助けてくださると思って……」

エドワードは、静かに尋ねた。

「私に、何ができると思っている?」

「殿下は、王族ではありませんか! 私に仕事を用意してくださることくらい……!」

「私は、もう王太子ではない」

「ですが……!」

「王宮の人事を決める権限もない。お前に特別な待遇を与えることもできない」

リリアーナは、絶望したように顔を歪めた。

「……では、私はどうすればいいのですか」

「自分で働き、自分の生活を築くしかない」

「そんな……!」

「私も、そうするしかないのだ」

その言葉に、リリアーナは黙り込んだ。

エドワードは、彼女を見つめた。

かつては、彼女の涙を見れば、何もかも許してしまった。

だが、今は違う。

彼女の人生を、彼が代わりに生きることはできない。

彼女の失敗を、彼がすべて肩代わりすることもできない。

それは、かつてアリシアに対して、自分が理解していなかったことだった。

「……リリアーナ。私は、お前を助けることはできない」

彼女の目から、涙がこぼれ落ちた。

「殿下は、私を愛していたのではないのですか……?」

エドワードは、しばらく黙っていた。

「……あの頃は、そう思っていた」

「では、今は?」

「わからない」

彼は、正直に答えた。

「私は、お前のことを本当に理解していたのか。それとも、自分に都合のよい言葉をくれるお前に甘えていただけなのか。今でも、答えが出ない」

リリアーナは、うつむいた。

「……私は、殿下のためにアリシア様を追い出したのです」

「違う」

エドワードは、静かに首を振った。

「お前は、自分が望むものを手に入れるために、アリシアを追い出そうとした。そして私は、その嘘を確かめようともせず、自分の都合で彼女を切り捨てた」

「……」

「お前だけが悪かったわけではない。私も、同じくらい愚かだったのだ」

リリアーナは、泣き崩れた。

しかし、エドワードは彼女を抱きしめなかった。

慰めることも、約束することもなかった。

彼は、ただ侍従を呼び、彼女が帰れるよう馬車を手配させた。

リリアーナは最後まで、彼に助けを求めていた。

けれど、エドワードは振り返らなかった。

かつて自分がアリシアにしたことを、ようやく理解していたからだ。

誰かの人生を、自分の都合で利用してはいけない。

誰かの能力を、当然のものとして扱ってはいけない。

そして、誰かを失ったからといって、その人に戻ってくる義務が生じるわけではない。

それを理解するまでに、彼はあまりにも多くのものを失っていた。

※


アリシアが隣国へ嫁いだ年、王国では大きな政治改革が行われた。

国王は、王太子の廃嫡をきっかけに、王族の教育制度と政務補佐体制を全面的に見直すことを決めた。

王族が一人の有能な人物に依存することを防ぐため、政務の記録を体系化し、各部署の責任を明確にし、重要な政策については複数の専門家による審査を義務づけた。

それは、本来ならば、もっと早く行われるべき改革だった。

アリシアが王宮にいた頃から、彼女は何度も同様の提案をしていた。

しかし、エドワードは、それらの提案を面倒なものとして扱っていた。

自分が困っていない限り、制度を変える必要はないと考えていたのだ。

結果として、改革は大きな混乱と損失を経て、ようやく実行されることになった。

王室の財政は、数年にわたって厳しい状態が続いた。

一部の公共事業は延期され、貴族への支出も見直された。

過去にアリシアが進めていた計画の一部は、彼女の残した資料をもとに再構築されたが、失われた時間を取り戻すことはできなかった。

王都の商人たちは、王室との取引条件を慎重に見直すようになった。

諸侯の中には、王室への協力を以前より限定する者も現れた。

王国が滅亡したわけではない。

国民の生活がすべて破綻したわけでもない。

しかし、王室が失った信用は、簡単には戻らなかった。

そして、その信用を失わせた責任は、歴史に刻まれることとなった。

王立学院の政治史の講義では、後年、エドワードの失脚が一つの事例として取り上げられるようになった。

講義の題名は、『権威と責任の乖離がもたらす政治的損失』。

教授は、学生たちにこう説明した。

「エドワード元王太子の失敗は、単に無能だったという一言で片づけられるものではない。彼は、能力のある者を正しく評価せず、自分にとって耳の痛い情報を排除し、感情によって重大な判断を下した。その結果、彼を支える仕組みそのものが崩れたのだ」

