第一話
朝の光が斜めに差し込む執務室で、リアナ・エヴァンズは帳簿を閉じた。
インクで汚れた指先を見つめながら、深く息を吐く。
——今月も、赤字。
エヴァンズ家は、もはや貴族とは名ばかりのいわゆる“没落貴族”と呼ばれていた。
父と母は真面目に働き続けているが、近年続く特産品の不作による経営難をなんとか乗り越えようと積み重ねてきた負債は重く、このままでは半年も経たずに屋敷を手放さなければならないところまで追い込まれていた。
領主として父と母が領民の生活を守るために負債を背負ってきたことは、誇らしいことだと思っている。
だが、まだ幼い妹ティナと弟レオルのことを考えると、リアナは胸が痛む思いだった。
「……もう、どうすればいいのかしら」
弱音を吐いても、返事をしてくれるのは窓の外で鳴く小鳥だけ。
けれどその静けさの中で、リアナは俯く顔を上げて大きく息を吸うと、ひとり力強く呟いた。
「私は“エヴァンズ家の長女”よ。落ち込んでなんかいられないわ。なんとか打開策を考えないと…」
働きづめの両親を支え、幼い弟妹を守ると決めたあの日から、弱音を泣き言には変えないと誓ったのだった。
「まずは基本的な物流ルートから見直して、少しでもコストが落とせそうな要素を探そう。本当は何か新しい産業を発展させることが出来れば、現状を大きく打開できる可能性があるのだけれど…もう新事業に投資できるお金も無いし…う〜ん…」
——そんな矢先だった。
あの“氷の侯爵”と呼ばれるカイエン・ヴァルツェルトがエヴァンズ家を訪れたのは。
「キャハハハ!誰か来たみたいだわ!」
「本当だ!お客様かなぁ?見に行こうよ!」
幼い妹ティナと弟レオルのはしゃぎ声が、廊下の方から聞こえてきた。
その声に少しだけ肩の力が抜けたリアナは、二人の様子を見に行こうと部屋の外へと出た。
二人が走って向かったであろう方向へ歩いていくと、玄関ホールの方から父エドガーの緊張気味な声が響いてきた。
「……ヴァルツェルト侯爵閣下、ようこそお越しくださいました!」
その声と同時に、重厚な玄関の扉がギギーッと開く音がした。
「あっ!誰か入ってきたわよ!」
「うわぁ〜、カッコいいお兄ちゃんだ!」
好奇心旺盛なティナとレオルが、玄関ホールへと続く階段の踊り場から客人の様子を覗き込んでいた。
父の緊張気味な様子から、大切なお客様なのだと察したリアナは、急いで二人を連れ戻しに向かった。
「こら!お客様に失礼よ。二人ともこっちへ来なさい」
リアナはティナとレオルを抱き寄せると、玄関の扉の方へと目を向けた。
(ヴァルツェルト侯爵ってどこかで……そうだわ。
確か“氷の侯爵”と呼ばれている方だったはず。どうしてここに…)
扉の向こうから差し込む光の中に、一人の男性の姿があった。
長身をさらに強調するかのように真っ直ぐに伸びた背筋。
その顔立ちは端正で、礼をする所作も整っていた。
その男性——カイエン・ヴァルツェルトが一瞬だけ視線を上げた先には、リアナたち三人の姿があった。
リアナは反射的に裾をつまみ、丁寧にお辞儀をする。
カイエンは微かに頷き、視線を戻した。
それだけの短いやりとり。
だがリアナの胸には、“立ち振る舞いの美しい人”という印象が残った。
「騒がしくて申し訳ありません。まだ幼い子ども達もおりまして……」
エドガーの声に、カイエンは静かに応じる。
「大丈夫だ。気にしていない」
無表情さが言葉に冷たさを感じさせるが、礼節を崩さず凛とした力強い声。
それは“氷の侯爵”という通り名から想像していた冷酷さとは程遠い、むしろ淡々とした穏やかさを感じさせるものだった。
リアナはふと微笑み、ティナとレオルの手を引いた。
「さあ、もうお部屋に戻りましょう」
——この時のリアナはまだ知らなかった。
自分が、今まさに“人生を変える契約”の始まりに立っているということを。
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