グレン・エンマ
グレン・エンマは、極東の国で生まれた。
小さく、狭い国だ。周りは山と海に囲まれていて、他国との交流も少なかった。民の多くが自国の物資だけで生活していることに誇りを持ち、貿易しなければ生活できない他国を蔑んでいた。
そんな国が、彼女は嫌いだった。
だからグレンは、十五の誕生日を迎えたこの日、家を出た。
こんな狭いところで、自分の才能は証明できない。
山を越え、また山を越えた。
二ヶ月ほどかけて、グレンは魔術大国リディオンへ辿り着いた。極東人の象徴である黒髪は伸びっぱなしで、毛先は艶を失っていた。
しかしそんなことはどうでもいい。
だってこの先に、新しい世界が待っているのだ。朝焼けを背に、木立を抜ける。
期待に胸を膨らませ、その目に捉えた景色は、彼女の想像を超えていた。
即ち、魔物の巣窟。
極東は魔力濃度が高かった故、魔物は比較的少なかった。生息していた魔物は、せいぜいが人の両手に乗る程度の大きさ。
目の前の狼のような魔物は、グレンの腰ほどの高さがあった。立ち上がれば彼女の背丈を優に超える。爪も牙も鋭く、飛びかかられたら一溜りもないだろう。
驕っていたグレンは、腹を空かせた魔物たちを前にしてたちまち青褪めた。
武器は持っていたけれど、手が震えて鞘から出せそうもない。グレンが立ちすくんでいる間にも、魔物はジリジリと距離を詰めてくる。
膝が笑って立っていられず、その場に座り込む。
「……何でだよ、なぁ。立てよ」
心が体に引っ張られて、僅かに湧いた戦意すら失う。
魔物はもう、その息がかかる距離にいる。
「…………あぁ」
こんなことになるなら、国を出なきゃ良かったのに。
爪を振り上げる魔物の動きが、やけに遅く見えた。
目を固く閉じて、これから来るであろう痛みに備える。
しかし、その痛みは永遠に来なかった。
代わりに、生温い液体が顔にかかる。
「…………え」
再び目を開けると、グレンの目の前に一人の青年が刀を構えて立っていた。銀色の髪が風に翻って煌めく。深い青の双眸は、ただ目の前の敵をひたと見据えている。
その絵画のような美しさに、目を、否、心を奪われた。
青年は腰を落とすと、目にも留まらぬ速さで魔物の群れに向かって斬りかかる。青年が通り過ぎた場所には、瞬く間に魔物の骸が積み重なっていった。
グレンは頬にかかった血を拭うのも忘れ、その舞のような剣技に見入っていた。
「君、ここで一体何をしていた」
魔物が全て息絶えてもまだ、グレンは立ち上がれずにいた。
「ここは警戒区域と知らせていたはずだ……いや、待て。君、どこから来た」
銀髪の青年は、グレンの格好を見て眉を顰める。黒髪に目を留め、納得したように吐息をこぼした。
「……あぁ、東か。どうしてここに来た」
グレンは青年の問いかけも聞こえていなかった。そもそも、グレンはリディオンの言葉がわからない。
ただもう一度、あの美しい舞を見たかった。
「……ッ!? おい、何をする!」
気づけば、太刀を鞘から抜いていた。
目と鼻の先、鮮やかに火花が散る。それが青年の瞳に映り込んで、まるで蒼天に咲く花火のようだった。
「くそ、聞こえないのか!?」
青年が腕を振り、グレンの太刀を払い除ける。まるで敵を睨むような鋭い視線に、グレンの口元が綻んだ。
「……キレイ」
「は……」
「トテモ、キレイ」
拙いリディオン語で、グレンはそう呟いた。恍惚と微笑んで。
青年の背筋が粟立つ。
グレンは太刀の重さを感じさせないスピードで青年に迫る。その斬撃は重く、とても年下の少女とは思えなかった。受け流し、体勢を整える。
やりづらい。
青年にとって少女は保護対象の一般人だ。それに加えて、恐らくは極東特有の剣術。リディオンの型に慣れきった青年にとっては戦いにくいこと、この上なかった。
守りに徹する青年に焦れたのか、グレンの攻撃は勢いを増す。
ほんの一瞬だ。
長旅の疲れが出たのだろう、グレンの太刀筋が乱れた。
青年はそれを見逃さなかった。
刹那の間にグレンの背後へ周り、首に手刀を入れる。グレンは一つ息を溢して、気絶した。
グレンの体にはいくつもの細かな傷があった。それを見留めた青年は、ささやかな回復魔術をかける。
「……はぁ」
この森に放っておく訳にもいかない。見つけた以上は保護すべきと判じた青年は、少女を連れてワープ魔法を使った。
◇◆◇
グレンが目を覚ますと、知らない場所に横たわっていた。布団よりやけにふわふわしている。そこで、やっと家を出たことを思い出した。
「目が覚めたか」
「……さっきの」
「……全く、なんであんなところにいたんだ」
言葉は通じない。
だが、面倒くさそうな表情と仕草から、なんとなく言っていることを察した。
「……ゴメンナサイ」
遠い記憶をかき集めて、リディオンの言葉で謝る。青年は驚いたように片眉を上げた。
「君……いや、そうか、通じてはいないのか」
青年がグレンのそばで片膝をついた。
その青い瞳は、真っ直ぐグレンを見つめている。
こんな風にグレンを見る人は、彼女の故郷にいなかった。
「俺は、ソルテ。ソルテ・アスティーズ」
極東の言語だ。
慣れてはいないのだろう。ゆっくりと言葉が紡がれる。
「君は、強く、なりたいのか?」
「はい」
食い気味にグレンが頷くと、ソルテの目尻が柔らかく垂れた。
その穏やかな笑みに、心臓が跳ねる。
「俺が、お前を鍛える。一緒に、来るか?」
グレンは躊躇なく、差し出されたマメだらけの手を取った。
◇◆◇
「────あ、やっと起きた」
どうやら、座ったまま寝ていたらしい。オリヴィエが机の上に顎を乗せて、グレンを覗き込んでいた。
「……ふふ」
「え、気持ち悪。何笑ってんの?」
グレンは返事をせず、腕を上に伸ばして凝った体をほぐす。
「どうせソルテ様の夢でも見てたんでしょ」
「お前には関係のない話だ」
「あー、ひどい。この前の報告書、誰が手伝ったと思ってるのさ」
「ユグシル」
「だぁー! あたしも一緒にやったじゃん!」
頬を膨らませるオリヴィエを他所に、グレンは夢の余韻を噛み締める。
あのお方がいなければ、今頃は骨も残っていなかった。
「…………もっと、強くならなければな」
「何、急に」
「何でもない。報告書を片付けるぞ」
あのお方の隣に、相応しくなれるように。
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