第五章 ミセシメ その三
ユリアはズンズンと進む。怒りが収まらない。
この世の中には、ほとほとうんざりしているし、なんの期待もしていない。
期待していないはずだったのに、なぜ、今更、この世の中に、怒りを感じたりしているのだろう。
今日の仕打ちはなんなんだ。とユリアは思う。学年主任の原田のことではない。
修学旅行、空港での最後の自由時間、お土産を買い忘れた者のために、設けられた時間。
ユリアは父母のためのお土産はすでに買っていたが、自分のためにも買っておこうと目についた店に入る。キーホルダーの棚を見ているとLINEが入った。
”ユリアっち、A塔の土産屋に面白いヤツあるよ!来てみて(笑)”相楽さんからだった。
”えーホント、行く行く!”と返して、伝えられた店に向かう。
店に向かっている途中でまた、LINEが入った。
”連絡で〜す。なんかあって、飛行機の搭乗口がB棟からC棟へ変更になったって、集合場所を間違わないようにね”
A棟の土産物屋に着いた。面白いものってなんだろうと店を覗き込む。
マーライオンのキーホルダーが七色の虹を口から吐いている。これだと思った。
が、そこに相楽さんの姿はなかった。キーホルダーを購入して、C棟へ向かった。そのC棟で皆を待ったが、いつまで経っても誰も来なかった。不安に思って班長に電話を掛けたが繋がらない。
すると、空港スタッフに声をかけられた。空港スタッフは英語でなにやら言っている、分かる単語をつなげていみると空港スタッフが言うには、ユリアが乗るべき飛行機はすでに飛び立ったということだった。
”やられたぁ”と思った。この時のために、班の連中は3日間、ユリアと打ち解けた振りをしていたのだ。彼、彼女が用意した修学旅行の最高のクライマックスだったのだろう。
ユリアの頭にクラスの連中が首尾を知ってクスクス笑っている姿が思い浮かんだ。
ユリアは、先生たちは、いつわたしがいないことに気付いたのだろうと詮無いことを思う。
修学旅行の間、点呼は班単位で行われていた。班長が適当に「そろってま〜す」とでも応えればそれで通ってしまっただろうか。
で、どこかで気付いたとしても、いなくなったのがユリアであれば、その落ち度はユリアに被せられるとでも思ったに違いない。
学年主任の原田なんぞは、積極的にユリアに被せてしまえと思っただろう。体育館の連帯責任の見世物は、実は教師たち、学年主任原田の責任逃れのパフォーマンスだったのではないかと思えてきた。
辺りはすっかり暗くなり、家まであと少しというところで雷鳴が響いた。
ユリアはビクッとして立ち止まる。
ぼたぼたと重みのある雨粒が頭、首、肩、背中を打った、地面から跳ね返った雨粒が靴をぐちょぐちょに濡らし始めた。ユリアは頬を伝う水滴が雨であることを祈った。
ザーザーという激しい雨音だけが辺りを包んでいる。
もう、濡れていないところないところまで来て、ユリアは叫んだ。
「ぱっぱかぱかぱかぁぱっぱっ、パフッ!ぱっかぱかぱかぁぱっぱっ、パフ!ぱっぱかぱかぱかぁぱっぱっ、パフ!」と祖父が教えてくれた呪文を唱えた。
祖父が言うには、あ〜もうこれは駄目だと、絶対絶命だと思った時にこの呪文を唱えると、唱え終わった瞬間にすべてが馬鹿らしくなり、どうでもよくなるという呪文だった。
自分の身に降りかかる災いを無効化する呪文だった。これが、本当によく効いた。
この呪文のお陰で闇落ちせずに済んでいる、とユリアは思う。
ありがとう、おじいちゃん、と心のなかで呟いた。
すると、今までの豪雨が嘘のように止んだ。
平静を取り戻したユリアは、気恥ずかしさから、誰かに見られてはいなかったかと辺りを見回した。
すると、見慣れた3台の自動販売機の間で、蠢く何かが目に止まり、ひえっと声を上げた。
ネコか何かがゴミを漁っているのかと思ったが、違う、人だ。人が倒れている。
反射的に、倒れている人のもとへ向い、声をかける「大丈夫ですか?どうしました?」
波打つ髪が雨に濡れて顔に張りついている、胸元まで開かれたシャツから太い金のネックレスが覗く。
趣味がいいとはいえない白いスーツは良い仕立てのものだった。一見してカタギではない。
男は大きく胸で呼吸している。生きている、死んでいない。
顔に垂れた髪の間から、焦点の合わない目をユリアに向けてくる。
男は大きな指輪をいくつも着けた左手で腹を抑えている。腹に傷があるようだ。さっきの雨で洗い流されているが、男が手を当てている所がどす黒く染まっている。
ユリアはカバンからスマホを取り出し、救急に連絡を入れようとするが濡れた指先にスマホがうまく反応しない。
イライラしながらスマホの画面を操作する。やっと、なんとか繋がった。
男性の容態と、住所を伝える。救急車が来るまで、ヤクザに声をかけ続ける。
「頑張って!もう大丈夫。救急車が来るから」ヤクザの目が虚ろになる。
「こら!諦めるな!」死にそうな人を、励ます言葉が思い浮かばない。
「ほら、生きろ!明日の朝に何が食べたい?」わけのわからない言葉が口から出る。
やがて救急車のサイレンが聞こえてきた。「ほら!聞こえる!救急車が来たよ!ほら!」男の顔がみるみる血の気を失っていく。
ユリアは泣きそうになりながら男の顔を両手で包んだ。
「死んじゃダメ!目を開けて!ほら、男でしょ!」むぅぅっという声を漏らして男が体を起こそうとする。
「だめ、駄目!寝てなさい!体を動かしちゃ駄目!」と上半身を起こした男を抱きかかえる。
それが正しいのかどうか、ユリアには分からない。目の前で人が死にそうな時に、腹を刺された人に対してどう処置すべきか誰も教えてはくれなかった。
ユリアは人一人が死にそうになっているのに、どうしていいかわからない自分の無知、無力さを嘆いた。
「お願い。死なないで」とユリアは男の耳元で祈るようにつぶやいた。もう祈るしかない。
救急車がやってくるまで、だいぶ待った気がしたのだが、後で発信履歴を確認すると15分も経っていなかった。
やって来た救急車が目に入ると、ユリアは大きく手を振った。
救急車が水溜りの水を撥ねて停車する。
後部の扉が跳ね上がるように開くと、ストレッチャーを救急隊員が引っ張り出してこちらにやって来る。
救急隊員によって男がストレッチャーに乗せられる。
ユリアは男の手を握って、一緒に救急車の脇まで走る。
「乗りますか?」と救急隊員に問われて「あっ、いえ」と答えて、男の手を離した。
赤の他人のヤクザである、どうせろくな人間じゃないとユリアは思う。
それでも、じゃあこれでと別れるのは忍びない気がして、ヤクザの手を握り頑張ってと、ポケットに入っていたマーライオンのキーホルダーを握らせた。




