第三十一章 ロットン・ビューロクラシー その一
宇津奈議員はバチカン特使との面談の後、東京に戻り政務にあたっていた。
経済産業委員会の議事を終え、国会議事堂の裏にある衆議院第一議員会館の事務室へと向かう。
宇津奈議員は、晴れた日は地上で、雨の日は地下通路から移動することにしていた。昨日から降り続いている雨のため、今日は地下通路で移動する。
移動中に第三秘書で息子でもある太郎に、先程の委員会の要点と、次の会議までにやるべきことを伝える。太郎がまたかよと言った顔をするのを宇津奈議員は見過ごさなかった。
宇津奈議員は歩みを止めて、なにも言わず、ジッと息子の目を見る。
太郎は身を竦めて、わかりましたと頭を下げた。
宇津奈議員は、息子の出来の悪さに辟易していた。
太郎は根回しの重要さが理解できていないのだった。
息子太郎は、今まで交渉ごとの際、またはトラブルが起こった際に宇津奈という名前を出すことでどうにかなってきたのだ。
そういう環境を許してしまった自分にも責任の一端はあるかもしれないと、思わないわけではないが、それにしてもと宇津奈議員は半ば諦めている。
宇津奈議員は息子に跡を継がせる気は毛頭なかった。
第三秘書にして側においているのは、不祥事を起こさないよう監視するためだ。
自分の任期中、宰相となるまでは身内から不祥事を出させてはならない。
衆議院第一議員会館5階、525号室が宇津奈議員の事務室だった。
事務室に入るとデスクの脇に一人の男が立っている。
スタンダードな2つボタンの濃紺のスーツに、白いワイシャツベージュのネクタイを締めている。「お疲れ様です。宇津奈先生」と男が言う。
男は財務省の役人で宇津奈議員付となっている。
勿論、宇津奈議員が望んで付いてもらっているわけではない。
財務省が財務省のために、派遣してきているのだ。
宇津奈議員だけではない、財務省はすべての議員に役人を送り込み、送り込まれた役人は政策秘書よろしく立ち回り、議員たちを絡め取っていく。
絡め取られてた議員は、ズブズブと役人依存の沼に嵌り、抜け出せなくなる。
そして、今や全ての議員が絡め取られている。
役人がいないと法案が書けない。立法府はもはや存在しないも同然だ。
「何、柳君、いつから待ってるの?」と宇津奈議員が男に声をかける。
「来たばかりです」と柳と呼ばれた男が答える。
「よく言うよ、30分前から起立の姿勢で待機ですわ」と第一秘書の岡野が言う。
役人根性による役人の行動規範、役人の交渉術、待たせたという事実をもって話を聞かせようとする。
「で、なに?」とデスクに腰掛けて宇津奈議員は言う。
柳と呼ばれた男はファイルから書類を取り出して、宇津奈議員の前に差し出す。
「我が国の財政政策についての方針です」
役人が国の財政政策の方針を議員に上げてくる。
この異常性を柳という男は全く認識していない。
宇津奈議員は書類を斜め読みする。”消費税25%”という文言が目に留まる。
「消費税25%」とあきれたといった様子で、宇津奈議員は背もたれに体を預けた。
「財務省は、次の選挙で政権交代を望んでいるようだ」と口元を歪めて柳の顔を窺う。
「いえいえ、次の選挙も、次の次の選挙も大丈夫ですよ」と柳が言う。
役人が選挙結果まで見通してものを言っている。
「財政が逼迫している。ここ30年くらいずーっとそうだ。財政赤字は膨大な額に膨れ上がっている」と言う宇津奈議員の言葉を神妙な面持ちで柳は聞いている。
「で、増税」と宇津奈議員、頷く柳。
「増税は、やれるべきことを全てやって後に、国民に頭を下げてお願いするものだと思うが・・・どうだろう?」
「その通りです。宇津奈先生」と柳。
「同意してくれるか柳君」と宇津奈議員は姿勢を正す。
「それでは、まず、国が持っている資産を処分しようか」と宇津奈議員は切り出した「アメリカ国債を売るのはどうかな?」
「いやいや、宇津奈先生。そういった応急処置ではなく、恒常的かつ、抜本的な解決が必要とされていまして」と言う柳を、宇津奈議員は手を上げて制す。
「この後、アポイントがあってね。目を通しておくよ」と渡された書類をトントンと叩く。
「君はよくやっていると、事務次官には言っておく」と声を掛けると、柳は今日のところはといった感じで事務室から出ていった。
入れ替わりに第二秘書の松永が入ってきた。
「先生、UR民営化の法案です。内閣法制局の審査を終えましたので、閣議前の事前審査をお願いします」
「ああっ」と答え、宇津奈議員は書類に目を通す。
高度成長期の都市部での住宅不足を補うために設立された住宅公団が2004年に現在の独立行政法人都市再生機構となって20年、民間事業を脅かすまでの存在となり、設立当初の目的を果たしたとして民営化への議論を進めてきたのだった。
ペーパーを受け取った宇津奈議員は、目的のページをめくり、丹念に一字一字確認していく。
音がするほど顎が噛み締められ、みるみると宇津奈議員の顔が赤くなる。
「クソがっ」
”完全民営化”が”完全に民営化”に書き換えられている。
民営化には3つある。一つは、民有・民営の完全民営化で、次に政府が株式を保有して経営形態のみを民営化する特殊会社化、3つ目が政府が根拠法律だけを持つ特別民間法人化だ。
民有・民営の完全民営化を目指したものが、”完全に民営化”と書き換えられたことで完全民営化以外の2つの民営化が可能となる。
これにより官僚の天下り先を確保しようとする目論見であることは間違いない。
第一秘書の岡野が脇から覗き込む、宇津奈が震える指でペーパーに赤を入れ「松永、これを急ぎ総理の元へ持っていけ」と命じた。
松尾はペーパーを受け取ると、宇津奈に頭を下げて部屋を出ていった。
「ロットン・ビューロクラシー・・・」と第一秘書の岡野が呟く。
続けて岡野が言う「先生、そろそろ向かいませんと。遅れてしまいます」
「そうだな」と答える宇津奈議員の目は怒りで燃えている。




