表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
27/30

27.そばにいて

 カズキの予定が何も入っていない平日の晴れた日。

 私たちは遠出をして海を見に来ていた。 

 こんな冬場に海岸に来るのは私たちしかいないようだった。辺りに人は見当たらない。

 私は砂を踏みしめるカズキの後姿を見つめながら歩いていた。

 時折、冷たい風が吹いて肌が切られるように寒い。

 そんな時、思うのだ。

 

 亡くなったあの人は。

 こんなに寒い思いをしてないだろうか?

 どこが痛かったり辛い思いはしていないだろうか?

 苦しんではいないだろうか?


「こんなに寒いと、あの人も寒がってないかなって思うの」

 カズキは歩みを止めて私を振り返り、私は彼の視線を逃れるように落ち着いた色の海を見つめた。

 晴れた日の海は真冬でも鮮やかな色をしている。

 ずっと遠く、地平線の先まで見つめたけど、眼に映るのは海と空の青。

 周りに目を凝らしてみても誰もいない。



 もちろん、あの人も。


 

 そこまで思って心の中で苦笑した。

 いなくて、当たり前じゃないの。


 わかっていても、風景の中にあの人がいないかと探すのは無意識のうちに癖になっていた。

「なぜかな? もう絶対会うことはできないのに、辛かったり寂しい思いしてないかな、って思うの」

 また風が吹いた。寒さに顔をしかめる。

「でも、それでも思う。どこへ行けば、あの人に会えるの?」

 私はまっすぐにカズキを見つめた。

 カズキは何か言いたそうに口を開いたが言葉が出ない。戸惑っているのがよくわかる。

「……って、前はよく思ってた」

 自嘲を込め目を伏せ笑う。


 どこへ行けば、あの人に会えるの?

 

 誰にも言ったことないこの言葉。言った瞬間にどこにもいないことを自覚してしまう。

 言えなかったのはそれにきっと耐えられなかっただろうし、怖かったから。

 

 でも、いつか誰かに言ってみたかった。返事なんていらない。言葉なんて、答えなんていらない。

 

 こんな暗い話を、カズキにとってはおもしろくない話なのに粘り強く聞いてくれている。だからこそ、いろいろ話せる。痛みも苦しさも吐き出せる。

 いつもだけど、亡くなった彼のことを思うたび、語るたびに、心はどこにも、誰にも、自分でさえも届かないところへ行ってしまう。誰に聞かせるだけでなく、自分の思いをただ、なぞるために。


 毒を吐くような独白。


「生きていくのって、過去を置き去りにして新しいものを生み出すことの連続じゃない?

 日々新しいものの中に、あの人にまつわるものはだんだん少なくなっていくんだよね。

 食事も例え毎日同じものでも、きちんと毎日新しく作ったのを食べて、爪も伸びたら古いものは切るし、通勤で毎日同じ道を歩いてても靴の底は毎日少しずつ減っていくし、周りの景色は時間と共に色を変えていく。そんな新しく繰り返していく毎日の中で、止まってしまった私の過去はこの世界に取り残されていって。

 実はね、この髪は私には長すぎて。でも切れないんだよね。

 ここの長さの時は彼は生きていた、って。数少ない彼と共有できた時間が詰まっていると思うとね。切ってしまうと、彼との思い出も一緒に断ち切るみたいで。

 一緒にこの世界で同じ時間を生きていければそんなことは考えなかったかもしれない。

 でも、もう彼はいなくて。こんなこと、笑っちゃうよね」

 核心に迫った自分の気持ちを話したのは初めてかもしれない。

 ゆっくり微笑んだ。カズキがいうにはこんな時の私はものすごく寂し気らしい。

「あと、髪を切ったら、もし、あの世から彼が戻ってきた時に、私だってわからないかもしれないと思うと切れなくて。そんな思いで伸ばしてても、だんだんパサパサして潤いがなくなってくる毛先みてると自分の心を見ているみたいでやりきれないんだけど。

 生きてくことがこんなに辛いんだったら、いっそあの人の後を追ってしまおうかって何度も考えた。でも、当たり前だけど実際にはできなくて。だって、死んでしまったら、あの人のことを想えなくなる。私が終わってしまったら、それこそ、自分の中であの人が生きた事実が消えてしまうような気がして。

 ……私って本当にバカだよね」

 カズキと一緒に海を見に来ているのに、心だけあの時に帰っていく。

「こんなに寒い日は、彼は温かそうなグレーのセーターを着ていたの。

スーツの下に着るとモコモコしてなんかチョット変なのに。それ言うとバツの悪そうな顔をして、それから2人で笑いあった。亡くなる前日もそのセーター着てて。温かそうなそれをいつか触ってみたいなぁってずっと思ってた」

 微笑んだまま、カズキを振り返った。カズキは目を細めて思いつめた真剣な顔をして私を見ている。

 

 あの頃は。

 

 いろんなものに興味があって、知ることが楽しかった。挫折や苦しい思いもたくさんしたけど、それでも失うものは何ひとつないと。

 誰ひとり、何ひとつかけることなく、そこにあることが当たり前で、そして、それが私の全てだった。

 まるで、真夏の季節みたいにひかり輝いていた日々。

 その日々がわかるということは、私はもうその日々に、その季節にいないということだ。

 もう、戻れない日々。それでも……。

 私の今の顔はきっとないものをほしがる子供のような顔をしているに違いない。

 

