第5話:整合性の鏡、あるいは愛の残滓
結界の境界が、不自然な「白」に染まった。
物理的な破壊ではない。そこにある色彩やノイズが、まるで「最初から存在しなかった」かのように、均一な無へと塗りつぶされていく。
「……あ、あ……」
部屋の隅で、ミミが短く悲鳴を上げた。
彼女の指先が、端から透過し始めている。世界のシステムが、彼女を「廃棄対象」としてロックした証拠だ。
「……検知。システムの整合、開始」
俺は立ち上がる。
霧の中から、一人の男が歩み寄る。銀の鎧。穏やかな微笑。
それは、今の俺が捨て去った「温度」を宿した、かつての俺自身――『聖騎士アルマスの親友』としてのレトの写し身だった。
「……逸脱を確認」
写し身は、俺と同じ声で、慈しむように告げた。
「修正するね、レト。――君は、そんな顔をしていなかった」
理想の自分が、今の俺を、その表情ごと否定する。
俺は記述を走らせるが、写し身は俺と同じ速度、同じ論理でそれを相殺していく。届かない。俺の指先が、初めて焦燥に震えた。
「……黙ってろ」
俺は、這いつくばるミミの肩を、無造作に掴んだ。
指先から、彼女の精神領域へ強制的なアクセスを仕掛ける。
「っ、が……あ……!?」
ミミの視界が二重に歪む。
自分の胸をかき乱す「恐怖」が、自分の意志を離れて他者の魔力と混ざり合い、吸い上げられていく。
自分の心拍が、目の前の男の冷徹な魔力波形と強制的に同期させられる生理的な嫌悪。
ミミは、自分の心が「部品」として扱われる感覚に、絶叫すら上げられず、ただ絶望的な眼差しで俺を見つめた。
「……上書き(オーバーライド)」
ミミの恐怖を燃料にした、黒い一撃。
写し身の胸元に、修復不能な亀裂が走る。
理想の自分は、悲しそうに微笑みながら、ノイズとなって霧の中へ霧散していった。
「……整合、失敗。再計算まで、三〇〇秒」
システムが一時的に手を引く。
だが、その代償は、俺の胸の奥で静かに支払われた。
脳裏にある、古いログ。
誰かが俺の手を握り、「大丈夫だよ」と笑いかけてくれた映像。
それを「本当のこと」と感じていたはずの重みが、霧散する。
「……レトさん。あなた……」
ミミが、震える声で俺を呼んだ。
「さっき……少しだけ、笑ってました」
俺は、一瞬の沈黙の後、ログを検索した。
「……記録にない。表情筋の不随意な痙攣だ。誤認を修正しろ」
自分の声が、自分でも驚くほど無機質に響く。
「愛されていた」という映像は残っている。だが、それが真実であるという手応えはどこにもない。それはもはや、他人の一生を記録したビデオテープを眺めているような、虚無のデータに過ぎなかった。
ミミは、激しい呼吸を繰り返しながら、膝をついた俺を見上げた。
「……あなたは。あなたは、あと何を捨てるんですか」
俺は答えず、ただ自分の内側の「空洞」を、冷徹に観測し続けていた。