そして、最後にこう付け加えた。

「優秀な補佐役を失ったことが、彼の失脚の原因だったのではない。補佐役を失って初めて、自分には何ができないのかを理解したことが、問題の本質だったのだ」

学生たちは、その言葉を記録した。

エドワードの名前は、やがて王太子の失敗例として教科書に残ることになった。

かつて、彼が夢見ていたのは、偉大な国王として歴史に名を残すことだった。

しかし、彼が実際に残したものは、後世の王族が同じ過ちを繰り返さないための教訓だったのである。

※


それから十数年後。

エドワードは、王宮から離れた小さな館で暮らしていた。

彼は、王族としての最低限の生活費を与えられていたが、政治に関与することは禁じられていた。

かつて彼の周囲にいた侍従たちは、ほとんどいなくなっていた。

彼の名前を聞いても、わざわざ訪ねてくる貴族は少なかった。

新しい国王は、エドワードを公の場に出すことを避けていた。

それは、兄を憎んでいたからではない。

王室の過去の失敗を、いつまでも国民の前にさらす必要がないと考えていたからだった。

エドワードは、読書をするようになった。

若い頃には退屈だと思っていた政治史や法律書を読み、財政に関する書物にも目を通した。

理解できない箇所があれば、何度も読み返した。

ときには、かつて自分がアリシアに尋ねればよかったと思うこともあった。

彼女なら、きっと丁寧に説明してくれただろう。

しかし、彼はもう、その答えを聞くことができなかった。

ある日、侍従が一通の手紙を届けた。

差出人は、隣国の王宮だった。

手紙には、アリシアが王弟との間に子をもうけ、領地経営にも引き続き携わっていることが記されていた。

彼女は、隣国でも高い評価を受けていた。

農業政策の改善に協力し、教育制度の改革にも関わり、王弟の領地では商業の発展に貢献しているという。

エドワードは、手紙を読み終えると、静かに机の上へ置いた。

「……幸せそうだな」

その声には、かつてのような嫉妬はなかった。

ただ、深い後悔があった。

彼女は、自分がいなくても、立派に生きていた。

いや、自分がいなくなったからこそ、彼女は自分の望む人生を歩むことができたのかもしれない。

彼は、長い間、そのことを考えていた。

自分は、アリシアを愛していたのだろうか。

それとも、彼女が与えてくれる安心と便利さを愛していただけなのだろうか。

彼女が自分のために働き、問題を解決し、いつもそばにいてくれること。

そのすべてを当然のものとして受け取りながら、彼女自身が何を望んでいるのか、一度でも真剣に考えたことがあっただろうか。

答えは、すでに出ていた。

彼は、彼女を理解しようとしなかった。

だからこそ、彼女を失った。

そして、失った後になって初めて、その価値を理解した。

ある冬の日、エドワードは体調を崩した。

医師は、長い療養が必要だと告げた。

彼のもとを訪れる者は少なかった。

新しい国王からは見舞いの品が届いたが、王宮の重要な行事に呼ばれることはなかった。

エドワードは、静かな館で日々を過ごした。

かつての栄光は、遠い記憶になっていた。

王太子としての地位も、未来の国王という称号も、彼の人生から消えていた。

そして、彼の最後の日が訪れた。

枕元には、古い書類が一冊置かれていた。

それは、若い頃にアリシアが作成した政策提案書だった。

長い年月の間に紙は黄ばみ、角は擦り切れていた。

それでも、彼は捨てることができなかった。

書類の最後には、アリシアの署名があった。

エドワードは、その名前を指先でなぞった。

「……すまなかった」

その言葉を聞く者は、誰もいなかった。

彼が謝罪したかった相手は、遠い異国で、自分の家族とともに生きていた。

彼女がこの言葉を聞くことは、おそらく二度とない。

それでも、彼は最後にもう一度、呟いた。

「アリシア……」

そして、目を閉じた。

元王太子エドワードは、静かに息を引き取った。

葬儀は王族としての格式を保って行われたが、国中が悲しみに暮れることはなかった。

彼の死を報じる新聞記事は、小さなものだった。

