インターローグ
ある時、私達は、別れることにした。
理由は、私が、彼の定義に、耐えられなくなったからだった。
私は彼に、何かの我慢の糸が切れたと、言った。
彼は私に、別れようと、言った。
私は、複雑だった。
別れたくはなかった。
でも、彼は彼の定義を崩さなかった。
だから、私は、心の底にもやもやするものがあったまま、悲しみの中で、別れを受け入れた。
…、だからといって、メールや電話がな途絶えたわけではなかった。
それからは友達としての関係を繋ぐことになった。
なので、 いつも通りに、彼に接した。
暫くすると、彼から、CDを贈られた。
私に聴いて欲しい曲の番号が書いてあるメモが入っていた。
私は、きちんと、聴いた。
そうしたら、訳が分からなくなった。
1曲目は、君が戻ってきたら意地を張らない…、という内容だった。
2曲目は、離れたところから主人公をそっと見つめている人を主人公が愛している…、という内容だった。
仕方ないので、電話で、訳が分からないと言った。
そうしたら、彼も、よく分からないと言った。
どうしたいのか、聞いた。
彼は、彼自身の心の底の答えが、分からなくなっている様な事を言った。
そうしたら、暫くしたら、メールが届いた。
次は、彼の定義ではなく、私と向き合ってくれるという内容が書かれてあった。
彼は、何かの殻が破けた様だった。
即に、電話をした。
彼は、鼻水と共に泣いていた。
私は、呆れていたけれども、嬉しさで一緒に泣いた。
私達は、また、何とか付き合う事になった。
…、その後も、やっぱり、彼は、彼だった。
何かに付けて、とても、とても、びっくりする位の、戦国時代の武家の様な、堅っ苦しい定義とやらを持ち出しては、ぶんぶん、振り回した。
私は、いつも、避けているのに直撃してしまい、彼にいつも不満を言っていた。
その都度、別れ話になった。
私は、彼の定義は、私との関係を進展させてはくれないので、本当は、そこまで、私との関係を持ちたくはないのではないかと、不安になり過ぎていた。
彼は、落ち着いていた。
私を不安症だと言った。
不安症でも何でもいいから、私は、彼との仲を、もっと、心から繋がる深いものにしたかった。
それは、自然な流れだと思っていた。
…、私達は、身体の関係が無かった。
キスやハグはしていた。
でも、それも、一度、別れた後からだった。
彼は、再び付き合うようになってから、キスとハグを積極的にする様になった。
彼の中では、とても先に進んだ事の様だった。
でも、私にとって、彼は、とてつもなく、堅物だった。
私は彼に、そんなに石橋を叩いて叩いて叩いてると石橋が壊れちゃうよと、半ば本気に、半ば茶化して言った。
彼は、少し、何かに反応した。
でも、それには、彼の定義を、乗り越えなければならなかった。
彼は彼で、心の底の折り合いを探していた様だった。
そして、私は私で、こんなに手こずった人は、今迄、いなかったから、とても悩んだ。
彼は、私が日本の女性ではなく、欧米の女性みたいだと、よく言った。
彼の中では、私は恋愛の仕方が積極的だなのだそうだった。
私は、本当は、今迄、誰一人と積極的にアプローチした事はなかった。
女たるもの、受け身でいようと、思っていた。
女の私からアプローチする事が、私の美学に反していた。
彼からすると、それは、古風だそうだ。
戦国時代の武家の定義を持ち出す、こちこち頭の彼にそう言われては、笑われてばかりだった。
何となく、納得がいかなかった。
今迄、受け身の私は、どんなに仲が良くなっても、関係が進まない人達も沢山いた。
それは、仕方のない事だとして、諦めていた。
とても悲しい思いを沢山してきた。
私の中で、その美学だけは、女として譲れなかった。
だけれども、彼は、例外だった。
