写真の裏側
週末の写真棟は、人の気配が少なかった。
白い蛍光灯の下、篠原紬は現像室のドアを閉める。
微かな薬品の匂い。赤いランプが、静かに室内を染めていた。
合宿で撮った写真を整理するため、ずっとここにこもっている。
シャッターを切るたびに、心が少しだけ軽くなる――はずだった。
けれど今は、胸の奥がひどく重い。
トレイの中に浮かび上がる一枚。
雪の斜面を滑る真中遥斗。
その表情は、どこか遠くを見ているようだった。
「……どうして、そんな顔してるの」
思わず呟く。
写真の中の彼は、いつもの笑顔ではなかった。
凍える風の中で、何かを思い詰めているような瞳。
紬は現像した写真を乾かしながら、ノートパソコンを開いた。
フォルダの中には、遥斗が送ってくれた映像ファイルがいくつかある。
“滑走フォーム確認用”と名前がついていたが、
再生すると、風の音と一緒に微かな声が入っていた。
> 「篠原、今度は一緒に滑ろうな」
画面の向こうで、彼が振り向いて笑う。
それだけの動画なのに、胸の奥が痛んだ。
――どうして、もっと素直に笑えなかったんだろう。
昨日の誤解のことが、まだ頭から離れない。
あのとき「寂しかった」と言えたら、少しは違っていたのだろうか。
パソコンの通知音が鳴った。
SNSの未送信ボックスが光っている。
彼に送るはずだったメッセージ――
> 「写真、現像できた。見せたいのがある」
数日前から書いたまま、送れずにいた。
指が震える。
送るかどうか、ほんの数秒、迷った。
――けれど、今はまだ、会う勇気がない。
紬はタブを閉じて、静かに息を吐いた。
そのとき、背後でドアが開く音がした。
「篠原、まだ残ってたのか」
遥斗の声だった。
心臓が跳ねる。
彼は濡れた髪をタオルで拭きながら入ってきた。
「部のミーティングが終わって、ここ通ったら灯りが見えたから」
紬は慌てて写真を隠そうとしたが、彼がすぐに覗き込む。
「これ……俺か?」
現像したばかりの写真を見て、遥斗は小さく笑った。
「なんか、真面目すぎて変な顔してるな」
「ううん、いい顔だよ」
思わず言葉がこぼれた。
「……頑張ってる顔、してる」
遥斗は少し驚いたように目を見開き、それから照れくさそうに視線を逸らした。
「……そっか」
静かな沈黙。
現像液の匂いの中、どちらも何も言えなかった。
しばらくして、彼が写真の隅を指でなぞる。
「なぁ、これ。背景、誰かいるな」
「え?」
紬が目を凝らすと、雪の遠くに、人影のようなものがぼんやり映っていた。
輪郭が曖昧で、光の加減にも見える。
「撮ったとき、誰かいた?」
「……いなかった、と思う」
その瞬間、紬の背筋に冷たいものが走った。
それは、彼が事故に遭う“あの場所”と同じ斜面だった。
遥斗は笑って流したが、
紬はその影を見つめたまま、なぜか目が離せなかった。
彼が帰ったあと、紬は写真を手に取った。
光にかざすと、雪面の人影がわずかに滲んで見えた。
まるで“何かを待っている”ような姿。
――この写真、きっと何かを映している。
胸の奥に、名もないざわめきが生まれた。
彼女は写真を封筒に入れ、そっと鞄にしまう。
外に出ると、夜の風が冷たく頬を撫でた。
空からは、また雪が静かに舞い降りている。
ポケットの中で、スマホが小さく震えた。
画面には、遥斗からのメッセージ。
> 「明日、少し時間ある? 話したいことがある」
紬は息を呑む。
けれど、返信ボタンを押す手が動かない。
“話したいこと”。
それが何なのか、わかってしまいそうで怖かった。
雪が、街灯に照らされてきらめいていた。
白く静かなその光の中で、紬はただ立ち尽くす。
胸の中で、撮れなかった写真の音が響いていた。




