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 私はいつものように事務所近くにあるカフェでカズキを待っていた。

 しかし、考えることがあって、美味しいと評判のカフェオレには全く手をつけず冷え切っている。

 そして今さっき、カズキの事務所の社長、鈴木さんとのやりとりを思い出していた。

『美佳ちゃん、ちょっと』

 カズキがヴォイストレーニングでレッスン室に入ったのを見計らったように呼ばれた。

 鈴木さんは私を社長室に招き、革張りのソファに座るように勧め、私は緊張しながらそれに座った。

 普通の話なら事務所の応接室ですればいい。社長室に呼ぶということは何か聞かれたくない話だろう。

『美佳ちゃん、これからどうするの?』

『これから、というと?』

 鈴木さんを見上げたが、壁際においてあるコーヒーメーカーで2人分のコーヒーを淹れている最中で背中しか見えない。

『もう、東京に出てきて2週間ちょっとだよね。この先、どうするの?ずっといる?』

『……』

 鈴木さんは穏やかな無表情で目を伏せて、私の前に赤くて小ぶりなマグカップを置いた。

 私が本格的に入れたらもっと美味しい香りがするんだけどなぁ。

 やっぱりコーヒーメーカー任せだと限界があるよね、などと思いつつ、鈴木さんの手元を見ていた。

『美佳ちゃんはお客さんじゃないから、事務所にあるマグカップで悪いけど』

 思わず顔を上げて鈴木さんを見た。穏やかな笑顔でソファに腰掛けるところだった。

『マスコミが君の存在に気がつきはじめている。今はまだカズキのイトコで通せているけど、これから先、事が大きくなればどこまで君を庇いきれるかわからない』

 笑顔だったけれど、社長の目は真剣だった。

『えっ?!』

 私は声を上げた。社長はカズキのついた嘘をとっくに見抜いていたのだろうか?

『君達はどう見てもイトコ同士なんかじゃないだろう? カズキの言ったことを信じてるのはマネージャーの山本君ぐらいじゃないのかな?』

『……気がついていらっしゃったんですか?』

『私は曲がりなりにも人を育てるのを生業としていることを忘れないでほしいな。それぐらいの嘘を見抜けなかったら社長なんてやってられないよ。思ったよりマスコミが早く嗅ぎ付けたのは予想外だったけど』

『なぜ、そこまでのリスクを冒して私をそばにおいて下さるんですか?』

 実は最初から疑問だったこと。普通ならありえないと思っていたから。

 社長はフッと笑った。

『悪いけど、君の事を思って、というのではないんだよ。理由はカズキが必死だったこと。どういうことであれ、必死になることはカズキが伸びていく上でのいい肥やしになる。あいつはあふれんばかりの才能があるのに、必死さが足りない。いい勉強だよ』

 全てはカズキのために、と言っているのが聞こえてきそうだった。

『どうする? 私はどちらでもいい。ただ、カズキはこれからもっと人気も伸びるだろうし、今以上に実力をつけていくことは間違いない。この先、もしかしたらlica以上の存在になるヤツだということを覚えていてほしい』

 鈴木さんはそこまでいうと涼し気な表情になってコーヒーを飲んだ。鈴木さんは青いマグカップだ。

 lica以上というと、ものすごい人気だ。歌番組に引っ張りだこで、ワイドショーのニュースにもよく話題になり、毎日どこかのメディアに出ている、そんな感じだろうか?

『もし、マスコミが大騒ぎをしたら、一般人である君の生活は一変するよ。いろんなことに覚悟を決めて本気で背負うつもりなら文句はない。でもね、カズキはもっとリスクを負う。生活も、仕事もままならなくなるかもしれないんだ』

『……』

 どちらでもいい、といいつつ、遠まわしにカズキのことを思うならここを去れといわれている感じだった。勘繰りすぎだろうか?

