第73話「“元”剣聖、禁忌の王と相対す」
重苦しい赤い警告灯が、一定のリズムで通路を染めていた。
警報音と重なるたび、まるで心臓の鼓動が外部に露出したかのように、空間全体が脈打って見える。
その赤光に照らされたレイスの顔には、驚愕と緊張の色が浮かんでいた。
闇の奥から歩み出てきたのは――見間違えるはずもない男。
王冠こそ戴いていないが、その背筋は伸び、纏う気配は威圧的。
彼はかつて国の頂点に立った者、ギアブルグ王その人だった。
男は口の端を釣り上げ、堂々とした姿勢のまま、ゆったりと足を進めながら訂正する。
「今となっては、”前”ギアブルグ王だがね」
その声音には老獪な余裕が滲み、再会を心底愉しむかのような響きがあった。
不敵な笑みを浮かべるその歩みは、床に広がる赤い液体を靴底で踏み締め、鈍く湿った音を鳴らす。
液体の表面に浮かぶのは、実験体の残骸や肉片――それをものともせず進む姿は、人間性の欠片すら失っているように見えた。
「まったく、温情をかけてやったというのに……奴隷風情に足元をすくわれるとは思わなんだよ」
自嘲とも嘲笑ともつかぬ声が、血と薬品の匂いに満ちた通路に響く。
赤と白の点滅が彼の横顔を照らし、その瞳の奥に潜む狂気を際立たせていた。
少しずつ近づいてくるその圧に、レイスは自然と双剣を握る手に力を込める。
喉が焼けるような薬品の匂いの中で、彼の吐息が荒く響いた。
「……なんであんたほどの人が、こんなことを」
低く、抑えた問いかけ。
その声音には怒りよりも先に、理解不能への戸惑いがあった。
返ってきたのは――まるで告解のように、淡々とした独白だった。
「魔王との大戦の時、私は妻も娘も失った。戦いには勝った。だが……その果てに残ったのは、虚ろな喪失だったよ」
低く落とされた声に、赤光が影を伸ばす。
男の横顔には悲嘆の色が一瞬だけ過ぎったが、次の瞬間にはそれを覆い隠す狂気の輝きが覗いた。
「その時に気付いたのだ。力が無ければ、何も救えないと」
レイスは沈黙のまま、その言葉を受け止める。
英雄としての過去を背負う者として、その痛みを軽んじることはできなかった。
だが同時に――理解を許してはならないという確固たる拒絶が胸の奥に生まれていた。
「君たち英雄の強さを見て思ったよ。私にもその力があれば……とね」
前王はそう言いながら、ゆっくりと服の袖をめくり上げる。
赤い警告灯が照らし出したその腕を見て、レイスは息を呑んだ。
「っ……! なんだ、その腕……」
そこには無数の宝玉――赤黒く光る賢者の石が、筋肉と血管の間に埋め込まれていた。
石の輝きは脈打つように明滅し、血液の循環と共鳴しているかのように、妖しく点滅を繰り返している。
石と肉が癒着し、もはや一体化した異様な光景。人間の腕と呼ぶには、あまりに異形だった。
「美しいだろう? これが力を得た私の姿だよ」
陶酔するように告げる声。
だがレイスの目には、それは力への渇望が形を歪めた醜悪な象徴としか映らなかった。
「……あんたのその野望のために……一体どれだけの命が犠牲になったと思ってやがるッ!」
レイスの怒声が通路を揺らす。
それでも前王は、肩を竦め、冷ややかに笑う。
「そんな塵芥の命など知らん。私は手に入れるのさ――神をも凌駕する力を。そして……家族を蘇らせるッ!」
次の瞬間、異様な音が響き渡った。
筋肉が引き裂かれるように裂け、骨が伸び縮みし、皮膚が盛り上がる。
背骨が悲鳴を上げるように隆起し、筋繊維が次々と弾け、膨れ上がった肉塊に賢者の石が深く食い込んでいく。
血管が墨のように黒く染まり、皮膚の下を脈動して這い回る。
賢者の石が発する光が、赤光と混ざり合って異様な色彩を生み出した。
やがてその両目は完全に深淵の闇に沈み、黒い瞳孔だけがぎらつく。
――人間ではない。
その変貌を目の当たりにして、レイスは吐き捨てるように言った。
「バケモノに成り下がってまで禁忌を犯すか……。悪いが、俺たちの守った世界で二度と地獄が生まれないように――阻止させてもらう」
足を強く踏みしめ、双剣を構える。
刃の切っ先が赤光を反射し、歪んだ影が壁に踊った。
赤い光と白い蒸気の中、二つの影が対峙する。
そして――空気そのものが軋むほどの殺気が、通路を満たしていった。




