第48話「“元”剣聖、追うは財布か、それとも未来か」
レイスが子供を追いかけて入ったのは、スラム街――それはギアブルグの中心部から離れた、蒸気の届かない影のような場所だった。
高くそびえる煙突の裏側に隠れるように、崩れかけた煉瓦造りの建物が肩を寄せ合って立ち並んでいる。舗装もまばらな地面には煤がこびりつき、空気には焦げた鉄と腐敗の混じった独特な臭気が漂っていた。
レイスは、追いかける子供の姿を目で捉えたまま、迷路のような裏路地を駆け抜ける。
足場の悪い路地を数度曲がり、ようやくその背を壁際に追い詰めた。
「――そこまでだ。観念しな」
肩で息をしながら、レイスが手を伸ばすと、盗人の子供は鋭い目つきで睨み返してきた。
「うるせぇ! おいらは渡さねぇぞ!」
懐から巾着を握りしめたまま、その子は身を屈め、噛みつくような勢いでレイスの手を振り払う。
「ちょっ、おいっ――!」
全身で暴れるその力は小柄ながらも予想以上に必死で、レイスも思わず身を引く。
その時だった。
――じゃら、と音がして、周囲の建物の陰から複数の気配が現れる。
「……チッ」
レイスは即座に察知し、腰に下げた双剣の柄へと静かに手を添えた。数人、いや十数人。鉄パイプや工具を手にした男たちが、いつの間にか路地の周囲を取り囲んでいる。
「おいおい、外から来たヤツが、子供相手に何してやがる」
「その子を離せよ。その子は、俺らの家族みてぇなもんなんだ」
次々と寄せられる不穏な視線と威圧に、レイスの眉がひくりと動く。
(こりゃ、さすがに面倒な空気になってきやがったな……)
一人が、ジリッと一歩踏み出す。武器を握る手に、力が入ったのが見て取れた。
レイスの手も、柄から引き抜く寸前で止まる。空気がひときわ張り詰めた――その瞬間。
「やめとけ、皆。そいつは“敵”じゃねぇよ」
低く、しかしよく通る声が割り込んだ。
ざわついていた空気が、ふっと静まる。
路地の奥から姿を現したのは、大柄な男だった。髪はぼさぼさで、服も煤けていたが、その背筋には不思議な威厳があった。周囲の男たちが自然と道を開けるあたり、どうやらこのスラムの代表者らしい。
「すまねぇな、客人。うちのガキが迷惑かけちまったみたいでよ」
男はレイスの前に立つと、子供の肩に手を置き、軽く押しやる。
「スライ、返せ」
「……むぅ」
スライと呼ばれた子供は不満げに唸りながらも、渋々と巾着袋を差し出す。
レイスはそれを受け取り、軽く確認する。中身はそのままだった。
「悪ぃな。助かった」
「いや、こっちの台詞さ。あんた、相当つえーだろ。剣を抜くか悩んでくれたおかげで、うちの者が無駄に血を流さずに済んだ。謝罪もしたい。時間があれば、うちに寄っていってくれ」
そう言いながら男は路地の奥へと歩き出す。その背を見送りつつ、レイスは軽く肩を竦めて、後を追った。
◆
スラムの一角。廃材を再利用したような建物の一室で、ささやかなもてなしが始まった。
男が淹れてくれた湯は、鉄っぽい風味が混じっていたが、悪くはなかった。
「自己紹介が遅れたな。俺はボルド。ここらのまとめ役ってとこだ」
「レイスだ。通りすがりの冒険者ってことで」
「で、こいつがスライ。見ての通り、元気だけはあるが手のかかる娘でな」
「なに見たまんまの紹介してんだよ!」
スライがムッとした表情で抗議する。だが、その声に力はない。
「え……お前、女なの?」
「は?」
レイスが思わず尋ねると、スライがきっと睨み返してきた。
「女っぽくなくて悪かったなっ!」
ぷいっと顔を背ける仕草が、年相応の幼さを感じさせる。レイスは小さく苦笑し、ボルドは肩を揺らして笑った。
「こいつの親父さんは、昔の俺の戦友でな。鉱山で一緒に汗かいてた仲だ。だけど、もう一年近く前に『良い仕事を見つけた』っつって出稼ぎに出て、それっきり戻っちゃこねぇ」
ボルドの声に、スライの表情が曇る。
「母ちゃんはずっと前に病気で死んじまったし、今はここで俺らが面倒見てるが……情けない話、正直自分たちのことで精一杯なんだ」
しんと静まり返った空気。レイスは湯の入ったマグを置き、ふと視線をスライへと向けた。
俯きがちな横顔は、ついさっきまでの生意気さとは打って変わって、年相応の寂しさを湛えていた。
少しの沈黙――そのあとで、レイスは静かに口を開いた。
「なぁ、スライ。お前、ちょっとした仕事してみる気はあるか?」
「……へ?」
スライはぽかんと口を開き、すぐに戸惑ったように瞬きを繰り返す。
怒られると思っていたのか、はたまた何かを奪われる覚悟でもしていたのか――目の奥に、驚きと困惑、そしてどこかにわずかな期待が浮かんでいた。
レイスはその反応を見ながら、ぼんやりと思う。
(……なんで俺は、こんなガキに手を貸そうとしてんだか)
だが、同時に――
なぜかこの選択が、のちの何かに繋がる気がしてならなかった。
まだ形も見えない、“導火線”に、火をつけたような。
そんな予感がレイスの心には渦巻いていた――。




