第17話「“元”剣聖の眠る夜、王女はもう一度立つ」
――翌日の夜、治療所の屋上に、黒い影が降り立つ。
漆黒の装束。顔を隠す仮面。その手には毒が塗られた細剣。刺客が、静かに窓を見下ろしていた。
「命令はただ一つ。……剣聖を、抹殺せよ」
夜の帳に紛れ、死の爪が静かに忍び寄る――。
静寂を裂くのは、窓を破って飛び込んできた黒い影だった。
「来た……!」
ユインが即座にレイピアを構える。
屋根から、窓から、次々と侵入してくる影。毒の塗られた細剣を携える暗殺者。
彼らの標的は、ベッドで眠っているはずだった“剣聖”レイス。だがそこに、レイスの姿はない。
「――なぜ、居ない!?」
「……標的不在。偽装だ!」
敵が気づいたときには遅かった。裏手の通路から、ノーグと王女派の仲間たちが一斉に包囲網を仕掛ける。
「退路を塞いだ。お前らの負けだ!」
ノーグが短剣を回しながら笑みを浮かべる。
瞬く間に制圧され、残党は煙玉を使って撤退した。
その後――治療所の囮作戦は成功し、レイスと王女レオノールは郊外の別邸に移り、身を隠した。
だが、作戦の勝利とは裏腹に、王女の表情は暗い。
灯りの消えかけた別邸の広間。レオノールは椅子に座ったまま、何も言わず窓の外を見つめている。
「……殿下。お体、大丈夫ですか」
ユインの問いかけに、レオノールは小さくうなずくだけだった。
「演説……失敗してしまいましたね……」
その言葉には、自嘲と痛みが滲んでいた。
「私の言葉は、誰にも届かなかった。ただ混乱を招いて、結果として皆を危険に晒しただけ」
握りしめた手が震えていた。
「私は……王女として、何の力もない……」
ユインは、すぐには答えなかった。やがて、静かに言葉を紡ぐ。
「私は、レイスに剣を学びました。でも、それ以上に“背中の見せ方”を教わったんです」
「背中……?」
「レイスは、どれだけボロボロでも、絶対に人の前では下を向かない。誰にも気づかれないように、誰かを守る。そういう人なんです」
ユインはレオノールをまっすぐに見つめた。
「だから殿下も、あの日立ち上がったことが無駄だなんて、言わないでください。あたしたちは、それを見てるんですから」
しばらく沈黙が流れた。
やがてレオノールは、ぽつりとつぶやく。
「……じゃあ、もう一度立ってもいいんでしょうか?」
「何度だって立ち上がれますよ」
ユインは、そう言い小さく微笑みかける。
その時、扉がノックと共に開く。そこに居たのはノーグとセリアだった。
「お話中、失礼。今後の動きを話し合うべきかと」
レオノールは頷いた。
「そうですね……。次の一手を考えましょう」
セリアが手元の報告書を開く。
「敵の襲撃は失敗に終わりましたが、相手の本気度は明らかです。次は民衆の扇動、あるいは王都への混乱工作が予想されます」
「現に、市内ではすでに“王女は逃げた”という噂が広がっている。放置すれば、敵の狙い通りだ」
ノーグの言葉に、皆が黙り込む。その静寂を、レオノールの声が破った。
「もう一度、演説を行います」
ノーグが目を見開く。
「殿下、それは……」
「同じ失敗はしません。今度は、私自身の言葉で伝えます。……どんなに届かなくても、逃げたと思われたままじゃ、終われません」
その眼差しに、もう迷いはなかった。
セリアが立ち上がる。
「場所は、治療所近くの広場ではどうでしょう。安全確保は私と第二騎士団が行います」
「仕方ねぇな、手筈は任せろ。今回は裏をかく手段を準備しておく」
ノーグが笑う。
王女が再び立ち上がるとき――それは国の運命を動かす、一つの希望となるだろう。
◆
一方その頃。
王都の地下に潜む組織の一室で、漆黒の装束をした一人が報告を終える。
「標的は囮。王女と剣聖レイスの所在は不明」
ローブの男がゆっくりと椅子から立ち上がる。
「ならば、次は民衆を使う。……“揺らす”のだ、この国の土台ごと」
新たな混乱の幕が、静かに上がろうとしていた。