初めて、その美学に反する事を、私の心の底が、私に許した。
私には、何が起こっているのか、分からなかった。
自然に、彼に、近づいた。
心の底が、彼を、求めていた。
だから、我慢しなかった。
私は、私の殻を破る事が出来た。
でも、とてもとても、悔しかった。
それを、いつも、彼に、なじった。
彼は、私の心をよそに、愉快そうに笑ってばかりだった。
そして、いつも、古風だと言った。
付き合い始めてから、最初の頃、彼は、言葉に敏感だった。
彼の中では、好き、愛してる、愛しいの順に、愛情表現をした。
始め、彼は、好きと言ってくれる事から始まった。
そして、愛してる、は、生涯を共にする人にしか言わないと言った。
だから、私には、まだ言えないと、平気に言い放った。
私は、とても、驚いた。
そして、とても、絶望した。
彼の中では、それが定義だった。
仕方がないと、心の底で天を仰いだ。
ある時、私の側に、他の男性が側に来る様になった。
その人は、私が会社に入社した時に、初めて好きになった人だった。
私は、とても嬉しかった。
その人は、とても優しくて、紳士だった。
やっぱり素敵だなと思った。
彼との事で、かなり、神経を疲弊していた私は、その人に心がなびいた。
そうしたら、彼は、手紙に、好きだとか愛してるだとか愛しいだとかを手紙に書いて、私へと渡した。
彼の定義は、一気に崩れた。
ついでに、彼のお得意のCD付きだった。
1曲目は、激しいバラードで彼が私の中で生き続けていきたい、という内容だった。
2曲目は、静かなロックで私の事を忘れるわけないと、叫んでいる内容だった。
私はそれを聴いて、彼の深い思いに気付いた。
彼は私とは本当は離れたくないという事だと思った。
私は、とても、泣いた。
嬉しかったからなのかどうかは分からない。
けれども、私の中で、彼に軍配が上がった。
たから、私は、彼ときちんと向き合おうと思った。
彼は、土壇場で、その他の男性に勝った。
私は、もう一度、彼を見つめようと思った。
それらというもの、毎日、毎日、好きとか愛してるとか言ってくれる様になった。
でも、彼の中では、体の関係は、まだまだの様だった。
私は、とても、悲しかった。
そして、何より、屈辱的だった。
私に、何も、女としての魅力を感じてはいないと言われたも同然だった。
その内に、彼は、実は同性愛者なのではないかと思い始めた。
本当は、彼は、私との事を無理しているのではないのかと思った。
ならば、理解が出来た。
その為に、彼に、メールで尋ねた。
そうしたら、とてつもなく、怒った。
そうして、歳だから性欲が衰えていると、メールに書いてあった。
余りに正直すぎて、とても驚いた。
その時、彼は、53歳だった。
そういうものなのかと一瞬思ったが、不安症の私はそれを疑った。
好きなのに、性欲がないのだろうかと、疑った。
余りに悩んだけれども、誰にも相談しにくかったので、インターネットで調べてみた。
彼の様な人達が、大勢いる事が分かった。
男性は40代から性欲が衰えると書いてあった。
でも、私は、納得がいかなかった。
なので、とてつもなく美人だったらどうかと、検索した。
そうしたら、性欲がなくても関係がなくはないと、書いてあった。
私は、彼の中では、私は少しも美人ではない事が分かった。
少なくとも、好きなのならば、何かしら何かをよく思ってくれていると、思った。
痘痕│(あばた)│も笑窪│(えくぼ)│にもなってはいなかった。
愛してても、心の底で身体が本当の事を言ってしまっているのだと思った。
だから、やっぱり、彼の中では、私は、まだまだの様だった。
彼は、このまま、身体の関係がなくても、充分だったそうだ。
私との関係は、身体の関係がなくても、満たされていたそうだった。
