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最終話 あなたへと続く空

 あの後。

 部屋で1人になったら呆然と何も考えられなくなっていた。

 結婚していたなんて。少なからず衝撃で。そんなこと、知りたくなかった。


 まるで、いつも温かく包んでいてくれた太陽が突然消えたような気がしていて。

 私の淡い、淡い恋は切り捨てられるように幕を閉じた。




「ちょっといろいろ……。部屋の片付けとかしないといけないから。お昼に事務所の下のカフェで待ち合わせしない?」

「部屋の片付け? わかった。じゃあ、昼に」

 カズキはそういうと私の部屋の玄関先を後にした。

 私は作り笑いをやめて、彼が今さっきまでいた場所を見つめる。

 途端に涙がひとすじ流れ、慌てて袖口でそれを拭った。

 次の日の朝、午前9時。

 カズキが出て行った後の『風来館』は今から昼過ぎまでは人の気配が一番少ない時間だ。

働いている人は会社にいて、画家の早瀬さんと美紀さんはまだ眠っている。

 見つからないうちに、早く荷物をまとめてここを立ち去らないと。泣いている暇はない。

 後ろめたいことをした覚えはないのに後ろめたいように行動しているのはなぜだろう?

 いろんなことを考えながら、あらかじめまとめていた荷物をバックに詰める。行きは余裕があったバックも帰りははちきれそうに荷物があった。

 準備はすぐに終わって、部屋の鍵を手にして立ち上がる。出て行く前にもう一度振り返った。

 冬の朝の日差しが光の束になって部屋に差し込んでいる。弱々しいけれど、それは確かに私がいた空間を照らしだしていた。

 そんな思いを振り切るように私は前へ歩き出した。ドアを閉め、鍵かけようとしたら、もう二度とはここに来ることはないと思い、鍵を回す手が止まってしまったが、思い返して鍵をかける。

 そして、私は東京を去ることを告げるために管理人の淑子さんの部屋を訪ねるために歩き出した。

 東京で最後に訪ねる場所だった。


 淑子さんの部屋のインターフォンを鳴らすとしばらくしてドアが開き中から本人が出てきた。

「おはようございます」

「おはよう。まぁ、お入り」

 淑子さんは大きな荷物に視線を留めたがそれには触れず大きくドアを開けた。

「いえ、もう時間がないのでここで」

 玄関まで入りドアを閉めると茶封筒を取り出した。

「ここに来てから今日までのお金です。今から九州に帰ります」

 彼女はこの言葉にはさすがに目を丸くした。

「随分急だね。カズキは何も言ってなかったけど」

 その言葉に私はうつむいた。

「……カズキは知らないのかい? 黙ってここを去るの?」

 カズキの名前を聞いて苦しさを我慢しようと目を細めたら涙が出てきた。

「すみません、いろいろ事情があって」

 涙を拭いながらそういう私を淑子さんはじっと見つめる。

「あなたのその事情をカズキは知らないわけだね?」

 こくりと頷く。

「そのことをカズキに話せない?」

「今は……」

 涙腺が壊れたように涙が後から後から溢れてくる。答える言葉も途切れ途切れだ。

「私にも無理かしらね?」

 淑子さんの優しい声に全部話してしまいたくなった。でも、ここでさらけ出すときっと辛すぎて動けなくなる。

 心にまた深い傷を負う前に立ち去ることを許してほしい。

「そうかい。じゃあ、お金は半分いただいておくよ。後の半分は、カズキに事情を話せるようになった時いただこう。そのかわりいつになってもいいから、もう一度きちんとカズキに合うこと。ここに来ること」

「でも……」

「あんたとはあんまり面と向かって会うことはなかったけどね、折に触れてよく目にしていたよ。カズキと歩いてるところとか。カズキからもあんたの状態をよく聞かされていてね。

