第69話「“元”剣聖、赤の水槽と黒い瞳」
奥の扉を開けると、室内は先ほどまでの青い光景とは一変していた。
ここに並んでいたのは、赤い液体に満ちた巨大な水槽。
まるで血を濃縮したかのような深紅の液体が、照明に怪しく反射しては静かにうねりを描いている。
空気は重く、鉄の錆のような匂いが鼻腔を刺す。
その中に――見覚えのある姿が浮かんでいた。
「……スライ!」
レイスは思わず叫ぶ。
水槽越しにこちらを見たスライは、必死に両手を伸ばし、青白い指先で硬いガラスを叩いた。
乾いた鈍音が幾度も響き渡り、その切迫感が室内の空気をさらに張り詰めさせる。先ほど耳にした異音の正体は、スライが必死に水槽を叩き続けていた音だったのだ。
レイスの表情が険しく歪む。
「チッ……こんな真似しやがって……!」
瞬間、彼は迷うことなく双剣を抜き放ち、力任せに水槽を叩き割った。
分厚い外壁は鋭い金属音を残して亀裂を走らせ、次の瞬間には圧力に耐えきれず大破した。
轟音とともに赤い液体が奔流のように溢れ出し、床を一瞬で赤に染める。
その渦中から、衰弱したスライの身体が吐き出されるように崩れ落ちた。
「スライちゃん……!」
ユインは駆け寄り、自分の白衣を脱ぎ捨てるようにしてスライの体に掛ける。小さな体を必死に抱き寄せ、声を震わせながら呼びかけた。
「大丈夫……大丈夫だから……!」
レイスも膝をつき、素早く脈を取り、瞳孔を確認する。
「衰弱はしてるが……命に別状はなさそうだな」
スライの唇がかすかに動き、かすれた声が漏れた。
「……急に……拐われて……気づいたら……ガーベラさんのところにいた……」
「ガーベラ……?」
レイスとユインが同時に顔を上げる。
スライの言葉は途切れ途切れだが、確かに耳に届いた。
「『しばらくここにいろ……多少は……時間が稼げる』……そう言われた……でも……そのあと……」
レイスの心に不穏な予感が広がる。
(時間が稼げる……? ガーベラは、スライを守ろうとしてた……?)
「……急に来た人に……ガーベラさんは……殺されて……」
スライの声が震えた。小さな拳が白衣をぎゅっと握りしめ、涙がにじむ。
「……それから……薬を打たれて……気づいたら……ここに……色んな検査をされて……水槽に……」
ユインが小さく息を呑む。
まるで心臓を鷲掴みにされたような吐き気が走った。
レイスは低く舌打ちをする。
「一体どういうことだ……情報が錯綜してやがる」
「ですが……」
ユインの眼差しは鋭く光った。
「どのみち、ドットベル教授は黒で間違いありません。一度、接触すべきです」
「ああ……そうだな」
レイスが応じた、その時――
スライの身体がガクンと力を失い、ユインの腕からずり落ちかけた。
「スライちゃん!?」
ユインが慌てて抱き直す。
しかし次の瞬間、あり得ない現象が起きた。
スライの首がぎこちなく持ち上がり、だらりと垂れたはずの瞼が音もなく開く。
そこに覗いたのは、漆黒に染まった瞳。
人のものとは思えぬ冷たい闇がそこに宿っていた。
「……オトコ……クル……ココ……センジョウ……ナル……ニゲ……ロ……」
その声は不気味に掠れ、幼いスライのものとは到底思えなかった。
まるで何者かが口を借りて囁いているかのように。
言葉を終えると同時に、スライの身体は再び崩れ落ち、意識を失った。
「なに……今の……」
ユインの頬が蒼白になる。
「おい! スライ! しっかりしろ!」
レイスの叫びが、冷え切った室内に虚しく反響する。
――その直後。
奥の扉が、ゆっくりと、しかし確実に開かれる音が響いた。
鉄が軋む重低音と共に、冷たい空気が押し寄せる。
赤い液体の匂いに混じって、さらに生臭い臭気が流れ込み、喉の奥に張り付く。
照明の光がわずかに揺らぎ、影が床を這うように伸びた。
レイスとユインはとっさに振り返り、刃と視線を構える。
沈黙を切り裂くように、扉の向こうから重い足音が一歩、また一歩と近づいてくる。
その姿はまだ見えない。
だが確かに、戦場の幕開けを告げる気配がそこにあった。