だから、彼の中では、自然な答えだった。
何かしらの悪びれた様子もなかった。
彼は何処までも、彼だった。
かなりの衝撃だった。
男性から抱かなくても充分だと言われたのは、初めてだった。
とても、女として地に落ちた気がした。
いろいろな要因を考えた。
彼は、かなりの面食いだった。
好きな女優さん達は、かなりの美人だった。
でも、彼は、現実と非現実を分かっていた様だった。
世間一般には、あんなに綺麗な女性はいないのが普通だと。
だから、現実を見て、お付き合いをしてきたと言っていた。
なのに、私は抱けなかった。
とても、傷付いた。
そうして、私に、別れてもいいと言った。
なので、悲しみの中で、私は、一度は、お別れのメールを送った。
彼から、お別れの挨拶のメールが届いた。
それには、離れていても、私の事を応援していると。
何かあったら、何時でも、助けてくれると。
だから、何時でも、頼っていいと。
側で支えることはしないと。
そして、これまでの感謝の言葉が書かれてあった。
不甲斐なくて、我儘なのに、付き合ってくれてたと、感謝する、有難うと書かれてあった。
私は、何故か、離れられないと、思った。
なので、ラインを即に送った。
別れたくないと、書いた。
でも、条件付きにした。
私達は、家を継ぐ者同士だから、いつかは分かれると。
そして、その時までは、今迄通りに付き合っていくと。
もし、どちらか一方に、この先の未来の見える人が現れたら、家庭を持てる人が現れたら、別れようと書いた。
彼は、即に、ラインを返信してくれた。
これからも宜しくお願いします、と書かれてあった。
その後に電話が来た時には、彼はわなわな震える涙声で、もごもごもごもごと話し出した。
私も、わなわな震える涙声で、もごもごもごもごと話した。
彼は、私ともう離れてしまうという事が現実になってしまったと言う事から泣いたと、隠さずに話した。
とても、素直で、素敵な人だな、と思った。
私の笑顔にもう会えなくなってしまうのだと、怖かったと話した。
彼は、私の笑顔が好きだと、以前から言ってくれていた。
でも、自然な笑顔がいいから、無理して笑わなくてもいいとも言った。
無理しなくても、私は彼の側にいるだけで、とても笑顔を抑えきれなかった。
色々、他にもあったけれども、その度に、別れ話と仲直りの繰り返しだった。
よく、お互いの将来の話をした。
私は、跡取り娘だから、一人っ子とは結婚出来ないと何度も言った。
すると彼は、暫く考えてから、私の家に、婿入してもいいと言い出した。
もう、彼は、結婚するつもりはなかったそうだ。
子供も作らないつもりだったそうだ。
家の跡を継がないつもりだったそうだ。
彼のお父さんが、家も畑を継がなくてもいいといつも言っていると言った。
好きに生きろと言って、彼の生き方を理解してくれているそうだった。
本当は、彼のお父さんは、家も畑も継ぎたくなかったそうだった。
だから、彼には同じ思いはさせたくないと、いつも言っていたそうだった。
それに、彼のお父さんのお姉さんの3番目の息子が、毎日一緒に仕事をしているから、その人を養子にもらい、跡を継がせると言っていると言った。
その人も、まんざらではないそうだと言った。
だから、婿入してもいいと言ってくれた。
そこまで考えてくれているのなら…と、喜んで両親に話した。
すると、猛反対された。
育ててくれた家を蔑ろに│(ないがしろに)│する様な人なんて、いらないと言った。
両親に、彼の考え方は、受け入れられなかった。
それから、両親は、私の事に深く干渉してくるようになった。
彼と、別れさせようと、躍起になっていた。
私は心の底が疲弊していった。
側で支えてくれたのは、彼だった。