 周りの風景がいつも働いてる職場になり、亡くなった彼の面影がカズキに重なった。

 だんだん現実感がなくなってくる。

 何もかもが全て遠のいていく。自分のおかしささえも。

「そう、こうやって……」

 触れてみたかった……。

 私は左手を伸ばし、カズキの右腕、亡くなった彼の右腕の幻に触れた。カズキが着ているダウンジャケットの質感がまるでセーターの柔らかさに思えた。震える手をゆっくり動かしてそれを味わう。


 


 やっと、会えた。


 


 カズキにではなく、亡くなった彼に。

 そんな風に本気で思ってしまう自分が怖かった。でも、現実に帰りたくない。


 その時だった。

 カズキがダウンジャケットのジッパーを勢いよく開けて、私の左腕をつかみ胸の中心に手のひらを当てさせた。

 カズキがかなりの力を込めて私の左腕をつかんでいるのにハッとした。顔を上げて彼を見ると真摯な表情で私を見ている。

 風が冷たく頬を刺し、現実が戻ってくる。


 


 嫌だ!




「そんな何かが崩れたような顔で俺を見るな。今はこの現実しかないんだ。

確かに生きていることは非情な時もあるよ。でも人は生きている限り前にしか進めない生き物なんだよ。どんなに苦しんでたって未来しか見つめて生きていくことしかできないんだよ。

 生きていくことは、楽しいことばかりじゃないかもしれない。

 それでも、その先が幸せであろうと、辛いことであろうと、前にしか進めないんだよ。残酷だけどそれが現実なんだよ。人はどんなに望んでも過去に生きることはできないんだ。

 それから……、お前自身も言ったけど、残されてどんなに辛い時期があっても、お前が生きていくことが、好きだったヤツがこの世に生きたことの証だよ。

 後を追うとか、絶対嫌だと思うぜ?

 そして、そいつはこれから先、美佳が幸せに笑って生きていくことを心から望んでいるんじゃないのか?」

「わかってる。本当はもうわかっているの。

 亡くなった彼をどんなに思っても会えないし、生きていること事体が、もう未来へ進んでいることも……」

 答えは自分の中で出ている。頭の中ではきちんとわかっている。

 でも、認められない。認めたくない。矛盾した思いは苦しくて。

 そして、残酷なことは、生きている限り時が私の人生を刻み続けること。一番実感した。どんなに苦しくても新しい朝と毎日がやってくる。

 でも、彼が亡くなって、どんなに辛くても自分の命を断ち切ることだけはできなかった。

 彼の死を苦しんだ分、命の重さが私なりにわかったから。


 

 彼のことを思うたび、命を思うとき、愛しくて優しさに包まれて、でも辛くて切なくて。

 現実に返れば残酷で。


 

 それでも、日常暮らしていく中で、生きていることはあたり前のように見えて実は奇跡で、どんなに大切で意味のあることか。

 人ひとりの存在がどれだけの愛情と優しさに包まれているか。

 だからこそ、人は苦しくてどんなに立ち止まっているように思えても、未来へしか進めないのかもしれない。

 

 時は過去に戻らない。

 前にしか進めない。

 一瞬『生きる』という途方もなく広い荒野にひとり投げ出されたように感じて途方にくれそうになった。

 この荒んだボロボロの心を抱えて生きることの荒野を歩いていけるだろうか?

 そんな風に考えると心が虚ろになった。

 表情まで虚ろになっていたのだろうか?

 カズキは痛々しい顔をして私を見ていた。

「辛くなったら、俺はここにいる。俺は美佳のそばで、今ここで生きているよ」


 カズキはそういうと私の左の手のひらを胸の中心に強くおしつけた。

 彼は叫ぶように一気に喋っていたせいか、呼吸が少し荒くなり胸が大きく上下している。熱を持ったカズキの体温が冷え切った手に温かさを伝える。

 それと共にもうひとつ伝わってくる……。


 鼓動。

 カズキの心臓の鼓動。生きている証。

 

 同時に自分の鼓動も感じた。左手で触っているせいか彼の鼓動と自分のそれが繋がっているような気がした。

 

 生きている、私たち。

 カズキの命をより近くに感じた。


 私は目を見開いた。

「私、私は……」

「生きるって厳しい時あるよな。

 でも、俺は美佳の前から急に消えるようなマネはしない。もちろん、絶対とは言い切れないけど、そうならないように努力する。悲しませるような真似は絶対にしない」

 彼はじっと静かに私を見つめた後、ニコリと笑った。

「正直言うと、好きだったヤツへの矛盾した気持ちに揺れる美佳を見ていると、俺を見てほしいと思うよ。でも、それ以上に支えたいと思う。なぁ、美佳、俺のそばにいて。俺と一緒に生きないか?」

 さらに目が見開き、驚きで口が半開きになる。

 今、なんて……?

 私の顔を見てカズキが苦笑した。毎日見る澄んだ瞳。目じりが下がる優しい笑顔。

「なんて顔してんだよ」

 私は彼の苦笑に思わず笑顔になった。

「……カズキの努力って、タバコを吸わない、とか?」

 言葉を紡ぐと、心が溢れた。声が震えないようにするのが大変だった。

「そう。大酒飲まないとか」

 何もかもを包み込んでしまうような声を持つカズキ。

「毎日ウォーキングする、とか……」

 私の目から透明な涙が落ちた。

 カズキは照れくさそうに頷き、私の涙は途切れることなく次々頬を伝っていく。

「ありがとう」

 私の左手に重ねられているカズキの右手に手を重ねて少し俯いた。

 本当にうれしかった。

 カズキの隣なら亡くなった彼が望むように穏やかで幸せに暮らしていけそうな気がした。

 でも。

 私が東京にいられる時間は残り少なくなっていた。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