第71話「“元”剣聖、雷鳴と共に賢者の核を断つ」
レイスの双眸は静かに男を見つめる。
静かに息を吐き、刃先をわずかに下げる。
「来いよ」
男が一歩、床を踏む。石床が凹み、次の瞬間、視界から掻き消える――。
次の瞬間、無音で迫った黒い拳が、空間ごと押し潰すように振り下ろされた。
ギィィン――!
剣と拳が噛み合い、火花が白い尾を引く。圧力の余波だけで、背後の配管にヒビが走った。
男は間髪入れずに二撃、三撃。拳が槌の連打のように降る。
レイスは刃を滑らせ、受け流し、最短軌道で反撃を差し込む。
肘、膝、喉元――急所を狙った斬線は寸前で硬化皮膚に阻まれるが、そのたびに黒目が揺れ、男の体勢が微かに軋んだ。
(硬いだけじゃない。石が“動き”を補正してやがる……なら、核を断つ)
男の踵が床を穿ち、横薙ぎの拳圧が空気を裂く。
レイスは身を沈めて潜り抜け、足首に刃を叩き込み、膝関節へと連撃を重ねる。
鈍い破砕音。男の片膝が崩れた。
「そいつが弱点か?」
踏み込み。双剣の片方が胸へ一直線――しかし男は体幹だけで後方へ滑るように退き、刃先はわずかに逸れた。
視界の端で、赤い結晶が鼓動のように明滅する。
脈打つたび、男の失った均衡が補われ、破れた筋肉が吊り上がる。
(やっぱり“核”はそこか)
レイスは呼気を細く吐く。
ユインとスライは上へ逃げ切った。ならば、ここで仕留める。
男が吠えた――いや、声帯ではない。石が鳴いた。
濁った衝撃波が押し寄せ、耳の奥を針で刺すような痛みが走る。
次弾、跳躍。天井近くまで舞い上がった男が、落下の慣性を載せた踵落としを叩き込んでくる。
レイスは、それを躱すと後ろに飛び、距離を取る。
男から視線を逸らさず、刃を鞘へ滑らせた。
足裏で床の目を読む。肩の力を抜き、視線を胸の一点に固定する。
世界の輪郭が静まり、音が遠のく。
男の影が覆い被さる――刹那、レイスは半歩だけ踏み、腰を切った。
「……おせぇ」
鞘鳴り。
次いで、斬閃。
――抜きつけた刃が、雷の線になった。
火花が散ったように見えたのは錯覚ではない。
刃が空気を裂く速度で生じた帯電が、千の微かな音を鳴らす。
耳の奥で、細い小鳥の囀りが幾重にも重なった。
「神ノ斬流抜刀術――“千鳥”」
閃光は一本ではない。
見えるのは一筋、だが実際には千筋。
同じ軌跡を万回なぞるように、同一点へと斬線が重ねられる。
狙いは、胸――賢者の石。
男の踵がレイスの肩口を掠める。皮膚が裂け、血が飛ぶ。
同時に、刃は目的の核へ到達した。
チ……チチチチチ――ッ!
結晶が、悲鳴のような音を立てて割れる。
赤い光が花弁のように散り、黒い血管がしぼむ。
瞬きほどの間に、石の輝きが色を失い、蜘蛛の巣のような亀裂が全面へ走った。
最後の一閃が、核を貫いた。
甲高い破断音。
賢者の石は粉塵となって崩れ、赤い砂になって胸腔へ流れ込む。
男の体がぎくりと痙攣し、糸が切れた操り人形のように膝から崩れ落ちた。
遅れて、重い風が吹き抜ける。
赤い水槽の中の泡が一つ、二つ、途切れた。
室内を支配していた不快な脈動が、嘘のように止む。
レイスは静かに刀身の血を払うと、刃を鞘へ収めた。
肩口の傷が焼けるように痛むが、立つ足は揺れない。
「そこで寝てろ」
男の黒い瞳から、墨が溶け出すように色が抜けていく。
空虚な眼差しが天井を向いたまま、完全に動かなくなった。
足元に散った赤い砂を見下ろし、レイスは奥歯を噛みしめる。
この砂一粒に、どれだけの命が混ざっているのか――想像するだけで吐き気がした。
「全部、ぶっ壊す。こんな地獄が、生まれないように」
そう呟いた瞬間、遠くで警報が鳴り始めた。
赤い光が警告灯のように壁を舐め、どこかで重い錠が外れる音がした。
レイスは顔を上げる。
ユインとスライが待つ“塔”へ戻る前に、やるべきことがまだある。
この施設の心臓部を、完全に止めることだ。
鞘に添えた指先に、まだ微かに“千鳥”の痺れが残っている。
彼は一度だけ深く息を吸い、赤い光の奥へと歩み出した。




