3.インスタントコーヒー
その日の夜。
「旅行かぁ……」
呟いて火にかけているやかんを見つめた。
もう少しで沸騰しそう。ついでに隣のコンロで温めている牛乳もいい具合だ。
久しぶりにカフェオレが飲みたくなった。
1年前まではコーヒーを淹れるときは手動のミルで豆から挽いていた。
さすがにサイフォンまでは使わないけど、水にはこだわってコーヒーの味がより良く出るタイプのものを使ったり、お湯の落とし方も喫茶店に通って顔馴染みになったマスターにレッスンしてもらった。
『こんなに美味しくコーヒーを淹れることができるのにカフェオレなんてもったいない』とよく言われた。
カフェオレは自分のため、コーヒーは誰かにご馳走するため、とよく冗談で言っていたけれど、リラックスしたい時にはちょうどいいのだ。
お気に入りのカフェオレボールにコーヒーと牛乳。混ざったカフェオレ色を見ると気持ちが和む。
でも、彼が亡くなってから豆から挽いてコーヒーを淹れなくなっていた。
『後藤さんの淹れるコーヒーはとても美味しい』
ニコニコしながらいうあの人を思い出すから。
傷に触れる。
だから今日もインスタントコーヒー。
物思いにふけっていると、やかんが沸騰しだし、牛乳が噴きこぼれそうになって慌てて火を止めた。
お湯、完全に沸騰させちゃった、ちょっと苦くなるかな?と思ってから、インスタントは関係ないと思い直す。
真っ白い無地のカフェオレボールにインスタントコーヒーを入れて、お湯を半分注ぎ、一拍置いて牛乳を入れた。
独特の香気が部屋一杯に広がっていった。思わず目を細めて香りを吸い込んだ。
カフェオレボールを持ってリビングに移動してガラスのテーブルの上にそれを置く。
六畳一間の1LDKの部屋にモノは少なかった。
部屋の真ん中にあるガラスのテーブル、ベージュ色のソファ、それからベットとテレビとDVDデッキが主な家具だ。
シンプルでいいけど一人で暮らすこの部屋が時々寒々しく思えるときもあったり。
ソファに座ってテレビとDVDの電源を入れる。
再生のボタンを押すとカズキの歌とプロモーション映像が流れてきた。
「旅行、かぁ……」
もう一度呟いてみる。
本当はこの場所を離れたくないし、新しく人と出会うのも精神的にきついような気がしていた。
でも……。
ずっとこのままの状態でよいのだろうか? とも思う。
仕事仲間たちの笑顔を見るたび、私は弱いな、って思っていたから。
彼がいなくなって1年が過ぎようとしているのに、彼がいない空間に未だに慣れない。
底なしの悲しみに囚われそうになって慌てて旅行のことを考えた。
今日ぐらいは泣かないで眠りについてみたかったから。
(旅行、そう、どこに行こう、誰と行こう? )
1人旅がいいような気がした。家族とでも友人とでも余計な気を遣わせそうな気がしたから。
行く場所を考えながら、カフェオレを一口飲んだ。
ふと、目を上げてモニタの中で歌っているカズキを見つめ、急に考え付いたことを口に出してみた。
「……東京に、カズキを見つけに行くとか……」