4 堕ちた魂
「何だ...あれは...」
アキトが驚愕した。
タケルの身体が膨張し、青黒い鱗に覆われていく。背中から翼が生え、顔は竜のような形に変貌していく。そして胸の中央で、青い魔核が心臓のように脈打っていた。
「虚核...」
ルカスが呟いた。
「そんな...ヴォイドは倒したはずなのに...」
しかし、目の前の現実は否定できなかった。タケルは完全に魔物と化し、理性を失って咆哮を上げていた。
青黒い人竜となったタケルが、ギルドメンバーたちを見下ろしている。その瞳に、もう人間の光はなかった。
「タケル...」
アキトが悲しそうに呟いた。
その瞬間、タケルの意識の奥底で何かが揺れた。
(...でも、みんなは...認めてくれてる...のか?)
アキトの悲しそうな表情、ルカスの困惑、リーネの心配そうな眼差し。それらが一瞬、魔核の支配を押し戻そうとする。
しかし、青い魔核の声がより大きく響いた。
(認められるためには、力が全てだ...!強くなければ、また無視される...!)
人間としての感情は再び闇に沈んでいく。
「みんな、下がって!」
アキトがペンダントに加工された白銀の魔核を握りしめた。しかし、その時、隣からもう一つの光が立ち上がった。
「私も戦うわ」
リーネが胸に手を当てていた。そこには、炎の色をした精霊核が輝いている。
「リーネ?」
「私たちの仲間を...友達を傷つけたのよ。許せない」
リーネの瞳に、かつてない怒りが宿っていた。
そして二人は、同時に叫んだ。
「ソウルフォージ!」
白銀の光と紅蓮の炎が同時に爆発した。
アキトの周りに舞い上がった白い光は、瞬く間に美しい白銀の炎となって彼を包み込む。その炎は純白でありながら、どこか温かみのある輝きを放っていた。光の中から現れたアキトは、白銀の鎧に身を包み、手には神々しく輝く白い炎を纏った剣を握っている。
一方、リーネの変身はより劇的だった。彼女の周りに立ち上がった紅蓮の炎は、まるで生きているかのように激しく踊り狂い、その熱気で周囲の空気が歪んでいる。炎が収束すると、そこには焔色の髪を風になびかせた戦乙女の姿があった。赤と金を基調とした軽装の騎士装束に身を包み、その小柄な体に似合わぬ巨大な炎の大剣を軽々と構えている。刀身に刻まれた金と黒の紋様が、獣の咆哮を思わせる荒々しい輝きを放っていた。
「グオオオオオ!」
青黒い人竜と化したタケルが咆哮を上げた。その口から吐き出される青い炎が、石畳を溶かしながら二人に襲いかかる。
「散開!」
アキトの指示と同時に、二人は左右に分かれて跳躍した。青い炎は二人の間を通り抜け、背後の建物の壁を黒く焦がしていく。
「あんなのタケルじゃない!」
空中でリーネが叫んだ。彼女の背中に輝く小さな炎の羽根が、まるで本物の翼のように彼女の体を支えている。
「でも、止めなければならない!」
アキトが白銀の剣を振るった。剣先から放たれた白い炎の斬撃が、タケルの巨大な体に向かって一直線に走る。
しかし、タケルは翼を広げてその場から舞い上がった。青黒い翼が羽ばたくたびに、青い火の粉が散り、地面に小さな爆発を起こしていく。
タケルの動きが一瞬止まった。戦闘の合間、攻撃の手を止めた瞬間に、再び人間としての意識が浮上する。
(俺は...何をしている...?みんなを...仲間を傷つけて...)
しかし、その迷いを魔核が即座に打ち消した。
(弱い考えだ...お前を見下していた連中だ...力で従わせろ...!)