そこには、王太子の地位を失った経緯と、晩年を静かに過ごしたことが簡潔に記されていた。

かつて、彼は王国の未来そのものだった。

しかし、最後に彼が残したものは、権力を失った一人の男の記録と、取り返しのつかない後悔だけだった。

※


エドワードが亡くなったという知らせは、リリアーナにも届いた。

彼女は、その頃には王都から遠く離れた町で暮らしていた。

宿屋での仕事を辞めた後、何度か職を変え、ようやく小さな仕立て屋で働くようになっていた。

かつて、彼女が身につけていた豪華なドレスを仕立てる職人たちのもとで、今度は自分が布を運び、糸を整え、簡単な縫製を手伝っていた。

仕事は厳しかった。

手先が不器用で、何度も失敗した。

店主に叱られることもあった。

それでも、彼女は働き続けた。

生活するためには、そうするしかなかったからだ。

ある夕刻、仕事を終えたリリアーナは、店主から新聞を受け取った。

その片隅に、元王太子エドワードの死去を伝える記事があった。

彼女は、その文章を何度も読み返した。

「……殿下」

彼女は、椅子に座り込んだ。

かつて、エドワードは自分を愛していると言ってくれた。

彼女を抱きしめ、彼女の涙を拭い、何でも望みを叶えてくれると約束した。

その言葉を信じていた。

彼がいれば、自分は何も心配する必要がない。

彼が王になれば、自分は王妃になれる。

そして、王妃になれば、誰も自分を見下すことはできなくなる。

そう信じていた。

しかし、その未来は、もうどこにもなかった。

彼女は、新聞を胸に抱いた。

「……どうして、こうなってしまったの」

涙がこぼれた。

だが、その問いに答える者はいなかった。

彼女は、自分がアリシアを追い出そうとしたことを思い出した。

アリシアが持っていたものを、自分も欲しかった。

王太子の愛情。

王妃という地位。

誰もが自分を称賛する生活。

そのために、彼女は嘘をついた。

他人の名誉を傷つけた。

そして、その嘘が明らかになったとき、すべてを失った。

「……私が、悪かったのね」

リリアーナは、初めてそう口にした。

それまでは、いつも誰かのせいにしていた。

厳しい教師のせい。

意地悪な貴族たちのせい。

自分を助けてくれなかった男爵家のせい。

そして、最後には、自分を捨てたエドワードのせい。

だが、彼が亡くなった今、彼を責めても何も変わらなかった。

彼女が自分の行動を選んだことも、嘘をついたことも、アリシアを陥れようとしたことも、消えることはない。

それでも、彼女には生きていくしかなかった。

翌朝、リリアーナはいつもどおり仕立て屋へ出勤した。

店主は、彼女が泣き腫らした目をしていることに気づいたが、何も尋ねなかった。

「今日は、この注文を仕上げてもらうよ」

「……はい」

リリアーナは布を受け取り、仕事に取りかかった。

針を持つ指は、以前より少しだけ器用になっていた。

けれど、彼女がかつて夢見た未来は、もう戻ってこない。

彼女は王妃にはなれなかった。

貴族としての地位も失った。

愛していたと信じた男とも、二度と会うことはできない。

そして、彼女が傷つけたアリシアは、遠い異国で幸福な人生を送っていた。

リリアーナは、その事実を受け入れるしかなかった。

彼女の人生は、決して華やかなものではなくなった。

それでも、明日も働かなければならない。

明後日も、その次の日も。

彼女がかつてアリシアに押しつけようとした苦しみは、結局、自分自身の人生に重くのしかかることになった。

それが、彼女の末路だった。

※


それから、さらに十年の月日が流れた。

ヴァレンシュタイン領は、王国を代表する豊かな地域として発展を続けていた。

アリシアは、隣国の王弟妃として家庭を築きながら、政治や経済の分野でも活躍していた。

彼女の助言によって改善された農業制度は、周辺地域にも広がった。

学校教育の制度も整備され、商業の発展によって人々の生活は豊かになっていった。

彼女の功績は、やがて一冊の記録にまとめられることになった。

