第51話「“元”剣聖、守るべき小さき者に手を伸ばす」
スライが男の方へと足を踏み出した、その瞬間だった。
がし、と。
細い肩に、無骨な手が伸びる。スライの腕を軽く制止したのは、レイスだった。
「……レ、レイスさん?」
「わりぃな。こいつは今、俺が雇ってんでね。勝手に連れて行かれると困るんだよ」
レイスは男を一瞥しながら、どこか間延びした口調でそう告げる。だが、その声には冷えた鋼の芯があった。
「……それに、ガキ一人に粘着してるあんたみたいなこわ~いおっさんに、スライを任せるつもりはないね」
冗談めいた言葉の裏にある、明確な敵意。
男の眉間にしわが寄った。煙草を唇から外し、足元でぐりっと潰すと、レイスを真正面から睨み据える。
「……お前、よそもんだな?」
「ああ、まぁ」
「俺はここらじゃ、ちぃっと名の通った元締めでな。スライの親父さんから面倒見てて、スライは俺にとっちゃ娘同然。口出しされる言われはないな」
自分の立場を誇示するように、男は胸を張る。
だが、その態度はスライを思いやっていたボルドとは、明らかに対照的だった。
(こいつは……“敵”だな)
レイスの視線が鋭くなる。両者の間に、火花が散るかのような空気が走る。
今にも剣が抜かれそうな、その緊張を破ったのは――ユインだった。
「申し訳ありませんが、今スライちゃんは私たちの”依頼”で一緒にいます。だったら優先されるべきは、こちらです――そうでしょ、元締めさん?」
その声音は柔らかいが、鋭い刃のような意志を含んでいた。
視線を正面から受けた男は、喉をひくりと鳴らし、一拍置いてから口角を吊り上げた――。
「……ほう? 良い女じゃねぇか。気に入ったぜ。今回はお前さんに免じて引いてやるとするか」
そして、名残惜しげにレイスへと視線を戻す。
「おい、そこの剣士。次、俺に同じ態度取ってみろ」
男は一歩だけこちらに重心を傾け、声を低く落とす。
「――その時は、ただじゃ済まさねぇぞ」
吐き捨てるような言葉と共に、男は踵を返す。そして、歩き去るその背中を振り返らぬまま、意味深に言葉を落とした。
「じゃあ、またな。――スライ」
男の姿が角を曲がって消えた直後、レイスが舌打ち混じりに呟いた。
「んだ、あいつ。俺からしたら、てめぇこそ誰に向かって口きいてんだって話なんですけど? 次あったら問答無用で斬り刻んでやろうか」
「やめなさい」
すかさずユインの手がレイスの肩をぺちりと叩く。まったく、という顔で彼女は息をつく。
「目立つと困るんですからね」
「わーってるって」
軽口を交わす二人の傍らで、小さな震えが伝わってくる。
スライだった。
怯えた瞳と噛みしめた唇――肩を縮めるその姿は、まるで逃げ場を失った小動物のように見えた。
レイスはしゃがみこむと、そっとその頭をぽんぽんと撫でる。
「心配すんな。お前は俺が守ってやる。あんなヤツ、二度と近づけねぇよ」
レイスを見上げたスライは、驚きと戸惑いの混じった目をしていた。だが、ぽつぽつと感情が溢れ始め――やがて、目尻に涙を浮かべながら、小さく頷いた。
そして、ユインが膝をつき、その顔をのぞきこむようにして優しく語りかける。
「ねぇ、スライちゃん。……過去に、なにがあったの? よかったら、お姉さんたちに話してくれないかな?」
その声は、まるで春の風のように柔らかだった。
スライは目を伏せ、震える手をきゅっと握る。
――そして、ほんの小さく、こくりと頷いた。
スライが語ろうとしたその過去が、レイスたちをより深く、この街の闇へと引き込むことになるとは――この時、まだ誰も知らなかった。




