第二章 JCとJK その一
あっ、とマクガイアは声を上げた。
ストリッケル総長に、日本での宣教を困難にする三つ目を確認し忘れていた。
三つ目があるのか、ないのか確認し忘れた。戻って尋ねたいとも思ったが、今は先を急ぐことだと思い直し、荷物をカバンに詰め込んだ。
1日待てば東京への直行便があるにも拘らず、到着が半日早いというだけでマクガイアはシンガポール経由で東京へ向かうことに決めていた。
半日早ければ半日分、1時間早ければ1時間分信徒を増やすことができる。日本では、1億2千万人が無明の世界で苦しんでいる。一刻の猶予も許されない、マクガイアは背を押されるように、修道服のまま空港へ向かった。
レオナルド・ダ・ヴィンチ空港とも呼ばれるフィウミチーノ空港から飛び立つと、機上でストリッケル総長の言葉をノートに書き留める。
『日本での宣教を困難にしているもの①日本の発展度合い、②神学的土台の欠如、③不明』と書いて、3つ目にアンダーラインを二度入れた。
ストリッケル総長は日本を麦が実を結ばない沼に例え、日本は宣教師の墓場だと言った。しかし、とマクガイアはザビエルの手記の一節を思い出す。
『私の知る限りでは、今、この国の土はすばらしい教えの種を受けるところなので、霊魂の豊かな実りを十分に期待することができます。』
ザビエルの見た日本は沼ではない。豊かな実りを期待できる土壌を持った国だったのだ。
当時の日本とヨーロッパの発展度合いの差が、自然科学や兵器で日本をはじめとするアジアより先に進んでいたことが布教を後押ししたことは間違いない。
ザビエルも言っている『彼らは地球が丸いことを知らず、また、太陽と星の動きについても何も知りませんでした。
ですから彼らが私たちに質問し、私たちが彗星や稲妻や雨の原因について説明すると、彼らは私たちの話に夢中になって楽しそうに聞き入り、私たちを大変偉い学者だと思って心から尊敬しました。
私たちはすぐれた知識を持っていると思われたために、彼らの心に教えの種を撒く道を開くことができました』と、そして、銃だとマクガイアは思う。
ザビエルの訪日の数年前に、ポルトガルよりもたらされた鉄砲は、当時戦闘が打ち続く日本で各地を束ねる大名と呼ばれる領主から引っ張りだこだった。
ヨーロッパと日本の出会いは、期せずして命を奪う銃と、魂の救いであるキリスト教の伝来と言う形で起こった。
当時の最先端の知識と技術を神父が持っていたお陰で、日本での宣教初期には信者が爆発的に増えたのだった。
では、二つ目、神学的土台の欠如についてはどうか。
ザビエルは言う『日本人を悩ますことの一つは、地獄という獄舎は二度と開かれない場所で、そこを逃れる道はないと私たちが教えていることです。
彼らは亡くなった子どもや両親や親類の悲しい運命を涙ながらに顧みて永遠に不幸な死者たちを祈りによって救う道、あるいはその希望があるかどうかを問います。
それに対して私はその道も希望も全くないとやむなく答えるのですが、これを聞いたときの彼らの悲しみは信じられないほど大きいものです。
そのため彼らはやつれ果ててしまいます』
この辺にありそうだとマクガイアは思う。
全知全能にして万物の創造主である主の教えに背くものは、すべて悪である。
絶対に、完全に悪である。そこに情状酌量の余地はない。キリストに帰依せずに贖われる罪などなく、キリストに帰依せずに救われる魂などないのだ。
善は善であり、悪は悪である。
神の言葉、神の裁き、それが現れたなら、それが行われたならば、人はただ畏れ、神によって道が正されたことを喜びをもって受け入れるしかないのだ。
マクガイアはそこまで考えを進め”大丈夫だ。我が修行に無駄はなかった!”と口角を上げた。
”フフっ、もう修練院に戻されることはない。私は神にすがる者ではない、私は神を担ぐ者!待っていろ、日本!”熱い息が鼻から漏れるのを抑えることができない。
まだまだ時間があったので、ストリッケル総長の三つの視点で読み返してみようとルイス・フロイスの「日本史」をカバンから取り出した。
ルイス・フロイスは十六世紀戦国時代の日本で30年に及ぶ布教活動を行った、ポルトガル出身のイエズス会宣教師で、あの織田信長にも謁見している。しかも一度ならずも、18回。
日本は古来より肉食、四つ足の動物を食べることをタブー視していた。日本で肉食が解禁されたのは1871年、明治天皇が肉食解禁の勅令を出した時である。フロイスが訪日してのは、その300年前のことである。
