第70話「“元”剣聖、命を喰らう赤き水槽を見る」
扉の向こうから現れたのは、一人の男だった。
黒いスーツに無表情、そして場違いなサングラス。
「……お前……」
レイスの瞳が鋭く光る。すぐに、その違和感を察した。
姿形は人間でありながら、そこには「意識」も「感情」もない。空っぽの器が歩いている――そんな異様さ。
歩みはぎこちなく、骨の軋む音が響く。関節が人の可動域を越えて、無理に動かされているようだった。
次の瞬間、男は唐突に走り出した。
弾丸のごとき勢いでレイスに肉薄し、拳を振り下ろす。
反射的に剣を抜き合わせた瞬間――耳をつんざく金属音が鳴った。
「……っ!」
拳は黒く変色し、皮膚が岩のように硬質化していた。
生身ではあり得ない強度、まるで鋼鉄の塊。
レイスは即座に体勢を低く落とし、肘で顎を打ち上げる。
骨が砕ける音を響かせ、回し蹴りで吹き飛ばした。
男は床を削りながら叩きつけられ、短い沈黙の後、サングラスが砕け散る。
現れたのは――墨を流し込まれたように真っ黒な瞳。瞳孔すら存在しない、異様な眼球。
「ユイン、スライを連れて塔に行け。あれは……嫌な予感がする」
「……あれって、スライちゃんと同じ……!?」
ユインの顔が蒼白に染まる。レイスは一度だけ首を振った。
「考えるのは後だ。いいか、俺があいつと鍔迫り合ったら――振り返らず走れ」
その声は鋼のように硬い。ユインは迷わず頷いた。
レイスが剣を構えると、刃が光を帯びる。
次の瞬間、閃光の斬撃が叩き込まれ、男は防御体勢のまま地面へ押し潰された。
「今だ、行けッ!」
ユインはスライを抱き、出口へ走る。
男の黒目がぎょろりと揺れ、二人を追う。
だが、その視線を遮るように、レイスの口元が歪んだ。
「随分、余裕じゃねぇか……黒目野郎」
刃に魔力が集い、青白い光が室内を照らす。
空気が震え、床石が割れる。
「なら――良いもんプレゼントしてやるよッ!」
ゼロ距離から放たれた魔力斬撃が炸裂する。
耳を焼く轟音とともに、男の腕が切り裂かれ、胴へ深い傷が走った。
「ほら、もう一発ッ!」
二撃目の斬撃が地面を巻き込み、床を崩壊させる。
男の身体は瓦礫と共に奈落へ落ちた。
レイスもためらわず飛び込む。
着地した瞬間、空気の質が一変した。
そこに広がっていたのは、異様な光景。
闇に浮かぶ超巨大な水槽。赤い液体に沈むのは――人間、魔物、薬草、鉱石。
赤く濁った液体の中で人間の肌は膨れ、裂け目から血泡を噴き出す。
魔物は角や牙を伸ばし続け、醜悪な姿に変じていた。
呻きとも泡立ちともつかぬ音が、液体の奥でぼやけて響く。
「……くっ……!」
吐き気を堪え、レイスは歯を食いしばる。
(こんなものを、人の手で造ったってのか……! ふざけやがって……!)
水槽の前には奇妙な装置。
ガラスケースの中で、小さな赤い結晶――賢者の石がポタリ、ポタリと落ち、赤い山を築いていく。
「……許せねぇ。人の命を……なんだと思ってやがる……!」
レイスの声は怒りに震え、響き渡る。
――その背後で瓦礫が崩れる音。
振り返ると、男が再び立ち上がっていた。
裂けた胸元。そこに埋め込まれた賢者の石が脈打ち、赤い光が血管を這い回る。
皮膚の下で黒い血管が浮き出し、肉体は不気味に膨張。
関節が逆方向に折れ曲がり、骨が無理に戻る音が響く。
――人間の形を保った“何か”。
レイスの背筋に冷たいものが這い上がった。
これは兵士でも実験体でもない。
“人を超えた、歪な怪物”だった。




