小さな誤解
雪の降る音が、窓の外で小さく弾けていた。
講義室の暖房が生ぬるく、眠気を誘う。
篠原紬は、ノートを閉じたままぼんやりと窓の外を眺めていた。
週末に行われたスキー合宿から三日。
あの夜、星空の下で遥斗が「ありがとう」と呟いた声が、まだ耳に残っている。
それだけの言葉なのに、胸の奥があたたかく、少しだけ苦しかった。
「篠原」
後ろから声をかけられ、紬はハッと顔を上げた。
振り向くと、スキー部の女子部員・美咲が立っていた。
彼女は笑いながらスマホを見せてくる。
「ねぇ見た? 真中先輩が写ってるやつ」
画面には、合宿で撮られた写真。
遥斗が笑いながら、美咲に肩を抱かれている。
ほんの一瞬の冗談。けれど――見た瞬間、胸の奥がざわめいた。
「……へぇ、楽しそうだね」
口元だけで笑って、紬は視線をそらした。
それだけのこと。
ただ、心のどこかが少しだけ冷えた。
その日の夕方、スキー部の部室前。
部活帰りの遥斗が、見慣れたカメラを持つ紬を見つけて声をかけた。
「今日も撮ってるのか?」
「うん、光がきれいだったから」
柔らかな夕陽が、雪面に反射して橙色に輝いていた。
ファインダー越しに見える彼の姿は、どこか遠い。
「……あのさ」
紬が言葉を選ぶように口を開いた。
「合宿の写真、見たよ」
遥斗は少し驚いた顔をして、すぐに苦笑した。
「あれ? あぁ、美咲がふざけて撮ったやつだろ。すぐ消したけど」
紬は返事をしなかった。
沈黙の中で、夕陽がゆっくりと沈んでいく。
「……別に、何でもないよ」
そう言って笑おうとしたけれど、声が少し震えた。
遥斗は困ったように眉を下げた。
「誤解だって。本当に何もない」
「誤解、じゃないよ」
紬はカメラをぎゅっと握る。
「ただ……あんな風に笑う真中くん、久しぶりに見たなって思って」
それは本音のようで、どこか拗ねた言葉でもあった。
彼女自身も、自分がどうしたいのか分からなかった。
遥斗は少しの間、黙って彼女を見つめていた。
「……俺、ちゃんと話したかったんだ。篠原とは」
その言葉に、紬の胸が一瞬だけ高鳴った。
だが、次の瞬間、後ろから部員の声が響いた。
「真中ー! 打ち上げ行くぞー!」
遥斗が振り返る。その隙間に、夕陽が沈んだ。
彼がもう一度こちらを見るより早く、紬は小さく会釈して立ち去った。
白い息が、冷たい空気に溶けていく。
――どうして、こんなに苦しいんだろう。
帰り道、カメラを鞄にしまいながら、紬は自分に問いかけた。
好きになってはいけない人ではない。
それでも、彼を見ていると、いつか失ってしまいそうで怖かった。
次の日。
講義後の廊下で、遥斗が声をかけた。
「篠原、昨日のことだけど――」
「もういいよ」
紬は微笑んで遮った。
「何も気にしてないから」
そう言いながら、笑顔がほんの少し滲んだ。
彼女は足早に去っていく。
遥斗はその背中を見つめながら、小さく息を吐いた。
――本当は、言いたかった。
あの日の夜、星空の下で感じた気持ちを。
でも、彼女の微笑みがあまりにも儚くて、何も言えなかった。
外では、雪がまた静かに降り始めていた。
その雪が地面に届く前に溶けるように、
二人のすれ違いもまた、静かに形を失っていった。




