15.甘く、暗い幸せ
……これで刺されたら私は死ぬんだろうか?
切れ味のよさそうなナイフのきっ先をじっと見つめていた。
あの人の元へ行けるのだろうか?
いろんなことを思い出す。
寒い朝に聞いた訃報。その時見えた不思議なくらいに澄んでいた空。ひとりの部屋で悲しんで泣くことしかできなかった日々。裕子の優しさ、カズキの歌。
あの日々も、そして今も私は誰かに支えられてなんとか生きている。
でも結局のところ、前を向いて歩くことはできないのではないだろうか?
ほら、だって。
何かがきっかけですぐに過去を思い出してしまう。それにとらわれてしまう。
licaの暗い情念に心が揺さぶられて、無意識に蓋をして閉じこめようとしていた闇が一気に濁流となり心の隅々にまで流れわたってしまった。
やっぱり忘れることなんてできなかった。
日常の穏やかさを注意深く重ねて、傷を癒そうとしても簡単なことですぐにまた同じ場所に傷ができてしまう。穏やかだった分だけ以前より深く。
消えたい。
不意に、心が泣くように呟いた。
言葉で思うのは初めてで、でも、感覚では大好きだった彼が亡くなってからずっと馴染んでいたものだった。
懐かしくて、いとおしいようなそんな思い。
そう、私はあの日から消える場所をさがしていた。そしてそれは今も……。
これで消えることができると身体の芯が痺れるような甘美な気持ちに胸が震えた。
美佳……。
堕ちていく心にブレーキがかかるように裕子の声が心に響いてきた。
私が空虚な思いに心を浸しているといつも手を差し伸べてくれた鈴の音のような声。
心配そうな表情。
そうか、裕子は感づいていたんだ、だからあんなに必死に……。
でも、それも遠い。今あるのは闇とそれを誘う鈍い光だけ。
無意識ではともかく、今まで実感することのなかった消えることの誘惑はとても魅力的だった。
あの人が突然人生を終えたように、私も後を追い終わらせることができる。
彼を想ったまま、消えることができる。
なんて甘く、私を誘うのだろう?
この上なく心は満たされていて私は声を立てずに笑っていた。
とんでもなく暗い幸福にもっと酔いしれたい。
早く、早く私を……。
振り上げられたナイフはまだ私に刺さらない。