『カズキは歌うことや音楽を愛していて、それしかないというのが、君ならわかると思うんだけどね』

 射るような強い目で見られた。

『……少し考えさせてください』

 私は目を伏せて席を立った。

『失礼しました』

『いい結果を期待しているよ』

 返事の前に結果を。事体はそれほど急迫しているのかもしれない。

 私はそんなことを思い社長室を後にしたのだが。


 東京に来て、2週間とちょっとの日が過ぎている。

 もう少ししたら九州に帰らないといけないが、カズキにそのことはまだ話していない。

 話題にもした事がないし、カズキも聞いてこなかった。

 カズキは多分、私がずっと東京にいられると思っている。

 九州に帰ればいろんなことが私を待っている。仕事や家族、辛いかもしれない現実も。

 外は冬特有の乾燥した軽そうな風が吹いているのに、私の心はたくさんの水気を含んだように気分が重たい。

 ため息をついて横を向き外の街路樹を見て、その視界の端に黒い人影が見えた気がしてすぐに前を向いた。

 私は息を飲む。

 黒づくめで変装しているけど、紛れもなくそれはアサトだった。

「……」

「こんにちは。こんなところであうなんて奇遇だね」

 目深に被った黒いニット帽に大きな黒サングラスに黒いダウンジャケット、細身のブラックジーンズと格好はいかつい感じだったけど、いつも色っぽいアサトの笑顔が変に爽やかだった。その何か企んでいるような普通の笑顔に気持ちがざわついた。

「どうしたの?こんなところに」

「今日は、ちょっと美佳さんに折り入って用事があって。座っていいかな?」

 私は上目遣いで頷く。本当は話なんてしたくなかったけど、無下に追い返すわけにはいかない。

 アサトはダウンジャケットを脱ぎながら座った。下に着ていたのは黒のタートルネック。

 何かを、多分、私を拒絶するように黒ずくめだ。心の中で身構える。

「何、飲みますか?ここはカフェオレが評判のお店ですけど」

「知ってます。カズキとよくここで話し込んだりしてるから」

 笑顔のまま彼はそういうと、ウエイトレスを呼んでカフェオレを注文した。

「話しってなんでしょう?」

 とりあえず、用件を聞いてさっさと終わらせよう。

「美佳さんは、いつまでここにいるんですか?」

「……わからないわ」

 またその話か、と私は内心ウンザリしていた。

 アサトが黙って私を見た。笑顔もない。いつもの妖艶さもない。

 取り繕うことのない、世間に見せることが滅多にない普通の顔。どちらかというと緊張した真摯な顔だった。

 なんだろう、このアサトの真剣さは。

「美佳さんはもちろん知ってるんですよね?」

「何をでしょう?」

 ウエイトレスがアサトのカフェオレを持ってきて話が一旦中断した。

 彼は話をもったいぶらせるようにそれに口をつける。

「おっと、その前に。美佳さんとカズキはイトコ同士じゃない。血の繋がりなんてない赤の他人だという前提で話を進めさせていただいてよろしいでしょうか?」

「……」

 何なのだ。

「あなたが本当にイトコなら、普通は事前に連絡があってカズキがそういう時期に実家に帰ろうと計画しているわけありませんよね?」

「……」

 私が何も言わずに微かに眉をひそめたのを見て彼は楽しげにニコリとした。

「これは、あなたのためでもあるのですが」

「だから、何なのでしょう?」

 イライラしたら負けだと思いつつ、彼の言い回しにはイライラした。

 そんな私を見てアサトは満足そうな表情をする。

「カズキ、美佳さんが東京に来なければ、今の比較的暇なこの時期に実家に帰ろうと計画していたの知ってました?」

「いいえ」

「なぜ、彼が実家に帰ろうかと思っていたかわかりますか?」

 私は首を振った。彼が実家に帰省する予定があったなんて本当に知らなかった。

 確か、カズキの出身は北海道だったはずだ。

「美佳さんには本当に言いにくいんですが……」

 彼はそこでカフェオレを一口のんだ。心なしか緊張しているようにも見える。

「アイツね、結婚してるんですよ。もちろん、世間やマスコミには公にしてないけど。秘密でね。」

「えっ?!」

 私は目を見開いた。

「まぁ、カズキも27歳だし、変な話ではないよね。

 アイツね、かわいらしい奥さんと子供がいるんですよ。

 奥さんは地元の同級生。子供は2歳になったばかりで。また、子供がカズキによく似たかわいい女の子でね。

 本当は奥さんを東京に連れてきたかったらしいけど、結婚した時はカズキが売り出し始めたばっかりで。落ち着いたら今度は子供ができて、まだカズキもいろいろバタバタしているから、長期の休みの時にカズキが帰省を兼ねて奥さんと子供に会いに行くんですよ。奥さんと子供はカズキの実家に一緒に住んでいるから。

