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恋愛小説からはじめましょう  作者: 睦月はる
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 これはレティツィア・ボルジアが、ただの『レティツィア』だっ頃の話。


 レティツィアは、ビッシオーネ王国の貧民窟に生れた。


 産業革命により劇的に国が発展し、栄光の光を放つと同時に、その影もまた浮き彫りになった。


 無造作に造られた建物は破壊され、道は広く美しく整えられ、影があった事すら感じさせず、理想的な都へと作り変えられた。


 街に点在していた浮浪者達は一か所に集められ、立ち退きに反対した貧困層もそこに押し込められた。


 王国の汚点。インフェルノ。貴族も平民も目を背ける、底辺中の底辺で私は生まれ育った。


 幼い頃に母を亡くし、物心ついた時には父親は既にいなかった。

 片親は貧民窟では珍しい事ではなかったので、それを寂しいとも疑問に思う事も無かった。


 窃盗、詐欺、殺人は日常茶飯事。安全だった日なんて一日だって無い。

 何処かで事件が起きていて、昨日まで話をしていた人が捕まって、昨日まで元気だった人が白い泡を吹いて倒れている。


 そんな環境でも希望を失わずに生きていけたのは、全て母ラエティティアのお陰だった。


 『私の可愛い子。例えどんなに貧しくても、誰からも盗んではいけません。例えどんなに飢えていても、分け与える事を怠ってはいけません。例えどんなに暴力を振るわれても、恨んではいけません。振るわれた拳を優しく包み、その痛みを癒してあげましょう』  


 命の灯が消えるその瞬間まで、高潔で精錬だった母。

出口の無い暗闇の中に咲いた、清らかな一輪の花のようだった母。


 一人ぼっちになっても、母の言葉があったから前を向けた。


 「ねえ君、それは売り物でしょう?着る物が無いのなら私のをあげるわ。大丈夫、小さくなって着られなくなった服だから。ほら君に良く似合ってる」


 「あなたお腹が空いているの?じゃあ私と一緒にゴハン食べない?丁度一人で食事をするのが寂しかったの、一緒に食べてくれると嬉しいな!」


 「ごめんなさい、驚かせちゃったね。ほら血が出ているわ、早く手当しましょう。私?私とっても頑丈なの、これくらい何ともないわ!」


 貧民窟なんて呼ばれても、そこに住んでいる人全員が心まで荒み切っている訳じゃない。弱って疲れて、目先の欲に目が眩んでしまう事もあるけど、正面から向き合って、しっかりと語り合えば、どん底でも皆で支え合って生きていける。


 篤実を心掛けて人々と接しているうちに、笑顔を無くした子供が笑うようになって、盗みの常習犯が炊き出しを手伝うようになった。

 一緒に、この環境を変えようと、手を取り合える仲間達ができた。


 地獄なんて言われても、ここは私達にとっての故郷だった。


 「私が『聖女』?」


 ある日、とても身なりの整った人達が私を訪ねて来た。


 「あなたが『貧民窟の聖女』でしょう?我々はあなたを迎えにやって来たのです」


 貴族が治安の取り締まりにやって来たのかと思ったら、彼らは貴族でなくその使者で、しかも『貧民窟の聖女』を探しに来たと言う。それが私だって。


 「何の事か分りません」


 私が緩く首を振ると、話を聞いていた子供達が声を上げた。


 「レティー姉ちゃんはみんなに優しくて、平等で、自分が苦しくっても物をくれたり、食いもんをくれたりするんだ!」


 「病気になるとずっと側にいてくれるの!お歌を歌ってくれて、頭をなでなでしてくれるの!」


 それを皮切りに、次々と私の称賛を始める貧民窟の仲間達。恥ずかしくなって俯くと、使者がしかりと頷いた。


 「最下層にいても慈愛の心を忘れず、自分がどんなに貧しかろうと万人に施しをする。故に『貧民窟の聖女』と呼ばれている事を知らなかったのですか?」


 初めて聞いた。皆にそう呼ばれている何て思いもしなかったし、私は聖女と呼ばれるに相応しい、綺麗な女じゃない。


 ぼろぼろの衣服は継ぎ接ぎだらけで、元の布の原型すらない。伸ばしっぱなしの髪は、碌に手入れをした事も無く麻紐で括っただけ。体はどぶ川で洗うか布で清めるだけ。清潔な水は飲んだ事も見た事も無い。


 こんな私が聖女なんて信じられない。


 私の心中を察したのか、使者がふっと笑った。


 「聖女とは、身なりの事を言っているのではありません。その高潔な心根を皆が褒め称え、慕ってそう呼んでいるのです。あなたは聖女と呼ばれるに相応しいお方です」


 そうだそうだと、貧民窟の仲間達が声を揃える。


 皆に慕われるのは嬉しいけど、やはり聖女の名前は私には重すぎる。

 それにそれがどうして、私を訪ねて来る理由になるのか分からない。


 もしかして、貧民の癖に聖女を名乗る私に何か咎めが…?