そこには、彼女が取り組んだ政策の内容と、その成果が記されていた。

かつて王宮で、エドワードの功績として扱われていた仕事の数々も、正式な記録の整理を通じて、アリシアが中心となって進めていたことが明らかになった。

歴史家たちは、彼女を高く評価した。

しかし、彼女自身は、過去の婚約破棄について多くを語らなかった。

ある日、息子が尋ねた。

「母上。昔、王太子殿下と婚約していたと聞きました。本当ですか?」

アリシアは、少し驚いたあと、微笑んだ。

「ええ。本当ですよ」

「どうして、結婚しなかったのですか?」

彼女は、しばらく考えた。

そして、静かに答えた。

「お互いに、進む道が違っていたのでしょうね」

「母上は、後悔していないのですか?」

アリシアは窓の外を見た。

庭園では、子供たちが楽しそうに遊んでいた。

夫は、隣国の政務を終えれば、いつも家族のもとへ戻ってきた。

彼は、アリシアの意見を聞き、彼女の判断を尊重し、彼女が何かに取り組むときには、対等な立場で協力してくれた。

彼女は、自分の能力を隠す必要もなかった。

誰かの機嫌を損ねないために、自分の意見を飲み込む必要もなかった。

そして、自分が努力した成果を、誰かに奪われる心配もなかった。

「いいえ」

アリシアは、穏やかに答えた。

「私は、あのとき、自分の人生を選ぶことができましたから」

彼女は、もうエドワードを憎んでいなかった。

リリアーナを恨んでもいなかった。

彼らがどのような人生を送り、どのような結末を迎えたのかを知ったとしても、わざわざ自分の時間を使って考える必要はなかった。

彼らは、自分たちの行動によって、自分たちの人生を変えた。

アリシアは、自分の行動によって、自分の人生を切り開いた。

ただ、それだけのことだった。

彼女は息子の頭を優しく撫でた。

「大切なのは、自分が何を望んでいるのかを知ること。そして、自分の選択に責任を持つことですよ」

息子は、少し考えてから、うなずいた。

「はい、母上」

アリシアは微笑んだ。

窓の外には、青い空が広がっていた。

かつて、王宮の大広間で婚約破棄を宣告された日。

彼女は、すべてを失ったように見えた。

しかし、実際には違った。

彼女が失ったのは、自分を正しく評価しない男との婚約だった。

そして、彼女が手に入れたのは、自分の能力を自分の意思で使い、自分の望む人生を歩む自由だった。

一方、エドワードは、自分の地位を失ってから、自分が何を失ったのかを理解した。

リリアーナは、自分の望みをかなえるために他人を陥れ、その結果、自分の居場所を失った。

二人とも、後になって自分の過ちに気づいた。

しかし、気づいたときには、もう取り戻せないものがあった。

アリシアは、彼らに復讐する必要などなかった。

彼女が彼らを罰したわけではない。

彼女はただ、彼らのために自分の人生を犠牲にすることをやめただけだった。

その結果、彼らは、自分たちが本当に持っていたものと、他人の献身によって与えられていたものの違いを知ることになった。

そして、その違いを知ったときには、すでに手遅れだったのである。

婚約破棄の夜、エドワードは自分がアリシアを捨てたと思っていた。

だが、本当に捨てられたのは、彼女の力に支えられていた自分自身だった。

そして、彼女を陥れたリリアーナもまた、他人の善意を踏みにじることでしか得られない幸福など、最初から存在しなかったことを思い知ることになった。

アリシアは、二人の末路を見届けるために生きていたのではない。

彼女は、ただ、自分の人生を生きていた。

それこそが、二人にとって最も残酷な結末だった。

なぜなら――。

彼らが失ったものを、アリシアはもう必要としていなかったのだから。

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― 新着の感想 ―
王太子は男爵家の別邸に行ったのに 「……もう、帰ってくれ」 って言ってるのは不自然な気がしますね
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