14.歌姫と美佳
カズキがヴォイストレーニングの間、近くのカフェでお茶を飲みながら時間をつぶした。
気まぐれに買った文庫本を読み、時おり外の風景を眺めて。
こんな風にゆっくりとした時間の中で待つ人がいるということは無駄なように思えてとても貴重なものだった。
最初は慣れなくて落ち着かなく、離れている間に消えてしまうのではないかという無意味な考えがよぎったりして叫びだしたいような焦りも感じていたけれど、時間が来ればきっと会える、そのことを繰り返しているうちに少し安心してきた。
時折、変な焦燥感に駆られても、大丈夫、と心の中で何度も繰り返して、カズキの笑顔を見た瞬間にそれは消えてしまっている。
終わる頃合いを見計らってスタジオへ行こうとオフィスビルへ戻りエレベーターで2階のフロアーに出た瞬間、誰かに襟首を掴まれてすぐ近くにある階段の昇降口の壁に背中を押し付けられた。
そこまでされてやっと相手の顔を見ることができ、敵意をむき出しにしたlicaを見た時とうとうその時が来たかという恐怖心と緊張が心をよぎった。
近い将来、licaの気持ちと私の存在がぶつかり合う時が来ることはわかっていたから。
「あんた、どういうつもりよ」
licaは身体の細さから想像できない強い力で私の右肩を突き飛ばした。
「……」
「カズキにチョロチョロまとわりついて目障りなんだよ!」
よく聞く声とは別人のような彼女の低い声。
「やっぱりそれが原因なのね」
「うるせぇ!」
私の冷静な呟きに逆上した彼女は今度は左肩を突き飛ばしてきた。後ろの壁にまともに当たって痛い。
licaは整ったクールな顔立ちに大きな瞳が映える美人だ。みんなの、特に女子中高生の憧れの的。
でも、今はそれに青白い鬼火が燃え立ってきそうなほどの憎しみの情念が加わり、美しい顔は震え上がるほどの凄味をあたえている。
私は恐怖に声が出せなくなり、それに追い討ちをかけるように胸倉をつかまれた。
「イトコっていうの、嘘だよね?」
囁くように言って目を細める。
「あんたの好きな男が死んだとか、カズキの目を引きたくてそんなつまらない嘘考えたんでしょ?」
「……!」
頭の中で彼にまつわる記憶が駆け抜ける。
まるで重くて甘い春風が強く吹き抜けていくようなそんな感じは、大好きだったあの人の断片をキラキラとよみがえらせた。
青い空の下で笑いあったこととか、仕事の休憩中にタバコをくゆらす彼の姿とか。
もう二度と見ることが出来ない笑顔。
「全部嘘だって言って今すぐカズキの目の前から立ち去りなさいよ! ほら早く!」
彼女は嘘を全部吐き出せと言わんばかりに首がしなるほどの凄い力で揺さぶってくる。
彼のことを一気に思い出してとたんに現実感がなくなり、恐怖心が薄れていく。
中途半端に与えられる恐怖より悲しみの方が強いときもある。
そんな感覚をきっとlicaはわからないだろう。
「嘘だったら、どんなにいいか……」
大好きだった彼を失った直後の喪失感を思い出した。
安穏とした場所にいる私をあざ笑うかのように襲ってくる決して消すことの出来ない悲しみが口を開けて待っている。
私はまたあの暗闇に迷い込んでしまうのだろうか?
もう、迷い込みたくない!
心が叫ぶ。
お願い。
もう、私を引っ張り込まないで。そっとしておいて。
「悲劇のヒロインぶってるんじゃないよ。目の前から消えないのなら、私があんたを消してやる」
licaは低い声で呟くとポケットから大ぶりのバタフライナイフを取り出して慣れた手つきで刃を出し振り上げる。
私は自分に向けられた鈍い光を放つ凶器を見つめことしかできなかった。