ありふれている事だったけれども、春には桜を、夏には紫陽花を、秋には秋桜を、冬には椿を見に連れて行ってくれた。
陶芸や七宝焼もした。
イルミネーションも何回も見に行った。
都心に行っては、迷子になって、ただ、ぐるぐると歩き回っていた。
彼は、何回も、謝った。
歩かせて申し訳ないと。
私は、全然、気にならなかったのに、彼は、とても、気にして反省までしていた。
それが彼の優しさなのだと、嬉しくなった。
コンビニエンスストアのスイーツを、沢山買ってきてくれた。
私達は、とても太った。
彼は、私が太ったのは、彼のせいだと言った。
だから、暫くは、スイーツを控えて、紅茶か珈琲だけにした。
そして、其々のお誕生会もした。
彼は、手作りのお菓子を持ってきてくれた。
クリスマスもした。
色々な音楽の情報交換をした。
彼は、沢山本を所有していたので、色々な興味がある事を言うと、即に貸してくれた。
そして、やはり、喧嘩もした。
その派手ではないありふれている事の積み重ねが、私の心の底に、深く深く染み込んだ。
暫くすると、喧嘩の仕方が違ってきた。
私は、彼の私への熱量が低いことに、とても悩んだ。
だから、彼に、しょっちゅう、他に好きな人が出来たのかと、聞いた。
その都度、彼は、別れてもいいよと、言った。
だから、私は泣いた。
嗚呼、やっぱり、他に好きな人が出来たんだ。
そう思った。
でも、彼は、私がそう思うのなら、彼に何か落ち度があったのだと、彼自身を責めた。
いつも、いつも、彼は泣いていた。
そして、色々と、感謝の挨拶をした。
そう言われては、とても、おかしな感覚になった。
何故、別れてもいいと言うのかと、責めた。
彼は、また、私の不安症が出たんだと思ったと言った。
私を不安にさせる事は、彼自身の不甲斐ない所から来ていると思い、即に、諦めるしかないと思ったと言った。
私は、俺の側から離れるな、位、言ったらどうなのかと詰った│(なじった)│。
彼は、悪かった、ごめんなさい、今度からそうする…様な事を言った。
そして、また、泣いた。
彼は、昔は、彼自信に非があるなんて、絶対に口にしなかった。
でも、その時の彼は、非を認めて内省的になり、即に諦めてしまう人になっていた。
だから、私が悪いのかと思いだした。
彼は、疲れていて、私との関係を終わらせても良いと思っているのだと思った。
それが、余計に、私を、不安にさせた。
私は、負のスパイラルに陥ってしまった。
暫くして、彼とまだ付き合っている事を、母に気付かれてしまった。
母は、彼と付き合っていても、いつか捨てられると、その時傷つくのは私なんだと言った。
彼は、この先、家庭を持って、彼の子供を作る事が出来ると。
でも、私にはそれが無理だから、彼の幸せの邪魔をしてはいけないと言った。
彼は跡取り息子だから、その家を守らなければならないと。
もし、子供の産める年齢の女性と結婚して、子供が産まれなくても、それは、周囲が認めてくれるだろうと。
彼等を非難する人達は誰もいないだろうと。
でも、私は初めから子供が産めないと分かっているのに結婚したら、彼の血を受け継いだ跡取りが絶えてしまうと。
分かっていて、跡継ぎが出来なかったのと、努力しても跡継ぎが出来なかったのとでは、雲泥の差なんだと。
それは、申し訳のない事だ、と言った。
確かに、そうだった。
私達の問題だけではなかった。
家庭を持つという事は、そういう事だった。
だから、私は母に、彼とは結婚はしないと、静かに言った。
彼に、誰かいい人が現れるまで付き合うと言った。
母は、まだ、心配していた様子だった。
心の底の整理が出来ていた訳ではなかったけれども、理屈はとても理解できた。
彼に、その事を打ち明けた。
彼は、私の母は、なんだかんだと言っても私が傷付かない様にしていると言った。
