第14話「“元”剣聖、英雄の代償」
敵の姿は、霧に紛れるように現れては消えた。
屋根の上、塔の影、群衆の裏――その全てが敵の影を孕んでいるように思える。
「狙撃手は最低三名。背後、南西の路地にも動きがあります!」
ユインが敵の動きを素早く察知して叫ぶ。彼女の動きはすでに剣士のそれではなく、まるで戦場を駆ける軍指揮官のようだった。
「セリア、殿下を下げろ!」
レイスの声が飛ぶ。
「否。……王女殿下の命令だ。演説は、最後まで続ける」
セリアが短く返す。その目に迷いはなかった。
「っち、どうなっても知らねぇぞ!」
レイスが叫びざまに剣を抜いた。
――その瞬間、敵の一人が姿を現した。
群衆の端に、商人風のマントを纏い、何気なさを装っていた男が、腕を振り抜く。
「ッ、魔導爆符!」
ユインが声を上げた。
短く刻まれた紋様――魔導爆符と呼ばれる簡易爆発札が空中を走る。次の瞬間、鈍い爆音とともに、白煙が視界を覆った。
「くそっ……視界が……!」
レイスが目を細め、煙の中に飛び込む。
「ユイン、殿下のもとへ急げ!」
「了解!」
ユインは背中で風を切りながら、すぐさま壇上へと駆け上がる。
煙の向こう、数人の兵がレオノールの側へと駆け寄っていたが――その誰もが、すでに“刃”を隠し持っていたかのようだった。
(内通者……!)
ユインが疾走の勢いを殺さず、踏み込む。
「っ――そこまでだッ!」
疾風のような一撃が走った。
ユインのレイピアが、兵士の手から刃を弾き飛ばす。周囲が一瞬、凍りついた。
「ユイン……?」
レオノールが目を見開く。
「王女殿下、下がってください! この中に敵が紛れています!」
その声が響いた瞬間、他の兵士も一斉に剣を抜いた。
「殿下、離れて!」
セリアが殿下の手を引き、盾となる。
「っち、もう隠す気もねぇってか……!」
煙の中から、レイスが吠えながら戻ってきた。が――次の瞬間、レイスの身体が一瞬、止まる。
(音……?)
わずかな風切り音。違和感。殺気。
その全てが、雷光のようにレイスの脳を駆け抜けた。
「ユイン、伏せ――っ!」
放たれた矢は、視認すらできない速さで空を裂いていた。
狙いはレオノール。いや、正確には、王女の隣で警戒を解いていなかったユインの背だった。
だが――その刹那、レイスの身体が割り込んだ。
ユインの目の前で、レイスの胸に“何か”が突き刺さる。
深々と、血を吸うように。
「レイス――ッ!」
衝撃が遅れて走る。
矢は真っすぐ胸を貫き、レイスの体を後方へ吹き飛ばすほどの力を持っていた。
地面に倒れ込む。剣が手を離れ、硬い石畳の上を乾いた音とともに滑った。
滲む視界の向こうで、レイスはかすかに笑う。
「ったく……やっぱ、“死ぬ覚悟”ってやつは……こういうときのためにあるんだよ」
その場の空気が、完全に変わった。
セリアが怒号を飛ばす。
「すべての部隊に通達! 演説中止! 王女殿下を安全圏へ――!」
ユインは、倒れたレイスの元に駆け寄り、すぐに止血処置に取りかかった。
「しっかりしてください、レイス! まだ……まだ死なないで、お願いだから!」
レイスは薄く目を開ける。
「……お前さぁ……泣いてんじゃ、ねーよ……ったく」
血に染まった指先で、ユインの額を軽く弾いた。
「こんなのじゃ……まだ償いも終わってねぇんだよ、俺は」
レイスの言葉に、ユインの瞳がわずかに揺れた。
だが、涙をこぼすよりも早く、彼女は唇を噛み、すぐさま顔を引き締めた。
「……喋る元気があるなら、まだ大丈夫。だったら、生き延びてよ」
レイスの胸元から溢れる鮮血に怯むことなく、ユインはポーチから治癒薬を取り出し、容赦なく傷口に注ぎ込んだ。薬液が肉に染み、ジュッと焼けるような音を立てる。
彼の体が微かに痙攣するたび、ユインの胸は張り裂けそうだった。それでも彼女は目を逸らさなかった。
「……あなたを殺すのは、私なんだから。こんなとこで、勝手に死なないで……!」
一方、王女レオノールのもとへと向かうセリアの動きはすでに決断に満ちていた。
演説を中止する――その決断は、護衛隊長として最大の責任だった。
「殿下、こちらへ! 早く!」
「……レイスは、大丈夫……なの?」
レオノールの声には動揺がにじんでいたが、セリアはすぐに短く答えた。
「奴がここで死ぬなら、それは世界の終わりが来る時です。心配いりません。あの剣は、まだ折れません」
その信頼の言葉に、レオノールは僅かに力を取り戻したように頷いた。
――だが。
白煙の中に、まだ終わっていない気配があった。ひときわ鋭い殺気が、残った者たちの間を突き抜ける。
(……来る!)
ユインが立ち上がり、レイスを庇うように一歩前へ出る。
次の瞬間、煙の中から黒装束の影が飛び出してきた。
「ッ……!」
敵の剣閃が迫る中、ユインは地を蹴る。レイピアが弧を描き、甲高い音を立てて刃とぶつかり合う。
「これ以上……この人を、好き勝手にさせない!」
彼女の声は、怒りではなく、決意に満ちていた。
かつて守られるだけだった彼女は、今や誰かを守る剣になっていた。




