第38話「“元”剣聖は遠く、剣は絶望を刻み始める」
ユインはレイピアを握りしめたまま、後方に跳ねるように飛び退いた。甲冑越しに響いた手応えが、腕を痺れさせる。それでも、視線は逸らさない。目の前の男――グラディス・アンレストが、微動だにせず剣を構えていた。
(……強い。けれど、押せない相手じゃない)
すぐに踏み込み、細剣が雷のような突きを繰り出す。身体強化によって鍛え上げられた脚が空気を裂き、音もなく距離を詰めた。
グラディスが剣を振り上げるよりも先に、ユインの突きが鎧の隙間を狙う。
「――《斬雷》!」
詠唱とともに、刀身から青白い雷光が走る。
刃が弾けた。空気が震え、雷鳴のような衝撃が轟く。
だが――。
(防がれた!?)
確かに鎧の肩口に命中したはずだった。だが、雷の貫通は浅く、鎧の一部が焦げただけに留まる。
直後、ユインの視界に大剣が横薙ぎに振るわれる。咄嗟にレイピアで受け流し、地を滑るように後退した。
風が舞う。天窓から差し込む光に塵が躍り、静寂がふたたび場を支配する。
(動きが読めない。いや、それどころか――)
ユインは額から垂れる汗を拭うことなく、鋭く問いかけた。
「……まるで、最初からこちらの手を測っているような戦い方ですね」
グラディスは答えない。ただ、玉座の間に降り注ぐ光の中、剣を肩に担いだまま佇んでいた。
そんな姿に、ユインの内側がざわめく。
(……本気じゃない? この男、まだ……!)
「次は、躱せません」
ユインが呟くと同時に、レイピアを構え直す。
魔力が収束する。刃の周囲を風の奔流が包み、空気そのものが振動するような音を立て始めた。
「――《穿風斬》!」
魔力を纏った斬撃が放たれた瞬間、玉座の間の空気が真っ二つに割れた。
風刃が奔り、床に深く鋭い傷跡を刻む。グラディスはそれを見て、わずかに目を細めた。
それでも、動かない。まるで、「それで終わりか」とでも言いたげな静けさだった。
ユインは攻め続けた。跳躍し、斬撃を織り交ぜた連撃を叩き込む。風、雷、光の術式を刃に乗せ、容赦なく放つ。
だが、グラディスはすべてを”受け流した”。
完璧にではない。だが、ほんの少しの体捌きと剣の軌道で、致命傷には至らせない。
動きに一切の無駄がない。その所作は、まるで熟練の舞いのようにすら映る。
(……まさか、本当に……)
ついに、ユインははっきりと“違和感”を認める。
――あまりにも、動きに余裕がある。
呼吸は乱れていない。足取りにも、無理な回避の形跡はない。むしろ、見られているのは自分の方だ。
(ここまでの攻防は、すべて“試されていた”……?)
背筋に、氷のような感覚が走る。
そして、次の瞬間。
グラディスが、ふっと右足を引いた。
構えが、変わる。
「……少しは、楽しめた」
初めて、わずかに口角を上げたその瞬間。グラディスが一歩を踏み出した。
斬撃――否、そう呼ぶには速すぎる。
視界が、ぶれた。
反応できない。避けられない。
「……っ!」
ユインは辛うじてレイピアを立て、衝撃を受け止めた。だが、受けたはずの刃が、一歩で自分の間合いを“越えてきている”ことに、脳が追いつかなかった。
手応え。重さ。速度。まるで、さっきまでの男とは別人だ。
目の前の男は――ようやく、“本気”を見せ始めたに過ぎない。
(これが……グラディス・アンレストの本当の――)
重さが、違う。
剣の質が、違う。
それまで“攻めていた”はずのユインが、わずか数合で押し込まれていく。
防戦に転じたのではない。“押し返されている”のだ。
息が上がる。攻撃が通じていないという現実に、ユインの表情には明確な焦りがにじむ。
グラディスが呟くように言った。
「……踊るには、及第点だ。さて――次は何を見せてくれる?」
その言葉が、あまりにも冷たくて――ゾッとするほどの“格”を見せつけられた気がした。
背筋を、冷たいものが這い上がる。
戦局は、音もなく――反転した。




