また一緒に
五月の風が、やわらかく頬を撫でた。
紬は山の麓に立っていた。
雪はもうすっかり消えて、緑の草が顔を出している。
それでも、風の匂いはどこか冬を思い出させた。
肩からカメラを提げ、ゆっくりと山道を登る。
道の途中には、スキー部の仲間たちが植えた小さな標識が立っていた。
――『真中遥斗、ここに眠る』
その文字を見た瞬間、胸が少し痛んだ。
けれど、涙はもう出なかった。
代わりに、静かな温かさが広がった。
標識の前にしゃがみ、カメラを置く。
「おはよう、真中」
風が、まるで返事をするように木々を揺らす。
「今日はね、スキー部の新入生歓迎会なの」
紬は笑いながら話しかける。
「今年もたくさん入ってくるって。……あなたみたいな、まっすぐな子もいるかもしれないね」
少し間をおいて、そっと息を吸い込む。
「あなたがいた冬から、もう季節が三つ変わったよ」
草の上で揺れる小さな白い花を見つめながら、
「でもね、写真はまだ、あなたの笑顔を覚えてる」
そう言って、カメラの液晶を開く。
画面の中には、春の雪解けを撮った一枚。
溶けかけた雪が光を反射して、まるで小さな星のように輝いている。
「ねぇ、これ、あなたが好きそうでしょ?」
紬は微笑んだ。
――“また一緒に”。
アルバムの最後に書いた言葉が、頭をよぎる。
あの言葉の意味が、今は分かる。
“死んだあとも、共に生きる”ということじゃない。
“あなたがくれたものを、胸に抱いて歩く”ということ。
紬は立ち上がり、空を見上げた。
高く澄んだ青空の向こうに、白い雲が流れていく。
その形が、一瞬だけスキーの軌跡のように見えた。
「……ありがとう」
風に乗せるように、静かに呟く。
「あなたに出会えて、よかった」
その言葉が空に消える。
でも、不思議と寂しくはなかった。
カメラを構える。
目の前には、春の山。
雪もなく、彼の姿もない。
それでも、シャッターを切る瞬間、確かに“誰かと一緒にいる”気がした。
カシャ。
レンズの奥で光が弾ける。
ファインダーの中には、柔らかな緑と空の青。
そのどこかに、彼の笑顔が混じっている気がした。
「この写真、あなたに見せたかったな」
そう呟きながら、紬はカメラを胸に抱く。
少し離れたところで、スキー部の仲間が手を振っていた。
「篠原ー! そろそろ集合だよ!」
「うん、今行く!」
紬はもう一度だけ、標識を振り返る。
「行ってくるね」
そして、振り返らずに歩き出した。
太陽の光が彼女の背中を照らす。
その歩みは、もう迷いのないものだった。
風が山を渡る。
木々の間を抜けて、どこか遠くで小さな雪片が舞う。
それは春にはありえないはずの光景。
けれど、確かに見えた。
――彼が笑っていた。
あの優しい笑顔で、空の向こうから見守っていた。
紬は立ち止まり、そっと微笑んだ。
「うん……また一緒に」
その言葉を風がさらっていく。
空はどこまでも高く、青く――
そして、静かに新しい季節が始まった。




