第1話:世界のバグ、あるいは私の幸福への延命措置
「レト。お前は、もういらない」
聖騎士アルマスの声は、かつての信頼に満ちた響きを失い、ひどく震えていた。
勇者パーティ『天穹の翼』。その拠点の空気は、腐敗した魔法の残り香のように淀んでいる。
「……そうか」
俺は短く答える。
視界――『デバッグ・アイ』に映る世界は、もう限界だった。
リーダーであるアルマスの頭上には【Critical Error : 精神汚染率 82%】の警告が点滅している。彼が振るう聖剣の刀身には、【破損:記述の不整合】というノイズが走っている。
俺は、彼の背中を見ていた。
そこに自分の「座標」を固定し、どんな手を使ってでも、この温かな輪の中に居続けようとしてきた。お前たちの装備を、肉体を、そして折れかけた心を、無理やり「正常」という名のコードで書き換えて。
「お前が俺たちの装備に『触れる』たび、俺たちは自分を失っていく感覚がするんだ。……もう限界だ。これ以上、お前の『呪い』に付き合ってられない」
……そうか。お前たちは、俺の「延命」が、自分たちを蝕んでいることに気づき始めていたのか。
「わかった。荷物をまとめよう」
俺は背を向ける。
その瞬間、脳裏で何かが静かに、けれど決定的に剥がれ落ちる音がした。
(……あれ? 母親が最後に焼いてくれた、あの赤い実の入ったパイ。……あれの名前、なんだっけ。思い出せない。甘かったか、苦かったかも、もう分からない)
心に穴が開く。だが、不思議と悲しくはなかった。
代償として感情が削られるのは、いつものことだ。俺が彼らの「日常」を繋ぎ止めたツケは、俺自身の人間性の欠損として支払われる。
「最後に、これだけは返しておく」
俺は腰から一本のナイフを抜き、テーブルに置いた。
それは、かつてアルマスが「仲間になった印だ」と笑ってくれた宝物だった。
だが、今の俺の目に見えるそれは、ただの『無銘の短剣:耐久値 0/10』。
俺のメンテナンスなしでは、指で触れるだけで砕けるゴミデータに過ぎない。
「……レト、待ってくれ! 俺は……」
アルマスが何かを言いかける。
俺は彼と目を合わせない。今、彼を「許して」しまえば、また俺の心が削られる。今の俺には、もう彼を許すためのリソースは残っていなかった。
拠点を一歩出た瞬間、背後でパリン、と硬い音がした。
アルマスの聖剣が、俺という「パッチ」を失い、本来の寿命に従って砕け散った音だ。
森の奥、俺は朽ち果てた切り株の前に立ち止まる。
そこに手を置く。
(……このままだと、俺は一人で腐る)
その恐怖を、俺は「この木は、座るのにちょうどいい」という理屈ですり替える。
記述を流し込む。
……音が、死んだ。
さっきまで耳の端を撫でていた風の音が、最初から存在しなかったかのように消え去る。
「……やっと、ノイズが消えた」
俺は朽ちた切り株に腰を下ろす。
その時、モノクロに霞む視界の端で、何かが動いた。
泥まみれで、這いつくばる少女。体中を、黒いノイズが蝕んでいる。
「……たす……けて……」
彼女と目が合った瞬間、俺の胸に、かつての温かさが一瞬だけ疼いた。
(かわいそうに。俺が、救ってやらなきゃ)
……だが、その善意は、次の瞬間に黒い歓喜へと書き換わる。
(違う。これは、『俺がいないと死ぬ玩具』が、向こうからやってきたんだ)
俺はひきつった笑みを浮かべ、彼女の額に触れる。
代償の徴収。
今度は、俺の脳裏から【母親】という概念そのものが、音も立てずに霧散した。
「……っ、……あ」
少女の喉から、生きた人間の呼吸が漏れる。
俺は思わず、彼女を抱き上げようと両手を伸ばした。
けれど、俺の手は、彼女の肩の数センチ手前で、不自然に止まった。
(……どうやって、腕を回せばいい?)
俺は「抱擁」という概念を、どこに捨てたのか。
俺の手は、ただ空中で滑稽に彷徨い、結局、彼女の頭を機械的に撫でることしかできなかった。
「……おい。お前を『作った』やつのことを、なんて言ったか。……まあいい。思い出せないなら、俺がお前を定義してやる」
少女は震えながら、俺を見上げる。
その瞳には、救い主への感謝ではなく、理解不能な化け物を見るような、純粋な「恐怖」が宿っていた。
俺はそれを見て、ひどく満足した。
「怯えろ。俺がいなければ、お前はもう形を保てない」
俺の背後で、枯れ果てた切り株が、俺の「支配」を肯定するように、黒い影を長く伸ばしていた。