母は、私が矢面に立って傷付かない様にしてくれていると言った。
私は、そう言われるまでは、分からなかった。
母に深く感謝した。
彼と、共に、別れる事を前提とする、お付き合いが、季節をくぐり抜けていった。
ある時、彼は、月に一度の生産部と設計部と調達部の定例会議に出席しなかった。
休憩時間に、調達部の方に彼の事を尋ねた。
急用が出来て、郷里へ戻ったそうだ。
私は、即に、彼の身内の方に何かあったのだろうと察した。
とても心配した。
暫くすると、私の事を考えていた。
何も言わずに帰っていった…。
それが、とても、悲しかった。
この様な時に、自己中心的な考え方のは分かっていた。
とても、自己嫌悪に陥った。
そして、来る時が来るかもそれないと、覚悟を決めた。
泣かない様にしようと、心に決めた。
静かに静かに、時は流れた。
お昼の休憩時間になり、スマートフォンをチェックした。
彼から、メールとラインが入っていた。
おじいちゃんが危篤だと書いてあった。
夜に連絡出来るかどうか分からないと書いてあった。
私は、彼に、大丈夫だから、気にしないで、お家の事に集中して欲しいと書いた。
そして、その日の内に、彼のおじいちゃんは亡くなってしまった。
それからは、葬儀が終わるまで、忙しくしていた様子だった。
都合のつく限り、連絡は取り合った。
数週間経った時に、彼は職場に復帰することになった。
彼は、色々と手続きを手伝っていた為に、実家へと頻繁に帰っていった。
2人だけの時間はなかなか作れなかった。
それは、仕方のない事だと、理解していた。
暫くすると、彼は、3ヶ月後に、退職すると言った。
もう、上司にも総務部にも伝えていたそうだった。
彼の実家の林檎が、これから収穫の時期を迎えるから、とても人手が必要で、おじいちゃんの抜けた穴を埋める為に、彼が急遽戻る事になった。
私は、これからは、最後まで、波風立てない様にしていこうと誓った。
私達の関係は、いつ終わるのか、分からなかった。
でも、きっと、退職する迄は、続くと思った。
3ヶ月間を、大切に一緒に過ごそう思った。
私と彼とのカウントダウンは、始まった。
ただ、一緒に、話をしながら、刺し子をした。
色々とデートを重ねた。
やはり、喧嘩もした。
私の今迄お付き合いしてきた人達は、皆、車から降りる時には、助手席のドアを開けてくれた。
彼は、それをしてくれた事はなかった。
なので、それを彼に質問した。
本当は、私から言う事に、苛立ちがあった。
そんな事、言わせないで欲しかった。
とても、恥ずかしかった。
そして、とても、惨めだった。
私は、彼にとっては、そういう事をしてもらえない人だと思われていると、悲しかった。
彼は、笑って、そんな事するのかと、驚いていた。
彼は、そこまでして、必死にならなくてもいいのにと言った。
だから、必死ではなくて、自然と出来るのだよと言った。
友達でも、きちんと、車の助手席のドアを開けてくれると言った。
彼は、いつも、何か、言いたそうにして、それをやめた。
そして、私はやらないと、言い張った。
私は、彼が、何を言いたいのか、全く分からなかった。
彼は、交友関係が乏しい方だった。
人から嫌われるタイプではなかったけれども、敢えて彼は、なるべく人と一緒に過ごすことを避けていた。
なので、会社の上司や同僚や後輩や友達とも、関係は稀薄だった。
その為に、彼は、車で誰かと食事に行ったり、ドライブや旅行に行ったりする機会が余りなかった。
全く、気付かなかったと言った。
ても、彼は、面倒臭いから、やらないと言った。
もし、妊婦さんや身体の不自由な方や荷物を沢山持っている人ならば、やると言った。
