第21話「“元”剣聖は、かつての因縁に刃を交える」
広場に沈黙が落ちた。
風が止み、木々のざわめきも遠ざかったように感じられた。
(……まさか、生きていたとはな)
レイスは目の前に立つフードの女を見つめながら、記憶の底からその名を呼んだ。
「……魔王の娘――ユイン。生きていたのか」
「ええ、生きてますよ。……貴方たち“英雄”を、きっちり葬り去るまでは、死ぬわけにはいかないので」
その声に、レイスは眉をひそめた。
(言葉の端々に鋼の決意……目の色も、戦場で見た時と変わらねぇ)
「いやー、俺、今は追われる身でさ。捕まれば処刑されるって噂でね。……見逃してくれたり、しない?」
皮肉混じりに口を開いたが、内心では剣気を研ぎ澄ましていた。
「お断りします。私は……自分の手で殺さなきゃ納得できないので」
ユインが一歩踏み込む。
「それに、一人は殺りました。次は、あなたの番です」
(やはり……グランツを)
レイスは冷たく目を細めた。
「……ってことは、グランツを殺したのはお前か。……面倒なことしてくれやがって」
「大丈夫。すぐに会わせてあげますよ」
その瞬間、空気が変わった。
(来る――)
ユインの気配が消えるほどの速さで、間合いを一気に詰めてきた。
鋭い突き。レイスは体をひねってそれをかわし、肩越しに相手の動きを確認する。
(速い……いや、それだけじゃねぇ。動きが研ぎ澄まされてやがる)
双剣を引き抜き、レイスも応戦する。
金属がぶつかる音が広場に響く。
斬撃、突き、跳躍、蹴り――動きに無駄はなく、どれも殺意のこもった一撃だった。
(こいつ、生き延びて強くなってやがる。殺すことに、迷いがねぇ)
刃を交えるうちに、レイスは少しずつ相手の動きを見切っていく。
(……技術は確かだが、クセがある。読み切れば、崩せる)
やがて、レイスの動きが変わる。
防御を誘導し、次の一撃で肩口に刃を走らせた。
「っ……!」
血飛沫。
(手応えあり)
そこからは一気だった。
剣を交差させながら踏み込み、ユインの守りをこじ開けていく。退こうとする彼女の足が、一瞬だけ縺れる。
――逃さない。
喉元に刃を突きつけ、動きを止めさせた。
「……殺さないの?」
ユインの問いに、レイスは小さく息を吐く。
「さあな。殺す理由も、救う理由も……今の俺には曖昧でな」
剣を下ろし、背を向ける。
「……じゃあな、魔王の娘。命が惜しいなら、これ以上は追ってくるな」
広場の路地へと姿を消す。
その直後、鎧の音と共に騎士たちがなだれ込んできた。
「そこだ! 剣聖レイスを見た者はいるか!」
(早ぇな……こっちはもう、とっくに退散済みだっつーの)
レイスは物陰から様子をうかがっていた。
騎士たちが騒ぎ立てるのを見届けながら、レイスは静かに身を潜める。
(……なぜ俺は、あいつを殺さなかった?)
その問いは、自分自身の心に向けられていた。
自分の中に感じた違和感に戸惑いつつも、今は確かめる暇も、余裕もない。レイスは背を向け、その場を後にした。
◆
レイスの姿が広場の路地へと消えていった後も、ユインはその場に立ち尽くしていた。
刃を向けられたあの瞬間から、まるで時間が止まったかのように。
肩口から流れる血が服を濡らし、ぬるい感触が皮膚に貼りつく。けれど、それよりも胸の奥をじわじわと焼く感覚のほうが、何倍も痛かった。
(……何なの、あの人は)
殺さなかった。いや――殺せなかった、というべきか。
喉元に突きつけられたあの刃は、確かに本気だった。迷いなく、最短で自分を仕留めに来ていた。けれど――最後の一線で、踏み込まなかった。
(私が、弱かった? ……違う。あれは……)
殺す理由も、救う理由も曖昧だと、そう言った。だがあの目は、ただの迷いじゃない。戦場をくぐり抜けた者だけが抱く、もっと深い、もっと厄介な“葛藤”の色だった。
そう思った瞬間、自分の中にあるものが崩れていくような感覚に襲われる。
(おかしい……私、こんなんじゃ……)
復讐のために、生きてきた。仲間を殺され、家族を奪われ、何もかもを壊されたあの日から、憎しみだけを支えに剣を振ってきた。なのに、どうして――
「そこだ! 剣聖レイスを見た者はいるか!」
騎士たちの怒号が、広場の空気を裂いた。
ユインは咄嗟に背を向け、物陰へと滑り込む。身体を押し込めるように隠れながら、息を殺した。
足音が近づき、視界の端を数名の騎士が駆け抜けていく。そのうちの一人が血の跡に気づき、指をさして声を上げたが、ユインはすでに裏道へと足を走らせていた。
数分後、追手の気配が完全に消えたことを確認してから、ユインは再び表通りに出た。陽が少し傾きかけ、石畳に影を落としている。
空はやけに澄んでいた。なのに、心の中には曇り空が広がっていた。
(なぜ、私は生かされたの?)
ユインは胸元を押さえる。痛みではない。正体の知れない、感情の波が彼女の思考をかき乱していた。
(もう一度、会わなきゃいけない。あの人と――)
次はきっと、今度こそ決着をつける。憎しみか、後悔か、希望か。自分の心に渦巻くこの感情の正体を見極めるためにも。
歩き出す足は、わずかに震えていた。だがその瞳だけは、再びレイスを見据えるために、しっかりと前を向いていた。




