初雪の日
朝、目を覚ますと、世界が静まり返っていた。
窓の外は、一面の白。
屋根の上も、道路も、街路樹の枝までも、すべてが雪に包まれていた。
真中遥斗は、寝ぼけたまま窓を開けた。
冷たい風が頬を刺し、すぐに目が覚める。
「……初雪、か」
毎年見慣れた光景のはずなのに、今日は少し違って見えた。
何かが始まるようで、同時に何かが終わるような、そんな朝。
遠征は予定どおり決行されると、部のチャットに連絡が入っていた。
天候の変化に気をつけろ、という注意が添えられている。
荷物をまとめて外に出ると、白い息の中に見覚えのある人影が立っていた。
「……紬?」
振り返った彼女は、少しだけ驚いたように笑った。
「やっぱり、同じ電車だと思ってた」
スキーケースを肩にかけた遥斗は、思わず息を飲む。
白いマフラーに雪が積もり、彼女の頬がうっすら赤く染まっていた。
「昨日、行けなくてごめん」
「……いや、気にしてない」
「ほんとに?」
「うん。むしろ、今日会えてよかった」
紬は少し目を伏せて、小さく頷いた。
「私も」
電車の中、窓の外を流れる雪景色。
音もなく世界が後ろに流れていく。
ふたりは言葉少なに並んで座っていた。
ときどき目が合って、照れたように視線をそらす。
それだけで、胸の鼓動が高鳴った。
目的地に着くと、雪はさらに深くなっていた。
スキー場の空気は澄んでいて、冷たい風が頬を撫でる。
「ねぇ、あとで一緒に滑ろうよ」
紬が少し笑って言う。
「……いいのか? 写真の撮影は?」
「それも一緒に。今日の雪、撮っておきたいんだ」
彼女の声が、雪の中で柔らかく響く。
午前中の練習が終わり、ふたりはコースの端で立ち止まった。
周りの部員たちは遠くで滑っている。
そこだけ、まるで時間が止まったようだった。
「行くよ」
遥斗が言うと、紬が頷く。
雪面を蹴る音が響いた。
風が頬を切り、視界の端に白が流れる。
ふたりの軌跡が、並んで一本の線を描く。
途中、紬が少しバランスを崩した。
「わっ――」
すぐに遥斗が手を伸ばす。
手袋越しに、指先が触れた。
その一瞬、時間が止まる。
風の音も、遠くの声も、すべてが消えていった。
「……大丈夫?」
「うん」
紬は頬を赤らめ、視線を逸らした。
その横顔を見て、遥斗は胸が熱くなるのを感じた。
もう、迷う理由はなかった。
「篠原」
呼ぶ声が、風の中で少し震えた。
「今日の練習が終わったら……話がある」
紬が驚いたように目を見開く。
けれど、すぐに小さく笑った。
「……うん。わかった」
午後、雪は少し強くなり始めていた。
風が吹くたび、木々の枝から雪が落ちる。
撮影を終えた紬が、ふと空を見上げた。
「ねぇ、雪って不思議だね」
「どうして?」
「冷たいのに、見てると心があったかくなる」
その言葉に、遥斗は少しだけ笑った。
「お前らしいな」
夕方。
山の端に夕日が沈み、空が薄い橙に染まる。
風がやみ、雪が静かに降り続いていた。
「綺麗だな」
紬がシャッターを切る。
そのファインダーの中には、雪と光と、そして遥斗がいた。
彼女の指が、そっと震える。
レンズ越しに見た彼の姿が、胸に焼きついて離れなかった。
――明日、彼にちゃんと伝えよう。
そう心の中で呟いたとき、
遠くで誰かが「明日は天気が崩れるぞ」と叫ぶ声が聞こえた。
紬は空を見上げた。
白い雪が、まるで何かを告げるように降り続いている。
その夜、彼女は眠れなかった。
枕元に置いたカメラの中には、彼の笑顔が詰まっていた。
画面を見つめながら、紬は小さく微笑む。
「……明日、ちゃんと、言うね」
けれど、その“明日”が、
二人にとって最後の一日になることを――まだ誰も知らなかった。