私は、懲りずに、しょっちゅう、その話をしては、彼のやらないやらない病に、撃沈した。
その内に、それまで、車の助手席のドアを開けてくれていた人達を、何てレベルの高い人達だったのだろうと、思う様になった。
そして、彼が、普通なのだと、思う様になっていった。
でも、車から降りる時には、助手席のドアを開けてくれるまで、待ってしまう癖は治らなかった。
彼は、いつも、しれっとした顔をしていた。
その顔を見て、憎たらしい…と、思ったりとか思わなかったりとか。
憎たらしいと思ってしまうと、何か、負けた気がして、腹が立った。
車の助手席のドアを開けてもらえないで自分で開けて降りるのを、誰か知らない人達に見られるのが、とても、恥ずかしかった。
やっぱり、何処かで、女として、惨めだった。
彼のアパートで、デートを重ねた。
いつも料理を一緒にした。
沢山作って、お腹いっぱいに食べた。
彼は、私の食べきれなかった料理を、黙々と、食べた。
二人共、お酒は飲まなかった。
後から考えてみれば、彼は、私を家まで送る為に、お酒を飲めなかったのだろう。
そもそも、二人共、お酒は嗜む程度だったので、余り、気にしていなかった。
紅茶や珈琲の、色々な種類を楽しんだ。
側にいる機会が増えていった。
私は、いつも、彼の膝の上に頭を乗せて、横になり、ごろごろした。
彼は、いつも私の頭を撫でた…、でも、大体は、スマートフォンを触っていた。
私は、彼の頭を撫でる手が止まると、彼の手を取り、頭を撫でさせた。
彼は、そうすると、笑って、頭を撫でてくれた。
そして、何時しか、私達は、深く結ばれた。
彼は、本当に、性欲が無かった。
それを、責めるわけにはいかなかった。
でも、私には、それがとても、屈辱的だった。
でも、私は、彼の痘痕│(あばた)│にはなれた様だった。
暫くすると、上半期の決算月になった。
すると、残業が重なり、私達は思いとは裏腹に、疲弊していった。
だから、お昼の休憩は、刺し子もせずに、机に伏せたまま、仮眠をとった。
お互いに、手を繋いだまま、眠った。
夕食は、彼のアパートで食べる事にした。
少しでも、一緒に時間を作って、側にいる事にした。
帰りは、彼が車で送ってくれると言ってくれたが、彼も疲弊していたので、気持ちに感謝を述べて、断った。
彼は、疲れていても、送りたかった様だった。
私達は、お互いに、お互いを大切に思っていたらしい。
それが、私達の心の底を、深く深く、暖めた。
いよいよ月末が近づくと、休日出勤もする様になった。
彼との休日のデートは、仕事帰りに彼のアパートで、一緒にお鍋を突付く様になっていった。
彼は、その頃から、私をじっと見つめては、ふっと、悲しげな目をして、何か言いたげな口元だった。
私は、もう、終わりが近づいているのだと思い、悲しみで涙が出そうになり、彼をきちんと見つめる事が出来なくなっていた。
その頃から、何故か、私の視界に、同じ男の人が入るようになっていった。
でも、私は、仕事で手一杯だったので、軽く挨拶する程度に留めておいた。
その男の人は、私に話しかけてきては、まじまじと見たり、職場で私の仕事する姿を、目で追っている様だった。
私は、いらっとした。
でも、余り知らない人なので、波風を立てたくはなかった。
彼に言ってしまうと、動揺しまいそうだったので、秘密にしておいた。
最後の最後まで、彼一筋と思わせておきたかった。
最後の最後まで、彼の女でいたかった。
最後の最後まで、彼を泣かせたくはなかった。
だから、余計に、その男の人を避けた。
私の真心を、神様に試されているのかと思った。
どんなに素敵な人が現れても、私の心の底は、彼しか考えられなかった。
だから、素直に、彼に、愛情を注いだ。
そして、決算が、無事、終わった。
そして、それは、彼の最後の仕事納めだった。
