第39話「“元”剣聖の影を背に、諦めぬ剣」
踏み込み、斬る――その一連の動作が、重い。
ユインは呼吸を整えながら、再びレイピアを構える。しかし、指先に残る震えが、次の一手を鈍らせた。
(これまでのどの戦いとも、まるで違う)
体が拒絶している。理性では動けると判断しているのに、肉体が戦いを恐れているのだ。
数合の交差だけで、彼女は悟っていた。
“あの男”は、未だ底を見せていない。
玉座の間に響くのは、ユインの浅い呼吸と、グラディスの足音のみ。
「限界か?」
低く、揶揄するような声。グラディスの剣が、地を這うように構えを変えた。
「見込みがあると思っていたが、やはり“守る剣”では届かんか」
「……黙りなさい!」
ユインが咄嗟に叫び、再び風の魔力を纏った一閃を放つ。だが――
「遅い」
その一言と共に、視界が傾いた。
重い衝撃が、横腹を抉った。避けきれなかった斬撃が、肉を割いたのだ。
「ぐッ!」
ユインはよろめきながら後退する。腹部から滴る血が、空気に鉄の匂いを染み込ませた。
痛みが、意識を濁らせる。
それでも、倒れない。
彼女は剣を地に突き立て、膝をつくことすら拒んだ。
(私は――ここで負けるわけにはいかない)
「民を想う王女の隣で、剣を抜いた私が……無様に倒れるわけにはいかない……!」
ユインの足元に、再び魔力が集中する。地面が震え、風が旋回し始める。
「《風翼》!」
風の魔法が、背に翼のごとき加速力をもたらす。身体強化の極致と融合した瞬間、ユインの身が霞のように疾駆した。
一閃。二閃。三閃――。
速い。見えない。だが――届かない。
グラディスは、まるでそのすべてを“見切っていた”かのように、剣を旋回させて受け流していく。
火花が散るたび、ユインの焦りは濃くなっていった。
(通らない……! どれだけ加速しても、どれだけ魔力を込めても……この人は、受けて立っているだけ……!)
「もういい」
グラディスが、そう言って一歩を踏み出した。
その気配だけで、空気が変わる。
グラディスの剣が迫り、次の瞬間、ユインの視界が暗転する。
咄嗟に剣を掲げ、斬撃を防いだ。
だが――
背後の石柱が砕けた。
ユインの体が吹き飛ばされ、壁に叩きつけられる。
「っ、が……はっ!」
喉の奥から血が溢れた。
骨が軋む。肋骨が数本、確実に折れている。
しかし――剣は、まだ手放していない。
「……まだ……終わって……ません」
その目には、光が残っていた。
それは、戦う者としての誇り――そして、誰かを守る者としての希望の剣を継ぐ意志だった。
ユインは、血のにじむ唇を強く噛みしめ、ぐらつく足でなんとか立ち上がった。膝が震える。呼吸も荒い。視界は霞み、それでも剣を握る手だけは決して離さなかった。
敗北の痛みにも、絶望にも屈しない。
――ここで、終われない。
だが、その瞬間。
「……去らばだ、妹。いや――レオノールよ」
低く呟いたグラディスの声に、ユインの心臓が跳ねた。
彼はもう、ユインを見ていない。
振り向きもせず――レオノールのいる方角へと剣を振りかぶった。
「――ッ!」
咄嗟に、ユインの足が動いた。
思考よりも早く。体が勝手に走り出していた。
彼女を守らなければ――!
空気が裂けた。
光が走る。
ユインが必死に駆けるが――放たれた斬撃は、一直線にレオノールへと迫る。
玉座の間の空気が、濃密な緊張で満たされていく。誰もが、何かが終わると直感していた。
レオノールは剣を振りかぶる兄を見つめたまま、微動だにしなかった。恐怖に凍りついたのではない。ただ――その刹那にも、兄の心に届く想いがあることを信じていたのだ。
「お兄様……」
その唇が微かに動いた瞬間、床を蹴るユインの足が石を砕く音が響く。
痛みも疲労も、今だけは無意味だった。例え命尽きようとも、彼女は“その一歩”を踏み出さずにはいられなかった。
それが、騎士として、守る者として――。




