第十九章 蝕まれる心 その一
アパートから逃げ帰って来た倉棚里美を見て、白いバンの横で待機していた二人の男は、顔を見合わせて首を振った。倉棚里美は半狂乱となっている。
雲上での修行中にも、何度も彼女は精神的な恐慌を起こしていた。そうなると、導師が彼女を奈落の間、修練の部屋に閉じ込めるよう命じる。
修練の部屋は半地下の個室で大聖堂の地下にある。床から天上まで高さ3m、幅1m、奥行き2mの狭い作りで、奥の壁の天井近くに直径30cm程の明かり取りの丸窓がある。霊性のステージを上げるための部屋である。
修練の部屋は外側から鍵を掛けられるようになっていて、倉棚里美は度々この部屋に閉じ込められた。
倉棚里美が天の階教会で洗礼を受け、多額のお布施と長い修行を経ているにもかかわらず伝師止まりで導師になれないのはこのためだ。その事実が、さらに倉棚里美を苦しめることになる。
パニックに陥っている倉棚里美を車に乗せる。外に出ていた二人の男も車に乗り込む。
助手席に回った男が「とりあえず、様子を見よう。倉棚伝師が、この状況では、どうにもならない」
「しかし、萩尾伝師、最高導師から必ず、娘を連れてくるよう命じられていますよ」
「だから、とりあえず、様子を見るんだ。秋月伝師」
「あの、どう見てもカタギじゃないやつらが、このままどこかへ行くなら、やりようもあるだろう」と萩尾伝師。呻く倉棚里美を乗せたバンはアパートの前に留まった。
「あっ、出てきましたよ」と秋月伝師が言う。
助手席の萩尾伝師が運転席の方に身を乗り出して、アパートの方を覗き込むと、ちょうど安原義人が消化器を投げつけてくるところだった。
ドゴッと車の天井が凹む音がし、バンが揺れる。
萩尾伝師は、チッと舌打ちして「車を出せ」と言う。青い顔をして秋月伝師が車を急発進させる。
弟が父親を殺すまで、里美は、教団の教会に行ったことはなかった。
集会所の大人が、事件の後、気を落としている里美を連れて行ったのが始まりだった。それは、全くの善意からだった。里美のことも、義人のことも子どもの頃から知っている女性信者が、里美を教会に連れていったのだ。
教会に行って皆と一緒にお祈りをすると、少し、気が楽になった。その頃には、まだ教会に母方様の甥の鈴木佑がいた。お祈りが終わると、彼が「罪は赦されます。終わりの日まで、互いに寄り添い、慈しみ合いなさい」と言ってくれる。
里美は自分の大きな嘘に怯えることも、徐々に無くなっていった。
学校では、今まで通りとはいかなかった。周りは腫れ物を触るように里美に接した。それでも、態度が少したどたどしくなった程度で、それ以上にエスカレートするようなことはなかった。
その程度で済んでいたのは、野球部のエースで学校の有名人である倉棚茂が以前と変わりなく、彼氏として付き合っていてくれたことも大きい。
里美が高校を卒業すると、すでに父親の土建会社で働いていた倉棚茂は里美にプロポーズする。
倉棚茂の両親は、結婚に反対した。倉棚茂の母親は二人を前にして言った。
「里美ちゃんが、いい子だってことはお母さんも知っている。だから、二人が交際していることには反対しません。ただ、結婚となると話は別。里美ちゃんは業が深すぎる」
倉棚茂の父親は言った「まだ、仕事も覚えていないのに結婚は早すぎるだろう。せめて、現場をしきれるようになって、一人前になってからだろ、結婚は」
両親の反対は、二人の恋を燃え上がらせる。やがて、里美は身籠った。
反対していた倉棚茂の両親も折れざるを得ない。
「腹が出てからウェディングドレスを着るのはみっともない。とっと祝言をあげろ」と父親が言った。母親は打って変わって身重の里美を気遣ってくれるようになった。
茂の両親は、今どき、夫の両親と同居というのも息が詰まるだろうと、同じ敷地に二人のために別邸を建ててくれまでした。
里美は時折、弟の義人に手紙を書いた。返事は来なかったが、面倒くさがりの義人のことだからと気にはしなかった。
教会の方にもそれほど、熱心に通ったわけではなく、他の信者から誘われれば顔を出すといった感じであった。
ユリアが小学校に通い出した頃、教会に行くと、そこに鈴木佑の姿はなく、導師と呼ばれる小柄で細身、左の頭部から頬にかけて濃い痣のある男が信者を指導するようになっていた。
皆が祈り終わると、その導師は言った。「終わりが近い。自らカルマを断ち切りなさい。でなければ、地獄に堕ちるでしょう。カルマを断ち切るために、祈り、神に仕えなさい」
里美は義母から、業が深いと言われたことを思い出した。
「カルマとは何ですか?」と年若い信者が導師に尋ねる。
「カルマとは、貴方がたが今までついてきた嘘、今まで感じてきた怒りや嫉妬など、良からぬ行いと、良からぬ思いへの報いのことです。あなたの良からぬ行い、良からぬ思いは、あなたを滅ぼそうと虎視眈々と狙っているのです。あなたはそれに対抗することはできません。
なぜなら、それはあなたの行いであり、あなたの思いであり、あなたの罪であり、それが真実であることをあなたが知っているからです。それが、どのような報いであろうと、あなたはその報いの下で苦しみ足掻くしかないのです」
里美は体の内側から、黒い影に蝕まれるような感覚に陥った。背筋に悪寒が奔る。
あの事件の事実が露見して、今ある幸せな生活が一気に崩れ去ってしまうかもしれないと怯えた。