仕事帰りに、彼のアパートで、二人でお疲れ様会をする事になった。
彼は、支度があるから、ゆっくり来てと言って、先に帰っていった。
なので、少し遅れて行った。
彼のアパートに着いて、呼び鈴を押した。
彼がドアを開けた。
美味しそうな食事の香りがした。
部屋は、いつもは、足の踏み場もないくらい散らかっていたけれども、今日は、とても綺麗…とは言えないけれども、そこそこ、畳が見えた。
埃は、綺麗に掃除されていた。
部屋に入って、コートを脱いで、マフラーを取り、ニット帽を脱いでいる最中だった。
彼から、突然、告げられた。
明日から、僕は、一旦、郷里に戻るよ。
私は、唖然とした。
えっ…。
それしか、言葉が出てこなかった。
今日で退職する事は分かっていたけれども、私の目の前から急にいなくなるとは思ってもみなかった。
かなり、動揺をした。
そして、平然を装った。
運転、気を付けてね。
それを言う事だけで、精一杯だった。
あぁ。
彼も、動揺してた様だった。
暫く、食卓を囲んで、沈黙が流れた。
一緒に作った陶器のお器の中にある卵を2個かなりかき混ぜて、箸を、一緒に作った七宝焼の箸置きに置いた。
春菊のいい香りが立ってきた。
お互いに、美味しそうな香りにつられて、嬉しそうにはにかみながら笑った。
その日は、二人共、大好きな、すき焼きにしてくれた。
さぁ、沢山食べよう。
彼が、ご飯を一緒に作った陶器のお茶碗によそってくれながら言った。
うん。
私は、涙が出そうだった。
美味しいね。
彼が言った。
美味しいね。
私は答えた。
そして、黙々と、食べた。
その日は、私の大好物の杏仁豆腐がデザートだった。
勿論、彼お手製だ。
いつもの様に、お腹に入りきらない位、沢山食べた。
そして、いつもの様に、彼の膝の上に頭を乗せて、ごろごろした。
彼は、優しく頭を撫でた…、やっぱり、スマートフォンを触っていた。
何を見てるの?
彼の頬を触りながら聞いた。
写真。
私の目を覗き込む様に、優しい声で言った。
待ち受けの画面を、私だけにするのか、一緒に写っているのにするのか迷っていると言った。
きっと、これが、一緒に撮った写真の最後の待ち受け画面の設定になるのね…。
そう、思って、切なかった。
暫く、無言の時が流れた。
すると、彼は、私の頭をぽんぽんした。
私は、いつも、それで、身体を起こしていたので、その日も、そうした。
彼は、胡座をかいて、私の両手を取り、いつもの優しい目をしながら話し出した。
これから、いよいよ、林檎の収穫が始まるよ。
そう、切り出した。
年末には終わるよ。
そう言って、そわそわしだした。
だから、月に3回しか会えなくなるよ。
彼の声が、聞こえにくくなった。
来年になったら、もう少しは、会えるようになるよ。
彼は、目が涙で潤んでいた。
電話もラインも毎日するよ。
モーニングコールもしようか。
何かあったら、即に、連絡するんだよ。
私は、肩で泣いていた。
彼は、続けた。
そして…、そして…、そして、いつか、終わりが来るよ。
私は、両手で顔を覆い、泣きながら、下を向いて、頷いた。
僕達は、お別れをするよ。
彼が、沢山の柔らかな光を纏っている様に見えた。
私は、こらえきれずに、大きな声で、泣き出した。
そして、彼も、大きな声で、泣き出した…、鼻水も一緒に。
その日まで、私は、君に、沢山の愛を注ぐよ。
いらないなんて、言わないでね。
最後の最後まで、君との思い出は、愛で埋め尽くしたいんだ。
それは、私を選んだ、君の、義務だ。
そう言うと、私をそっと抱きしめて、溢れ出ていた涙を右手の人差し指で撫で、親指で優しく拭った。
そして、私の頬を両手でくるみ、おでこにキスをしてから、唇にキスをした。
その余韻を楽しんでから、明かりを消さずに、横になった。
