第2話:不完全なパッチと、記号化された家族
その朝、鳥のさえずりは聞こえなかった。
不自然に静まり返った朽ち木のリビングで、少女は、灰色のペーストが盛られた木皿を前に立ち尽くしていた。
俺は切り株の椅子に深く腰掛け、無言で彼女の挙動をログに記録する。
「……たべて、いいんですか」
掠れた声。俺はただ、短く顎を引いた。
少女がおずおずとスプーンを口に運ぶ。そのペーストは、彼女の壊れかけた肉体を修復するために、俺が栄養価と魔力効率だけを最大化した「最適解」だ。
ひと口飲み込み、彼女は喉を鳴らした。
そして、記憶の底にある何かと照らし合わせるように、ぽつりと。
「……おいしい、です」
その瞬間、俺の瞳に灯っていたわずかな「人間のフリ」が消えた。
「……定義しろ」
「え……?」
俺は身を乗り出し、怯える少女の顔を覗き込む。
「その『おいしい』という出力を構成する要素を、成分ごとに分解し、言語化して俺に渡せ。甘味、酸味、あるいは喉越しという物理的な摩擦係数か? ……早くしろ。俺の記述には、その概念が存在しない。お前がそれを定義し、俺の外部ストレージとして保存させろ。それが、お前に与えられた『パッチの代価』だ」
少女は怯え、視線を彷徨わせながら、必死に言葉を絞り出した。
「……あたたかくて……すこし、ざらざら、してて……お母さんが、つくってくれたみたいな……」
俺の思考が、その一節でわずかにフリーズする。
「待て。……その、最後の『オカアサン』とは何だ。特定の個体名か? それとも、味を構成する特殊な変数か?」
「それは……お母さんは、お母さんです……」
少女は困惑し、俺の「欠損」に触れたことに気づかないまま俯いた。
俺は構わず、彼女が吐き出した拙い形容をすべてログに記録し、脳内で再構成する。熱量、粘度、摩擦、そして「オカアサン」という名の不明なパラメータ。
俺は自分の喉に、その再現コードを流し込んだ。
……沈黙。
五秒。十秒。何も起きない。
俺は微調整を繰り返す。粘度を上げ、熱量を0.5%刻みで変動させ、何度も、何度も、無機質なペーストを喉に流し込む。
少女の呼吸音だけが、静かな部屋に響いている。
何も起きない。
俺の舌の上で、灰色のペーストはただの無機質な物体として、無様に居座り続けている。
「……再現率0%。誤差、許容外」
感情を乗せない呟き。俺は、さじを皿に投げた。
音の消えたリビングに、乾いた陶器の音が響く。
目の前の少女は、俺という「空」を覗き込んだような、底知れない恐怖に震えていた。
だが、俺はそれすらも「生存本能に伴う正常な反応」として無視し、立ち上がる。
「……まあいい。今は、保存しておくだけで十分だ」
俺は、彼女の背中に浮き出る記述を横目で見た。そこにある、管理者のみが触れられるはずの「署名」。俺はそれを、指先でなぞろうとする。
「今日は森の東側に境界を張る。……家を出る前に、個体識別を完了させる。名前を言え」
少女は一瞬、迷うように視線を彷徨わせた。それから、自分を拾ったこの「怪物」の輪郭を確かめるように、小さく問い返した。
「……あなたは、なんて……呼べば、いいですか」
「レトだ」
短く、ただの文字列として提示する。
「勇者パーティに従事していた際、そう定義されていた」
「レト、さん……」
彼女がその名をなぞるように呟いた後、ようやく、自分自身のラベルを差し出した。
「……、……ミミ」
「……いいだろう。お前は、ここから出るな」
少女は答えなかった。ただ、空洞のような俺の瞳を、壊れた何かを悼むように見つめ返していた。
それは救い主を仰ぐ目ではなく、あまりにも壊れすぎた「何か」を悼むような、静かな憐憫の眼差しだったが――今の俺に、それを読み取る機能は実装されていない。
その日の午後。
森の結界を巡回していた俺の『アイ』が、不快なノイズを検知した。
銀色の鎧を纏った、見覚えのある「バグ」たち。
アルマスたち勇者パーティが、俺が最後に置いた『無銘の短剣』の残骸を必死に握りしめて、森を彷徨っている。
「レト! レト、そこにいるんだろ! 頼む、聖剣が……俺たちの力、が……も……」
境界線の向こう側で、かつての「座標」が激しくノイズを撒き散らしている。
俺は指先をわずかに動かし、その領域の「音声」および「干渉」の優先度を最低値まで引き下げた。
叫びは、語尾が形を成す前に霧の中に溶けて消えた。
彼らがそこに存在するという事実は、俺の認識リソースから除外される。
森はただ、静まり返っている。
かつての仲間たちは、届かぬ声に喉を潰し、ただの「未定義のノイズ」としてそこに残された。
俺は切り株の椅子に座り、傍らで震える少女の頭に、再び体温のない手を置いた。
「……おい。お前を『作った』個体への言語定義は、保留でいい。代わりに、明日の日の出までに『温かい』という出力のバグ報告をまとめろ。それがお前の、次のルーチンだ」
少女は答えず、ただ空洞のような俺の瞳を、壊れた何かを悼むように見つめ返していた。