理性と魔核の声が激しく葛藤し、タケルの巨体が小刻みに震えた。
「逃がさないわ!」
リーネが大剣を頭上に掲げた。刀身に宿る紅蓮の炎が激しく燃え上がり、その熱で周囲の空気が陽炎のように揺らめく。
「炎獅咆哮斬!」
リーネが大剣を振り下ろすと、炎の軌跡が巨大な獅子の形となって空中を駆け上がった。咆哮を上げながら突進する炎の獅子は、タケルの左翼を直撃する。
「グアアアア!」
タケルが苦痛の声を上げながら墜落した。巨大な体が地面に激突し、石畳に大きなクレーターを作る。
「今よ、アキト!」
「ああ!」
アキトが白銀の剣に力を込めた。剣身が眩いばかりの白い光に包まれ、その輝きは見る者の目を眩ませるほどだった。
「白銀煌炎斬!」
アキトが剣を横一文字に薙ぐと、半月状の白い炎が地面を這うように走っていく。その軌跡には美しい白い花のような炎が咲き乱れ、まるで光の絨毯のようだった。
しかし、タケルは咄嗟に青い炎のバリアを展開した。アキトの攻撃は青い炎に阻まれ、爆発音と共に相殺される。白と青の炎がぶつかり合い、虹色の火花を散らしながら消えていった。
「まだこんな力が...」
アキトが呟いた時、タケルの胸で青い魔核がより激しく脈動し始めた。黒い魔力の血管のようなものが全身に広がり、タケルの体をさらに巨大化させていく。
「グルアアアアア!」
タケルが両腕を天に向けて咆哮した。その瞬間、青い炎の竜巻が彼を中心に巻き起こった。竜巻は瞬く間に巨大化し、周囲の建物を巻き込んでいく。
「危険よ!」
リーネがアキトの腕を掴み、二人で竜巻から距離を取った。しかし、青い炎の竜巻は二人を追うように移動してくる。
「このままじゃ街が...」
「分かってる!」
アキトとリーネは顔を見合わせた。二人の間に、言葉を交わすことなく理解が生まれる。長年のパートナーとしての絆が、今も確かに存在していた。
「やるわよ、アキト!」
「ああ、リーネ!」
二人は同時に駆け出した。アキトは右から、リーネは左から、青い炎の竜巻を挟み撃ちにするように走る。
アキトの白銀の剣が軌跡を描くたびに、白い炎の軌道が空中に残る。それは美しい幾何学模様を描き、まるで天使の羽根のような形を作り上げていく。
一方、リーネの炎の大剣は、振るうたびに赤い火の軌跡を残した。その軌跡は獣の爪痕のように鋭く、荒々しい美しさを持っている。
「今だ!」
二人の声が重なった瞬間、白と赤の炎が青い竜巻に向かって突進した。
「白銀鳳凰翔!」
アキトの白い炎が美しい鳳凰の形となって舞い上がる。その翼は優雅でありながら力強く、青い竜巻を包み込むように飛翔していく。
「紅蓮獅王撃!」
リーネの赤い炎が獰猛な獅子となって地を駆けた。その咆哮は大地を震わせ、青い竜巻の根元に突進していく。
白い鳳凰と赤い獅子が青い竜巻に激突した瞬間、世界が光に包まれた。
三色の炎がぶつかり合い、空間そのものが歪んでいく。白い鳳凰の優雅さ、赤い獅子の荒々しさ、青い竜巻の禍々しさが絡み合い、まるで天地創造の瞬間のような光景を作り出していた。
爆発の中心で、タケルの人竜としての姿が露わになる。青い魔核の光に照らされた彼の表情には、もう人間らしさの欠片も残っていなかった。
「タケル...」
アキトが悲しげに呟いた。しかし、その感傷に浸る暇はない。
タケルが両腕を交差させると、青い炎の刃が無数に生成された。それらは一斉にアキトとリーネに向かって飛来する。
「くっ!」
アキトが白銀の剣で炎の刃を弾き飛ばしていく。一撃一撃の重さは凄まじく、受けるたびに石畳に足がめり込んでいく。
リーネも大剣を振り回して応戦したが、炎の刃の数があまりにも多すぎた。
「きゃあ!」
一本の青い刃がリーネの左肩を掠め、鮮血が舞い散る。
タケルの心の奥で、最後の良心が叫んだ。
(リーネを...傷つけた...?俺が...仲間を...!)
彼女の痛みに歪んだ表情が、タケルの魂を激しく揺さぶる。しかし、魔核の支配はもはや絶対的だった。
(力を使え...さらに強く...さらに激しく...!認めさせるんだ...!)
