第一章 教皇となる男 その一
明け方に雨を降らせた大きな雲が、イタリア・バチカン市国の上空を、低くゆっくりと流れていく。
雲を追い立てるように眩しい朝日がバチカン市国を照らしていくと、雨に濡れたサン・ピエトロ大聖堂が鮮やかに輝き出した。
ルネサンス風の青・赤・黄色の縦縞の制服を着た衛兵の足元を、一匹の黒猫が通り過ぎる。
黒猫は一度振り返って衛兵を見、前足で顔を拭うと、石畳が陽に照らされキラキラと輝く広場の方へ跳ねて行った。
黒猫はベルニーニの噴水の脇を通り、ボルゴ・サント・スピリト通りへと入っていった。早朝、オベリスクを背に颯爽と歩く黒猫の姿は威厳に満ちている。
サント・スピリト・イン・サッシア教会の前までやって来て、黒猫は立ち止まる。そして、首を傾げてあたりを見渡すと、陽の光を嗅ぐように顔をもたげて、二度、三度と鳴いた。通りは静かなままだった。
一月ほど前から、ここで餌をもらうのが習慣となっていたのだが、いつもの人間が今日はいない。
黒猫は、通りの塀に飛び乗って毛繕いをし、未練がましくもう一度鳴いた。
しばらく待っても人間が現れることはなかった。
終わりが来たことを体に馴染ませるように前足で顔を拭い、その前足に舌を這わせる。
黒猫は頭を下げて尻を高く突き上げて背を伸ばすと、塀を飛び降り路地裏に姿を消した。
サント・スピリト・イン・サッシア教会の向かいの建物の中に、イエズス会本部が入っている。
その建物の3階の一室、朝日を受けながら、窓辺で祈る男の姿があった。
せりあがった額、薄くなりつつある頭頂部、髪は短く刈り揃えられている。薄いヒゲが顎と口元を覆う。
「主よ、今日もあなたのお創りになられた理によって、陽が昇り、世界が明るく照らされることを感謝します。どうか、今日も一日、あなたの御言葉によって私を導いてください」
「御言葉の忠実な弟子として生き、父である神の栄光のために、イエス・キリストが主であることを証しすることができますように」
「聖霊よ、来てください。私をあなたの愛の力で満たしてください」
男の胸は炎を飲み込んだかのように熱くなる。
”ああっ主の愛が今ここに!”男は喜びに打ち震える。
”我が信仰は全き故、我が眼は陽の光に負けず!もし、我が信仰に欠けたる所あれば盲いいになるとも構わず!”男は胸の内でそう叫ぶと、ぐわっと朝日に向かって両目を見開いた。
一拍おいて、グフっと叫び、身をのけぞって床に倒れる。
”痛い、熱い”両手で顔を覆いながらごろごろと悶えた。
両目の痛みが和らぐと、男は膝をつき背を丸めて両手で床を強く打った。
「未だ我が信仰は、全きに至らず!」もう一度、床を打つ。おまけに涙も床を打つ。
「それどころか、盲いいになることもできぬとは・・・」再度、床を打って、肩を震わせうなだれる。埃が、朝日にキラキラと舞っている。
”いや”と男は思う。
”我が身は主の創造物。しかも、主の姿に似せて創られた人である。その我が身を傷つけていい理由があるだろうか?”男は自らに問いかける。
”いや、ない!”と、男は確信に至る。
”あるわけがない。つまらない誓いを立てた私を主は戒められたのだ!”
男はすくっと立ち上がり、大きく深呼吸をする。
”聖霊よ、いらっしゃたのですね・・・あなたの愛で満たされています。”
男は窓辺に歩み寄り、空を眺める。
”主よ、御覧ください。自分で立てた誓いが破れても、我が信仰は微塵も揺るぎません!”男の顔に清々しい笑みが浮かんでいる。
男は廊下からの足音に気づき、部屋の扉に向き直って、居住まいを正した。
扉がノックされ「マクガイア神父。お時間です」と声がかかる。
ニコラス・マクガイアというのが男の名前である。彼はイエズス会での修行を終え、今日、正式に宣教地を言い渡されることになっている。
「準備はできています。」と応えて、廊下に出ると、扉の脇で控えている総長の使いと目が合った。
使いの男は若い。マクガイアにこのくらいの歳の子がいても決して不自然ではなかった。
その若い使いが、総長の使いである威厳を精一杯示そうとマクガイアと対峙している。
使いの後ろに、これも若い3人の神父の姿があった。彼らもまたマクガイアと同様に、今日、正式に宣教地を言い渡されるのだ。
「では」と使いが身を翻し歩き始める。それに続いて後ろに並んでいた3人の神父が全く同じように身を翻して後に続く。
見事である。使いを先頭に神父たちが列をなして壁際を、作法に従い頭を低くし小股で歩いていく。若者がへっちょこばって作法に従う姿をよそに、マクガイアは大股でガシガシと歩き始めた。
歩み始めてすぐに、使いの一群に追いつく。追いついても、その歩を緩めることなく、マクガイアは総長室に向かう。2階に降りる螺旋階段の途中で先頭の使いを追い越した。
追い越された使いが「マクガイア神父」と諌めるように声をかけたが、構わずガシガシと歩を進める。
「マクガイア神父!」と使いが声を荒げ呼びかける。
マクガイアはそれでも歩みを緩めない。
使いが歩幅を変えずピッチを上げて追いすがる。後に続く3人の神父もピッチを上げる。
今まで一糸乱れぬ使いの一群はバタバタとほつれ始める。秩序が保たれている中で、秩序に従う姿は立派に見えるものだが、秩序が乱れ始めた中で、秩序を保とうとする姿はまるで滑稽であった。
息の上がった使いが「マクガイア神父!」と6度目の声をかけた時、マクガイアは既に総長室の前に立っていた。
さすがにドアに手をかけることはせず、脇にどいて使いを待っている。
総長室前で「あなたという人は、本当に・・・」と小言を口にしようとする使いに対して、マクガイアは目でドアをノックするように促した。
使いは、憎々しげにマクガイアを睨み、息を整えるとドアをノックし
「ストリッケル総長、4人の神父をお連れしました」と伝えた。
「入りなさい」と中から高く乾いた声が返ってきた。
使いはドアを開け、一礼し中に入る。マクガイアを最後尾に、4人の神父が後に続いた。
部屋に入ると、右手の年代物の重厚な机に肘をついてヨハネス・ストリッケル総長が座っていた。