第72話「“元”剣聖、黒眼の群れを屠りし先に現れた影」
レイスの視線が捉えているのは、地獄が広がっているような巨大な水槽。
小さく息を吐くと、双眸に鋭い光が差し、剣が横薙ぎに振り抜かれる。
ピシッと巨大な水槽が鈍い悲鳴をあげ、次の瞬間には外壁が粉砕された。
奔流のように赤い液体が噴き出し、轟音と共に床を押し流す。
薬品と血の混じった匂いが一気に空気を侵し、喉を焼くように広がった。
液体と共に、膨張し変色した魔物の残骸、人間の手足が流れ出し、床で弾んで不気味な音を立てる。
「……クソッ……」
施設全体が震えた。
直後、耳をつんざく警報音が鳴り響き、赤い警告灯が点滅を繰り返す。
金属の扉が一斉に閉じられ、排気口から白い蒸気が噴き出した。
「……来る」
レイスは息を整え、双剣を握り直す。
足元では崩れた死体が絡み合い、赤い液体が靴を浸してじわりと冷えた。
そのとき――闇の奥から影が揺れた。
ひとつ、ふたつ、みっつ……。
黒目の男たちが通路の奥や天井から這い出すように現れ、数を増やしていく。
肩が脱臼したまま無理やり回る者、骨の折れる音を鳴らしながら走る者――人間の動作であって人間ではない、不気味な群れ。
十を超える視線が、一斉にレイスを射抜いた。
全てが黒い瞳――瞳孔も白目もない、暗闇の玉。
「……チッ。数で来やがるか」
次の瞬間、群れが一斉に走り出した。
鋼の拳が雨のように降り注ぐ。
レイスは床を蹴り、瓦礫を盾にしながら飛び込み、斬撃を叩き込む。
一本目――首を跳ね飛ばす。
振り返りざまに肘で一体を突き飛ばし、足払いから双剣で胸を裂く。
返す刃で別の腕を切断し、背後からの拳を回転蹴りで弾いた。
その動きに連動して、天井の管を切り落とし、液体が飛沫となって敵の目を覆う。
だが――数が多い。
「……っはぁ……はぁ……!」
息が荒い。
“千鳥”の余波で全身が痺れている。握る剣の感覚すら遠のきかけていた。
黒目の男たちは無言で迫り、倒れても起き上がる。
床を血まみれにしながらも、動きを止めることはない。
拳と脚が嵐のように襲いかかり、壁や床が粉砕されていく。
「こんなもんで……止まるかよッ!」
レイスは片膝をつきながらも剣を振り抜いた。
魔力を無理やり刃に込め、閃光のような一閃を放つ。
爆ぜる衝撃が群れをまとめて薙ぎ払い、三体が同時に吹き飛んだ。
だが、残りはまだいる。
背中に嫌な気配――。
反転と同時に斬撃、だが拳が肩をかすめ、鮮血が飛ぶ。
「……ぐッ!」
血の匂いがさらに群れを刺激したのか、男たちの速度が増す。
膝を突くレイスへ、最後の三体が飛びかかる。
歯を食いしばり、彼は低く呟いた。
「……落ちろッ!」
床に転がっていた鉄パイプを蹴り上げ、ひとりの視界を遮る。
その隙に背後へ滑り込み、双剣を交差させて二体の胴を裂いた。
残った一体が拳を振り下ろす。
咄嗟に肩で受け止め、肉を裂かれる痛みに耐えつつ、渾身の突きを胸へ叩き込む。
――黒い瞳がひび割れ、崩れ落ちた。
静寂。
荒い呼吸と、警報音だけが響いた。
「……っはぁ……はぁ……」
剣を突き立て、なんとか立ち上がる。
床には黒目の男たちが無惨に散乱し、赤い液体がさらに広がっていた。
熱と鉄臭さで肺が焼けるようだ。
そのときだった。
「――随分と暴れてくれたね」
唐突に、落ち着いた声が空間を満たす。
レイスは振り返り、息を止めた。
闇の奥から現れたのは、見覚えのある人間の姿。
堂々とした体躯、年齢を刻んだ威容。
歩くたびに靴音が重く響き、衣擦れが空気を切る。
「結構お金もかかっているんだよ? レイス君」
薄い笑みを浮かべ、男は足を進める。
その目に宿るのは、支配者だけが持つ冷酷な光。
「……ギアブルグ王……!」
レイスの瞳が鋭く光る。
そこに現れたのは、前ギアブルグ王だった。