そこで、ルイス・フロイスの手記は肉食は罪ではないことを説くことの苦労から始まっている。
相変わらず面白い、面白すぎる。特に、友好的であった大名に対し男色の許されざることを説いて追放された神父の話を報告する箇所など声を出して笑いそうになる。
それでも、当時の神父たちは数多の苦難に会いながら、着実に信徒を増やしていった。一粒の麦を腐らせる沼だとは思えぬくらいの勢いがあったのだ。
マクガイアは宣教開始当時の信徒獲得の勢いに心が踊る。
日本人に主の教えが届かぬ訳ではないのだ。
ルイス・フロイスは織田信長に謁見した際に、信長から奴隷貿易についてきつく禁じられる。日本に奴隷がいなかった訳では無い、彼らも人身売買を行っていた。
しかし、それらの行為が、合法とされることはなかった。奴隷市場が公に開かれることも、奴隷という身分が制度化されることもなかった。
イエズス会はスペイン政府に日本人を奴隷として売買することを禁ずるよう進言していたがスペイン政府はそれを無視し続ける。スペイン政府の言い分は、売るものがいるから買うのだというものだ。
それでも信長が存命の間は、信長を憚って目立たぬように売り買いしていた。
本能寺の変で信長が討たれると、その枷が外れる。
スペインの商人たちが日本人を積極的に売り買いし始めたのだ。
スペインからすれば奴隷貿易の禁止は信長との間での個人契約であり、信長がいなくなれば契約もなくなると考えた。
が、日本は奴隷貿易の禁止を外交条約として考えていた。信長の生死に関わらず、日本とスペインの間で取り交わされたものとして考えていたのだ。しかも、間の悪いことに信長の後、天下を握ったのは秀吉であった。
百姓出身で後ろ盾のない秀吉が、もっとも気を使ったことが、自分が天下人に足る存在であるという、正統性を確立することだった。
秀吉は将軍になれない、将軍になれるのは源氏武士のみだからだ。そこで、彼は当時、落ちぶれていた公家に取り入り、自身が遠い過去において公家と繋がっているという家系図を作成する。
そして、摂政関白として天下を預かることになる。誰もが、彼が百姓の出であることを知っているにも関わらず、そこまでやらなければならなかった秀吉の苦衷をスペインは見誤った。
スペインは奴隷貿易をおおっぴらに開始することで、秀吉の天下人である正統性を毀損した。秀吉は激怒する。
結果、1587年にバテレン禁止令が出される。日本においてキリスト教が禁止されたのだ。状況を読みきれなかったスペイン政府の失策が、日本でのキリスト教の禁教を呼び寄せた。
そう、主の教えはあまねく世を照らす。その光を曇らすものは常に政治であり、国である。国家など馬鹿らしい、神の国さえあればよいのだとマクガイアは思う。
シンガポールまでの12時間、マクガイアは一睡もせず読書と思索に耽った。1億2千万人の日本人に主の教えを広めるため、やるべきことはすべてやるつもりである。
シートベルトを締めるようにとアナウンスが流れ、飛行機が着陸体勢に入る。
機体が右に傾き旋回し始めるとマクガイアは通路側の席から身を乗り出して、丸々と肥えた御婦人越しに窓の外を覗き込む。窓の外には海原が見える。
飛行機がキュッと音を立てて着陸する。マクガイアは飛行機が急激に減速する圧を心地よく感じていた。
やがて飛行機は止まり、シートベルト解除のサインが灯った。マクガイアは誰よりも早く立ち上がる。
シンガポール・チャンギ空港にはトランジット客のために様々なエリアが用意されている。それらのエリアに見向きもせず、マクガイアは乗り換え口近くのソファに腰を掛けると、そこで再びルイス・フロイスの日本史を取り出した。数行読んでふと”私が初めて出会う日本人はどのような者だろう”と思った。
ザビエルが初めて出会った日本人は弥次郎という男だった。出会ったのは日本ではなく、ここシンガポールのすぐ近くマラッカだ。
弥次郎は人を殺め、国外に逃れる。その逃亡を手助けしたポルトガル船の船長ジョルジュ・アルヴァレスから主の偉大なるを聞き及び、自らの罪を告白すべくザビエルの元にやってきた。
その後の彼の活躍をみると、とてもただの罪人のようには思えない。
当時の日本において最高とは言えないまでも、かなり高い知識と教養を身につけていたと考えるのが妥当だろう。
マクガイアは、ザビエルを日本への宣教へと導いた弥次郎のような人物との出会いを主に祈った。