 子供がね、ちょっと身体が弱くて目が離せないんだ。だから」

 アサトは一気に喋るとカフェオレを優雅な手つきで口に運んだ。

「カズキが何考えて美佳さんとずっと一緒にいるかわからないけど。

 まぁ、美佳さんはカズキの奥さん全く違うタイプでと本当に綺麗系の人だから、カズキもクラっと来たのかもしれないね。

 でも、美佳さんからしたら結婚している男に手ぇ出しちゃマズいでしょう。何か事が起きたら、知らなかったじゃ済まされないし。だから早く教えとこうと思って。マスコミにばれたら無茶苦茶叩かれるから」

「……」

 私は言葉が出なかった。その上多分、顔面蒼白だと思う。

「カズキと奥さん、離れてる時間が多くても本当に仲がいいんですよ。俺、あの夫婦すげえうらやましいもん。結婚したらああいう家庭にしたい理想って感じ?

 だから、美佳さんもカズキのためを思うなら一秒でも早く消えた方がいいんじゃないの?

ま、さっきもいったけど、それがあなたは自分のためでもあるけど」

「……そんなの嘘だわ」


「早く消えなよ」


 トゲのある言い方に私は伏せ目がちだった目を上げてアサトを見た。

 見下していた表情に見えたのは角度のせいかもしれない。私が目を上げた瞬間に彼の表情は同情するそれになっていたから。

「ごめん。俺、カズキの奥さんよく知ってるから。

 あ、カズキの奥さん、華子さんっていうんだけど。

 華子さんの気持ちになっちゃって。なんか思わず言っちゃった。嘘と思うなら、カズキに聞いてみればいいよ。アイツ実家に帰るのかなり楽しみにしてたから。

 キツイこと言ってごめんね。でも、早く知らせとかないと、と思って」

 彼はそこまで言うと時計を見た。

「じゃ、そろそろいかなくちゃ、辛い思いさせたから美佳さんのお代は一緒に払っとくよ。

……元気出してね」

アサトはそういうと席を立って私の前から消えた。


 何が本当で、私はどうしたらいいのか?

 ますます混乱して、私はその場から少しも動けないまま途方にくれていた。



「おい、どうした? 美佳?」

 誰かが私を呼んでいる。

 目を上げたら、カズキが私の顔を覗きこんでいた。

「あぁ、カズキ。レッスン終わったの?」

「おう、今終わった。……なんか顔色悪いけど、大丈夫か?」

「う、うん」

 時計を見たらアサトと話してから2時間は経っていた。

「それよりさ、カズキ」

「何?」

 私は半分呆然としながらか細い声でカズキの名を呼んだ。

「あのね、私が東京に来なかったら、実家に帰省しようとしてたって本当?」

 カズキは目を丸くした。

「美佳、どうしてそれ知ってる?」

 本当、だったんだ……。

 私の中で、東京で過ごしてきた時間がガラガラと音を立てて崩れたような気がした。

 これ以上は深くはもう聞かなくても、というか、もう聞けない。

「どうして言ってくれなかったの?」

「だって、美佳に言うといろいろ気を遣うだろう?」

「楽しみにしてたんでしょう? どうして帰省しなかったのよ!」

「おい、どうしたんだよ?」

 普段にはありえない、たたみかけるような私の勢いにカズキは戸惑い気味だ。

「どうして言ってくれなかったの? 私のことは放っておいて帰ればよかったじゃない!」

「あんな状態の美佳を置いていけないだろう? 俺の歌が好きで東京まで出てきたんだろう? だから、俺は美佳のそばにいるって決めたんだ。それだけだよ。帰省なんていつでもできるから」

「……」

 そっか、私が帰ったらすぐに実家に行けばいいんだ。

 そう思うと少し熱が冷めた。

「そっか、そうだよね。なんか、いろいろありがとう。カズキの優しさ忘れないよ」

「どうしたんだよ、今さら……」

 カズキは照れたような顔をして私を見る。

 じゃ、行こうか、と彼に促されて私はカフェを後にした。

 カズキの中で私と過ごした東京の日々はすぐに忘れてしまうものなのかもしれない。

 でも、私はカズキと出会えたこと、それから彼の優しさをずっと忘れないと思う。

 大切なことを犠牲にしてまでも、放っておけないとそばにいてくれた日々。

 カズキのそういう同情を私は愛情と勘違いしていたけど。

 彼のことを思えばどうすることが一番いいかなんて、答えはもう出てる。


 今までありがとう。




 そして。




 さようなら。


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