私達は、毎日、連絡を取り合った。
そして、月に3回、会った。
10月が去り、11月が過ぎ、12月が終わった。
収穫を終えた彼は、出稼ぎに、また戻ってきた。
出稼ぎとは、口実の、彼なりの、これまで仕事を頑張ってきた事への、リラックスの仕方だった。
彼は、パズルにはまっていた。
完成しては写真に撮り、額縁に入れて、飾っていた。
ミルクパズルにはまりだした。
難しいと言いながらも、楽しそうに話してくれた。
彼は、譲渡会へ行き、子猫を二匹貰って来た。
オスとメスの二匹。
おっとりとしてのんびりやのオス。
気の強い甘えん坊のメス。
彼は、選びに探しまくったと言った。
オスは、彼の性格に似ている子猫を。
メスは、私の性格に似ている子猫を。
帰って来て、即に、子猫達のお家を作った。
朝から晩まで、慣れない手付きで、とんかちを持って釘を打った。
うるさいと、隣人に言われたそうだった。
でも、その時には、作り終えていた。
彼は、テレビで、譲渡会の事を知ったそうだった。
とても泣いたそうだった。
一役買おうと思ったらしい。
夜中に何冊も本を買ってきて、彼の苗字の画数と相性のいい名前を、一生懸命に探していた。
キラキラネームにしたいと、頑張っていた。
その内に、飽きてしまって、キラキラネームから、程遠い、画数の合う古風な名前にした。
でも、彼は、オスに王子、メスに姫、とあだ名を付けた。
そして、彼は、王子と姫を猫可愛がりした。
彼は、王子と姫の前では、めろめろだった。
彼は、毎日、私を会社まで迎えに来てくれた。
そして、彼のアパートで、王子と姫と遊ぶようになった。
王子と姫も、私達に慣れてくれた様だった。
おっとりとしてのんびり屋さんの王子は、彼そのものだった。
そして、気の強い甘えん坊の姫は、私に似ていた。
彼は、こんなにも、猫好きだとは、知らなかった。
私は、王子と姫の首輪をプレゼントしようかと思ったけれども、思い直してやめた。
これからの未来を彼と作るのは、私ではなく、他の彼女だからだ。
だから、消え物の、ペットフードを沢山プレゼントした。
彼は、こんなに沢山どうするんだと、呆れたように笑った。
そして、勿論、電話もラインも、毎日してくれた。
でも、3月になると、彼の口数が段々と減ってきた。
私と一緒にいる時でも、彼のお父さんと長々と電話で話すようになっていった。
私は、下半期の決算だったので、帰りが遅くなった。
彼は、それでも、美味しい料理を作って、待っていてくれた。
沢山食べて、沢山話した。
でも、彼の顔は、明らかに、段々と、曇り出していった。
彼のお父さんからの電話が来る度に、彼は、夕食をとっているから、今は駄目だと、語気を暴めて言った。
そして、スマートフォンを置くと、こちらを切なそうに向いた。
そして、何かを言いたそうに、口をもごもごもごもごしていた。
何を言っているのか、全く聞こえなかった。
私は、薄々、感づいてきた。
彼は、別れの何かを、説明したいんだろうと。
でも、その事は、彼次第だから、期を待つ事にした。
私は、気付かない振りをし続けた後、彼は、いつもの様に、私の頭を撫でてくれた。
そして、軽く、じゃれあった。
帰りは、車で送ってくれた。
その車の中で流れる音楽と一緒に歌って楽しんでいた。
そう言う日々が過ぎていった。
決算が終わった。
彼は、お疲れ様でした会をしてくれた。
そして、家の近くのコンビニエンスストアまで送ってくれた。
車から降りる時に、際に、私をじっと見つめて、目を潤ませながら、しっかりとした声で言った。
今度の土曜日は、久々にお出かけデートをしよう。
ここのコンビニエンスストアで10時に待っている。
そう言って、彼は、帰って行った。
つづく




