第三話
ヴァルツェルト侯爵家——首都でも屈指の名門。
その威容は遠くからでも分かるほどで、門をくぐった瞬間、リアナは思わず背筋を伸ばした。
リアナの家とは比べ物にならないくらいの広大な敷地にそびえ立つ絢爛豪華な建物、それがヴァルツェルト邸だった。
案内された書斎には、すでにカイエンが待っていた。
カイエンは書類に目を通していたが、リアナが入ると手を止め軽く頷いた。
「来たか。そこに座るといい」
落ち着いた低音。
威圧感はなく、ただ静かに場の空気を支配する声だった。
リアナは言われるままに席につく。
机の上には、数枚の書面が整然と並べられていた。
侯爵家の紋章が刻まれた紙を見つめ、リアナは今更ながら現実味を感じ始めていた。
「ここに記載された条件に相違がなければ、署名を」
「……はい」
リアナは一枚一枚、丁寧に目を通していった。
契約期間は二年間。
リアナに課された役目は、侯爵夫人としての責務を全うし、不自由なく暮らすこと。
ヴァルツェルト家はその対価として、エヴァンズ家の全ての負債の肩代わりと事業の立て直しを即座に行い、期間満了後も継続して援助を行っていく。
違反行為を除き、途中破棄はなしとする。
改めて確認してみても、リアナ側にとって好待遇すぎるほど現実離れした契約内容だった。
だが、最後の項目でリアナの手がピクリと止まる。
「……“愛人を持つ自由を妨げない”?」
リアナがその一文を読み上げた瞬間、室内の空気が少しだけ変わった。
しかし、カイエンは眉ひとつ動かさず淡々と答えた。
「行動を共にしなければならない時以外は、お前の好きなように過ごして構わない。
だが、一つだけ——」
わずかに間が置かれ、銀灰の瞳がリアナを射抜いた。
「愛人を作るのは自由だが、契約期間中はそいつの子を孕むな」
リアナは息を飲んだ。
しばしの沈黙。
やがて、ゆっくりと顔を上げる。
「……それは、私への侮辱ですか?」
リアナの怒りで震えた声での質問に、カイエンは即答した。
「違う。これは俺なりの誠実さだ。
契約が成立すれば、お前は二年間だけ俺の妻となるが、それは形式上だけだ。
俺に愛まで求めるな。その代わり愛人の自由を与える」
リアナの胸の奥で、何かがきしんだ。
目の前の男は、嘘をついていない。
けれど、あまりにも冷静で、あまりにも人を遠ざけていた。
「誠実……?」
リアナの声は、もう震えてなどいなかった。
「それは“優しさ”のつもりですか?…いいえ!それはあまりにも暴力的な“拒絶”ですわ!」
カイエンのまぶたがわずかに動く。
しかし彼は何も答えず、再び視線を紙に落とした。
「別にどちらで受け取ろうと構わない。
互いの自由を縛らず、期限まで役目を果たせればそれでいい。
お前がそれを了承できないと言うのなら、この契約は取り止めだ」
その言葉は淡々としていて、どこまでも冷静だった。
——まさに“氷の侯爵”ね……
リアナはそっと唇を噛み締め、静かにペンを取った。
「……いいえ、構いません。
契約内容自体に不満はありませんので。
私は“形式上の妻”としての役目を全うしますわ」
紙に署名する手が、かすかに震える。
だがその瞳には、迷いの色はなかった。
「これで正式に、契約は成立だ。
式の準備は全てこちらで取り仕切ろう。
荷物の整理が出来次第、こちらの屋敷に来るといい」
カイエンは書面を受け取ると、淡々と業務連絡のようにそう告げて部屋を出て行った。
彼が部屋を出ていく瞬間、リアナの胸に残っていたのは“怒り”とも“悲しみ”とも言えないような、言葉に表せない感覚だった。
それと同時に、リアナはカイエンに潜む何かを感じ取っていた。
——彼の“冷たさ”の奥には、何か大きな痛みがあるような気がするわ…
まるで、誰も心に入れまいと拒絶しているかのような…
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