17.ぎこちない
意識の遠くで。
カズキの声が聞こえた。
licaは彼の姿を目にして弾かれたように階段から走り去っていき、私はその場に立ちつくしたまま宙を見つめていた。
「大丈夫か?」
カズキが走り寄ってきて私の肩を支える。
「……」
私の心の中にカズキが入ってこない。
心が、視界がぶれる。
「よかったのに」
例え、刺されたとしても……。
カズキの慌てていた表情が凍りついたことすら気がつかなかった。
あの事件から2日経ったけど、私とカズキの間のぎこちない感じは戻らなかった。
いつも一緒だった私たちは今は別行動だった。
カズキは前と変わらず私を外へ連れ出そうと誘ってくれるが、私のほうが頑なに拒んでいた。
ずっと部屋に閉じこもり夜も昼も窓辺に座って上を見上げていた。
全てを拒み続けている私には青い空しかなくて、でも、広い空は何もなくて、だからこそ私は自分のことをたくさん考えた。
何かのきっかけで容易に過去に戻ってしまう自分が嫌だったし、それを乗り越えられないことは悔しかった。
でも、簡単には立ち直れない。
大好きだった彼のいないこの世界に未だに慣れない。
それを今さらながらに痛感した。
きっと私は周囲の人や環境に甘えているのだろうし、もっと強く生きていかなければいけないのだろう。
自覚はある。それは常に。
亡くなった彼の存在を忘却の彼方に追いやって、彼が最初からそこにいなかったようにふるまい、楽しそうに幸せそうに生きていかなければいけないのかもしれない。
しかし、そう思うたびに胃が焼け付くように痛くなり身体中の血が逆流して眩暈を起こしそうになる。
そして、その後の耐え難い虚脱感。
もう、何も考えたくなかった。大好きだった彼のいない現実は辛い。
そんな私の拠り所は彼と過ごした思い出だけだった。
その場所は私を慰めてくれる。私を傷つけない。
licaがナイフを振り上げた時に感じた胸の甘い痛み。それを思い出しながら心は過去へ帰っていく。
結局どこにいても同じなのだ。過去はどこまでも執拗に私を追いかけてくる。
人の助けは必要だけど、それだけではダメなのだ。
自分に足りないものはわかってる。でも……。
その日の夜中。
食べるものはともかく、飲むものすらないことに気がついて渋々アパート近くのコンビニまで買い出しに行くことにした。
財布を持ち部屋を出て階下に降りたら広間兼食堂に電気がついていた。
自然に足がとまる。外に出るにはこの通路しかない。
足音を忍ばせて進んでいくと、広間兼食堂でカズキがいてまた足がとまった。
テーブルの上にビールの空き缶が大量に散乱していた。
カズキはひとりでビールを飲みながらもの思いにふけっているようだった。そして灰皿の中にある山になったタバコの吸殻をみてギョッとした。
カズキがタバコを吸うのを知らなかった。
いや、そんな雰囲気はあったのだけど。少なくとも私の前では吸ったことがなかったのでそのことは考えないようにしていた。
今、目の前にしているお酒とタバコ。
亡くなった彼にまつわるものだった。
明るく陽気で楽しいことが大好きだった亡くなった彼は大酒飲みでヘビースモーカーだった。
彼の命を縮めた、彼の大好きだったもの。
そして、私が大嫌いなもの。
つい飲みすぎて、クセのようにタバコを手に取る彼をもっと真剣にたしなめていたら。
お酒とタバコがなかったら、彼はもっと生きたかもしれない。
そう思うと悔しくて悔しくて仕方ない。
そう思うことでしか、自分を保てない。
そこで命絶えることは運命だったのだよ、と周りの人から何度言われてもそれに耳を塞いでいる。
古い傷が痛み出すように、心が悲鳴をあげた。
私の目の前でそんなもの見せないでほしい。
私は目を伏せてどうにか気持ちを落ち着かせると、通路に背を向けたカズキから見つからないように通り過ぎようとした。
「美佳」
振り向かないまま名前を呼ばれてビクリと立ち止まる。
私の中の過去を置き去りにして、今と未来だけを繋ぐような重い声。
本当は振り切って逃げ出したい。過去だけに生きていたいのに。
自分の思いとは裏腹に私はその場を動けないでいた。