第18話「“元”剣聖の原点、それは崩壊の夜」
かつて、レイスは“英雄”と呼ばれていた。
魔王を討ち、世界を救った一人。
その名は、レギア王国中に響き渡り、人々は歓喜と感謝をもって彼らを迎えた。
――勇者エルヴィン。
――賢者ハウゼン。
――聖女リシア。
――重騎士グランツ。
そして、“剣聖”レイス。
誰もが、最後の戦いを終えた後は、平和と共に微笑みあえると信じていた。
だが、現実は理想と違った。
◆
「なぁレイス、まただ。今度は村の娘に手を出したらしい」
執務室の奥、帳簿を片手にした部下が、眉をひそめて告げた。
「……エルヴィンか?」
「他にいないだろ。王族扱いで税も免除されてるくせに、今じゃ飲み屋に入り浸り。あいつがくるたび、城下町が荒れる」
レイスは無言で、窓の外――王都を見下ろす高台からの景色に視線を投げた。
数年前まで、あの町を魔族の襲撃から守るため、命を賭けて戦っていた。だが今、かつての戦友たちは、英雄という称号に甘え、堕落し、腐っていく。
賢者ハウゼンは、学術研究の名目で国家予算を湯水のように浪費し、聖女リシアは、信徒からの献金を私的な遊興費に充てていると噂されていた。
誰も彼らを止められない。なにせ、“世界を救った英雄”なのだから。
「……正義って、なんだったんだろうな」
レイスの呟きは、誰にも届かないように、静かだった。
自分たちは、魔王を討つことで、世界に希望をもたらしたはずだった。だが、その結果がこれだ。
守りたかった人々は、今なお恐れに怯え、強者の理不尽に晒されている。
(結局、魔王と何が違う。力を持つ者が、弱き者を踏みにじっているだけじゃないか)
言いようのない虚しさが、胸を覆う。
剣を振るった意味は、本当にあったのだろうか。
魔王の言っていた「この世界の腐敗」とは、あのとき理解できなかったが、今は痛いほどに身に沁みる。
「……レイス、また民が陳情に来てるぞ。“勇者様に家を燃やされた”ってさ。どうする?」
「謝罪して、補償しろ。あいつに言っても無駄だ」
「了解した。……だが、これで何度目だ?」
部下の言葉に、レイスは答えられなかった。
正義を振るった者が、それを最も踏みにじっている。
ならば、自分は――何を守ったのだ。
(……もう、限界かもしれないな)
剣を佩く手に、力が入らなかった。
その日の夕刻。
城の迎賓室に、かつての仲間が顔を揃えていた。
宴の準備が整い、豪奢な食器や酒がずらりと並ぶ中で、レイスはただ一人、席に着こうとはしなかった。
「よう、レイス。硬い顔すんなよ。今日は俺たちの勝利記念日だぜ?」
勇者エルヴィンが、豪快に笑いながら杯を掲げた。隣で賢者ハウゼンがワインを啜り、聖女リシアが信徒から贈られたという宝飾品を自慢げに弄ぶ。重騎士グランツも、酔いに任せて若い侍女に声をかけていた。
――滑稽だった。
これが、かつて命を懸けて共に戦った仲間たちの姿か。
「……魔王を討ったその日から、お前たちの“戦い”は終わっていたんだな」
レイスが呟いた言葉に、誰も応じなかった。――否、誰も“気づいていなかった”。
「俺はまだ戦っている。……自分が振るった剣の意味を、探してる」
その声もまた、祝杯と笑い声にかき消されていった。
レイスは踵を返す。
祝福の輪に背を向け、ひとり薄暗い廊下を歩いていった。
かつての誇りも、絆も、もうそこにはない。
あるのは、虚像にすがる英雄たちと、崩れゆく国の姿だけ――。
夜風が、頬を撫でた。レイスは中庭の石段に腰を下ろし、星ひとつない空を見上げる。
遠くで宴の音がまだ響いている。笑い声、杯を打ち鳴らす音、踊り子の足音。
かつての仲間たちは、今もあの中にいる。だが、レイスの居場所はそこにはなかった。
「……ここにいたのか、レイス」
低く穏やかな声が背後から届く。
振り返ると、年老いた一人の男が立っていた。
レギア王国の王――エルネストである。
「陛下」
レイスは軽く頭を下げたが、立ち上がることはなかった。王もそれを咎めることなく、彼の隣にそっと腰を下ろした。
「宴には来ないのか? 皆、お前が姿を見せないと気にしていたぞ」
「……そうですか。私は、そうは感じませんでしたが」
ふ、と王が笑う。年輪を刻んだその表情には、どこか余裕と達観があった。
「どうした。昔のような瞳をしておらぬな。……何か、心に引っかかっておるのか?」
レイスは少し黙ってから、口を開く。
「……民からの陳情が後を絶ちません。勇者様の無軌道な行動。賢者や聖女の振る舞い。誰も彼らを咎めようとしない。――それが、王国の“英雄”の姿なのですか?」
「ふむ」
王は空を見上げたまま、小さく唸った。
「それが重い問題であることは、確かだ。しかしな……英雄とは、民の心に刻まれた“物語”のようなものだ。あまり現実に引きずり下ろしすぎるのも、かえって混乱を招く」
「つまり……“目をつぶれ”と?」
「……とは言わぬ。だが、彼らはこの国を救った。その事実は消えぬし、民の信仰も深い。少々の奔放さを許容する度量も、王たる者には必要なのだ」
レイスは、返す言葉を探せなかった。
王は優しい。だがそれは、変化を望まぬ優しさ――現状を肯定し、腐敗を“平和”と呼ぶ、穏やかな毒だった。
「この国は、英雄たちによって救われた。だが今は……英雄たちに蝕まれている」
思わず漏れたレイスの言葉に、王は静かに立ち上がる。
「憂いてくれる者がいることは、誇らしいことだ。だが……お前がすべてを背負う必要はない」
その言葉を残して、王はゆっくりと夜の回廊へと去っていった。
――残されたレイスの胸には、言いようのない虚しさだけが残る。
(誰も、戦いの意味を問おうとしない。この国は……本当に、守るに値したのだろうか?)
その夜、レイスの中で何かが静かに崩れはじめていた。