 だからってわけじゃないけど、あんたを信じてるよ。いろんな面でね。心がまっすぐで真面目なあんたなら約束は守るだろう。……それにカズキが好きなんだろう?」

 ちょっと強引な気がしたけれど、この約束はお金のことより、もう一度カズキと話し合うためのきっかけを残してくれているような気がした。

 私はしばらく黙っていたが決心して小さく頷く。

「本当はお金なんていらないんだけどね。でも、タダで済ませてしまうとせっかくの経験や価値が軽くなってしまうこともあるからね」

 淑子さんは、フッと笑うと、茶封筒を一旦受け取り中身を半分だけ出して私に返した。

「ここにおいてくださってありがとうございました。楽しかったです」

「気にすることはないさ。たまたま空き部屋があって、あんたは運がよかっただけ」

 ここを去るのが名残惜しくて、私は淑子さんを見つめた。いつの間にか涙が止まっている。 

「そんなに思いつめた顔をするなら、カズキと話をしてから帰ってもいいんじゃないのかい?」

 私は首を振った。

 やっと前を向いて歩いていけそうだったのに、またズタズタに傷つくのは嫌だ。

 もう、このまま行かせてほしい。

「わかったよ、無理は言わない。落ち着いたらまたここに来ればいいさ。いつでも待ってるよ。みんなもカズキも」

 淑子さんの優しい表情に大声を上げて泣きたくなったけど、ぐっと我慢した。

「じゃあ、そろそろ行きます。本当にありがとうございました」

 淑子さんはゆっくり頷き、私はお辞儀をして彼女の部屋を出た。

 そして、一度も振り返らないまま、東京を後にした。



「後藤先輩、どこ行くんですかぁ?」

「先輩はやめなさいってば。ちょっと課長に頼まれてた用事思い出したから、郵便局行ってくるわね」

 私は今年入社したばかりの新入社員の言葉に苦笑しながら席を立つ。

 私もああいう、若くて何も怖くない時代があったっけ?

 新入社員たちの若さと明るさを見てうらやましくもあるけど。まぁ、私は私で。

 季節は4月になっていた。

 まだ少し肌寒いが、日差しは随分やわらかくなっている。

 経理課の部屋を出たところで裕子とすれ違った。

「美佳、どこ行くの?」

「課長に用事頼まれて。ちょっと郵便局まで行ってくるね」

「そう、気をつけてね。いってらっしゃい」

 裕子は笑顔を見せ、私もそれに応え笑う。

 東京から帰ってきて、何かをふっきったように明るく積極的になった私に、はじめはかなり戸惑っていた裕子だが、無理をしていない事がわかると心底ほっとしたようだった。

 そして、彼女は今年の秋に年下の彼氏今井君と結婚する事が決まり、こちらは私がほっとした。散々心配をかけてきた2人なので本当に幸せになってほしいし、2人なら大丈夫だろう。

 私ももっと強くならなければ。

 廊下の途中に喫煙コーナーがあった。

 今はちょうど誰もいないようだった。窓ガラスから陽の光がたっぷりと射し込み、とても明るいその風景に思わず立ち止まる。

 それは亡くなった彼がタバコをくゆらせながら、片手を上げて笑いかけてきそうな陽気さだったから。

 亡くなった彼と過ごした時間や思い出は私の中で少しずつ消化されている。

 それは忘れることとは違う。私の記憶に人生に、生きていく何もかもに刻み付けられているような、そこに存在はなくても私の細胞にしみ渡っているようなそんな感じ。

 もう余程のことがない限り泣いたりすることはないけど、思い出すたびに切なさが微量混じってはいるものの優しい気持ちに包まれる自分がいた。

 しばらくじっと見つめていたけど、やがて目を閉じちょっと微笑み歩き出す。

 こんな風に気持ちが変化したのは、やはり周囲の人のおかげだと今さらながらにつくづく思う。

 裕子、『風来館』のみんな、lica。

 それから。

 

 カズキ。

 

 カズキのことを思うと胸が痛い。あんな突然の別れかたで申し訳なかったと思う。

 でも、あの時はあれしか方法が見つからなくて。

 実は、東京にいるときはそばにいる事が当たり前すぎて、携帯電話の番号やアドレス交換をしていなかった。

 別に教えたくなかったわけでなく、その必要性を感じていなかったのだ。でも、今はそれでいいと思っている。

 連絡がとりようがないのでこちらから言い出さなければもう会えない。

 会いたいというつもりもない。

 一番気にかけてくれた人から逃げるように去ってしまったことは、私に新たな後悔をもたらしたけど、変に未練を残すよりかよかったかもしれない。

 私がいなくなっても、カズキには奥さんと子供がいるから。

 ちなみに、licaとは携帯番号とアドレスを交換しているが、カズキには内緒にしてもらっている。

 社員専用通路のドアを開けて外に出た。

 目に飛び込んできたのは暖かみを帯びた青い空色。

 澄み渡った空に心が緩まって、少し深く息を吸い込んでゆっくりと呼吸をした。

九州に帰ってきてから、空を見上げる事が多くなり、その時は必ずカズキのことを考えている私がいる。


 私が東京にいたときに作っていたカズキの歌が3月の下旬に発売された。

 そばで聞いていた時よりかなり雰囲気が変わって、重く深刻な感じの曲調になっていたが、人の心を掴んで離さないその歌は大反響を呼びかなり売れて話題になりメディアによく出ている。

(これでよかった、のかな?)

 後悔と自分の恋に揺れる気持ちは、心の奥底ではこれでよかったとは強く言い切れないでいる。


 それでも。

 カズキと共に過ごした時間と優しさを無駄にしないことは。

 優しく強くしっかり生きていくこと。

 辛くなったら、あなたへと続く空を見上げて。


 気づくのも出会うのも遅すぎた。

 多分、一生言わない想い。


 今だけこの青い空に打ち明けていいかな?


 心を静めて目を閉じた。

 


 あのね、私、カズキが好きだよ。



 想いを解き放つようにそっと目を開ける。

 4月の青い空は何事もないようにただ私を包み込んでいた。

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