人間としての罪悪感は、青い炎に飲み込まれていく。
「リーネ!」
アキトが叫んだ瞬間、彼の怒りが白い炎に宿った。白銀の剣が今までにない輝きを放ち、その光は太陽のように眩しく燃え上がる。
「許さない...」
アキトの声が低く響いた。白い炎が彼の全身を包み、まるで光の鎧を纏ったような姿になる。
一方、傷を負ったリーネの瞳にも炎が宿った。しかし、それは怒りではなく、強い意志の炎だった。
「私たちの絆を...甘く見ないで!」
リーネの大剣に、これまでとは違う炎が宿った。それは赤い炎の中に金色の輝きを秘めた、より高次元の炎だった。
「グオオオ!」
タケルが再び青い炎を吐こうとした、その時。
アキトとリーネが同時に動いた。
二人の動きは完璧に同調していた。アキトが右に跳躍すると同時に、リーネは左に跳ぶ。アキトが剣を振り上げるタイミングで、リーネも大剣を構える。
まるで一つの意志で動く二つの体のように、二人の連携は完璧だった。
「絆翔炎舞!」
二人の声が完全に重なった瞬間、白と赤の炎が螺旋状に絡み合いながら上昇した。それは竜のような、鳳凰のような、そして何より美しい光の柱を作り上げていく。
螺旋の炎はタケルを中心に回転しながら収束していき、青い炎を浄化するように包み込んでいく。
「グ...ガ...ア...」
タケルの咆哮が弱々しくなっていく。青黒い鱗が剥がれ落ち、巨大な翼が光に溶けていく。そして最後に、胸の青い魔核が激しく明滅した後、砕け散った。
光が収まった時、そこには人間の姿に戻ったタケルが倒れていた。
「タケル...」
アキトとリーネが駆け寄る。タケルの体には青い魔核の欠片が散らばり、その瞳には最後の瞬間、人間らしい光が戻っていた。
タケルの意識に、"鉄の絆"での日々が蘇ってきた。
(「タケルくん、初めまして♪」...シフォンが笑顔で声をかけてくれた日)
(「タケル、君はしばらく事務作業に専念してくれ」...あの時、ルカスの目には失望ではなく、心配の色があった)
(「遠慮しないで〜。みんな仲間でしょ?」...リーネが気遣ってくれた温かい言葉)
(「タケル、今度のBランク依頼には一緒に行こう」...アキトが約束してくれた時の優しい表情)
みんな...みんな俺の名前を呼んでくれていた。俺を見ていてくれていた。俺のことを心配してくれていた。
それだけで...それだけで充分だったのに。
なぜ気づけなかったんだろう。なぜあの温かさと向き合えなかったんだろう。
弱い自分が嫌で、認められたくて、でも本当は...本当はもう認められていたのに。
「アキト...さん...」
か細い声でタケルが呟いた。
「俺は...何を...」
「もう喋るな。すぐに治療を...」
しかし、タケルは静かに首を振った。
「ダメです...もう...」
タケルの体が光の粒子となって消え始めていた。青い魔核に侵されすぎた彼の体は、もう元には戻らなかった。
「ごめん...みんな...本当に...」
(俺は...弱い自分と向き合えなかった...それが...一番の間違いだった...)
その言葉を最後に、タケルの体は完全に光となって散っていった。
後には、砕けた青い魔核の欠片だけが残されていた。
静寂が辺りを支配する中、アキトとリーネはその場に立ち尽くしていた。
アキトの白銀の剣が、力なく手から滑り落ちた。カランと乾いた音を立てて石畳に転がる剣を、彼は見つめることもできない。膝がガクガクと震え、やがてその場に崩れ落ちた。
「タケル...」
アキトの声が掠れていた。握りしめた拳が小刻みに震え、唇を噛みしめて下を向く。肩が小さく上下し、抑えきれない嗚咽が漏れそうになる。
「俺は...俺は何をしたんだ...」
彼の瞳から、一筋の涙が頬を伝って落ちた。
リーネも同様だった。ソウルフォージが解除され、いつもの姿に戻った彼女の顔は青ざめ、朱色の瞳に涙が溜まっている。
「私たち...私たちが殺したのよ...」
リーネの声は震えていた。両手で自分の腕を抱きしめ、まるで自分自身を支えるように身を縮こまらせる。
「もっと早く気づいていれば...もっと彼の話を聞いていれば...」
彼女の涙がポロポロと石畳に落ちていく。
アキトは立ち上がろうとしたが、足に力が入らない。青い魔核の欠片を見つめ、その一つを手に取った。手のひらの中で、もう光ることのない欠片が冷たく感じられる。
「タケル...お前は...お前は本当は...」
言葉が続かない。アキトの胸に、やりきれない後悔が重くのしかかっていた。
リーネは膝をついて、タケルが消えた場所に手を伸ばした。そこにはもう何もないのに、まるで彼がまだそこにいるかのように。
「ごめんね...ごめんね、タケル...」
彼女の声は、かすれて聞こえなくなっていく。
二人の間に横たわる沈黙は、あまりにも重く、あまりにも深かった。風が吹いて、青い魔核の欠片をひとつ、また一つと飛ばしていく。
戦いは終わった。しかし、勝利の喜びはそこになかった。
ただ、深い悲しみと、消えることのない後悔だけが二人の心を包んでいた。
遠くで、シフォンやルカス、エリーゼたちがゆっくりと近づいてくる足音が聞こえていたが、アキトとリーネには聞こえていなかった。
彼らはただ、失った仲間のことを想い、涙を流し続けていた。




