第3話:感覚の剥離
その日の作業は、防壁の「補強」だった。
拠点の周囲に群生する、猛毒の棘を持つ茨。レトはそれを素手で掴み、複雑な幾何学模様を描くように編み上げていく。
「……っ」
鋭利な棘が、レトの掌を深く抉った。
肉が裂け、鮮血が茨の緑を汚す。
その瞬間、レトの眉根がわずかに寄り、奥歯が小さく鳴った。本能が「異常」を叫び、脳が回避を命じる。〇.二秒。 人間としてのレトがそこにいた。
しかし…
直後、彼の瞳から「焦点」が消えた。
震えかけた指先は一瞬で静止し、彼は流れる血を気にする素振りすら見せず、再び茨を編み込み始めた。
「レトさん、血が……! 痛いんですよね……?」
駆け寄ったミミの声に、レトは手を止めずに答える。
視線は手元の茨に向けられたままだ。
「痛覚信号の流入を確認。……問題ない」
「でも、そんなに深く……」
「信号は検知している。だが、それを『苦痛』として処理する階層の優先度を最低値まで引き下げた。効率に影響はない」
レトは、不安げなミミの顔を覗き込み、唇の端を吊り上げた。
教本通りの角度。だが、その微笑みは左右でわずかに食い違い、剥き出しの傷口と同じくらい、生理的な不快感をミミに植え付ける。
「……痛くないわけじゃ、ないんですね」
「警告灯が点いているだけだ。電球を無視すれば、暗闇でも作業はできる。それだけのことだ」
レトは、それ以上の説明を「非効率」として切り捨て、再び血に濡れた手で茨に触れた。
その夜。
拠点の中、毛布に包まったミミの規則正しい呼吸音が、静かな部屋に満ちていた。
レトは横たわり、眼を閉じている。
肉体は活動を停止し、意識もまた深い眠りへと沈んでいくはずだった。
だが。
暗闇の中、レトの瞼が、勝手に開いた。
理由が分からない。
痛覚は抑制され、肉体の疲労度も許容範囲内。ログを検索しても、睡眠を阻害する「論理的な原因」はどこにも見当たらない。
それでも、レトは二度、三度と寝返りを打つ。
隣で眠るミミが、寝苦しそうに小さく呻く。
その微かな音に反応し、レトの思考回路が勝手に再起動し、解析を始めてしまう。
「……非合理な挙動だ」
暗闇の中で、自分の掌を見つめる。
傷跡はパッチで塞いだが、その奥で何かが脈打っているような、不快な感覚。
朝が来るまで、レトは二度と目を閉じることができなかった。
その横で、ミミもまた、静かに目を開けていた。
眠れない男の気配を、彼女はただ、無言で数え続けていた。