 私だけならいいけれど、皆にまで類が及んだら…!


 使者は万来の讃頌を受ける私を満足気に見て言う。


 「それを耳にした我が主、ボルジア公爵様が大変感銘を受け、是非公爵家に迎え入れ、御身を保護したいと仰っているのです」


 貧民窟の住人でも聞いた事がある大貴族の名に、皆が慄いた。


 「レティー姉ちゃん、貴族になるの?」


 まさか、これは何かの間違いだ。お貴族様の気紛れに違いない。


此方の戸惑いに気付いていないのか、そこでと芝居じみた調子で使者が語り出した。


 「あなたも、政府が貧民窟の縮小に頭を悩ませているのはご存じでしょう。我がビッシオーネ王国が先進国家に名を連ね続ける為には、高度な工業と技術力、優れた経済力に国民の高い生活水準は欠かせません。しかしこの場をこのまま放置しておけば、他の先進国家に侮られる事は必至。ここに押し込められた時以上の、苦難が待ち受けているやもしれません。あなたが公爵家に入り、貧民窟の住人にも更生の余地があると仰れば、きっと公爵様が良きに計らってくれます」


 雷に打たれたような衝撃が走る。


 苦難ってどういう事。今以上の苦難なんてあるの?

 でも私が公爵家に行けば、そうじゃなくなる…?


 「それは…、私が公爵様にお仕えすると言う…」


 「まさか!聖女のあなたを使用人扱いなどできません。公爵様はあなたを養女としてお迎えするおつもりです」


 眩暈がしたが、背後から沸き上がった歓声に驚いて吹き飛んでしまう。

 振り返れば拳を突き上げて喜ぶ、貧民窟の住人達がいた。


 「俺達のレティツィアが公爵令嬢になるぞ!」


 「レティーが公爵令嬢になればここも安泰だ!」


 「さすが貧民窟の聖女だ!俺達の救世主の誕生だ!」


 「レティツィアは、貴族になっても全然違和感が無いくらいとっても可愛い女の子だもの。当然よね!」


 皆、喜んでくれている?


 レティツィアの瞳にみるみる涙が溜まって、一筋の流れを作った。


 「おい、どうして泣くんだレティツィア?そこは喜ぶ所だろ?」

 「だって、皆が、喜んでくれるから、嬉しくって…」


 「自分が貴族になるのが嬉しいんじゃなくて、俺達が喜んでいるから嬉しい?」

 「こんな時でもレティツィアはレティツィアだな!自分じゃなくて他人の幸せをまず喜ぶなんて」

 「『貧民窟の聖女』に幸あれ!」


 レティツィアを称賛する声は延々に続いた。


 その様子を、使者が冷めた目で見ているとも知らずに。








 「君がレティツィアだね」


 その日のうちにレティツィアはボルジア公爵家に引き取られた。

 当日なのには驚いたし戸惑ったが、公爵様が首を長くして待っていると言われ、仲間達が笑顔で送り出してくれたのもあり、レティツィアは着の身着のままボルジア公爵邸にやって来た。


 王宮に来てしまったの…?


 黒塗りの高級車に乗るだけでも気が引けたのに、貴族街をどんどん進み、王宮ほど近くまで進みやっと車は停車した。


 王都なら地価は目も眩む(あたい)だろう。

 しかしボルジア公爵邸は、ここが王宮なのではと勘違いしてしまうくらいに、広大な敷地を有していた。


 見えている敷地だけで、貧民窟がそのまま入ってしまいそうだ。そこにまた車道まであるのだから、レティツィアは驚きで疲労を感じ始めていた。


 やっと屋敷の前までくると、玄関ホールにはずらりと使用人が並び『いらっしゃいませレティツィアお嬢様』と慇懃にレティツィアを出迎えた。


 お辞儀の角度まで揃っていてそれだけで圧倒するのに、国の財宝が収集されているの?と勘違いしてしまいそうな玄関で立ち竦み、完全に怖気づいてしまった。


 そんな時に現れた男性。貧民窟までやって来た使者も、貴族と思ってしまう位に高貴で洗練された姿をしていたが、この男性は比較にもならない位に高貴で、優雅で堂々としていて、貴族らしい不遜さがあった。


 「はっはい、そうです。あなたは…」


 「私の名は、ロドリーゴ・ボルジア。君の『父』となる者さ。歓迎するよ『貧民窟の聖女』殿」


 年頃は五十歳前後、濃い金髪にエメラルドの瞳を持った美丈夫だ。


 すっと片手を出された。


 王者の気品漂う男性から握手を求められ、レティツィアは戸惑う。


 みすぼらしい姿のレティツィアと、同じ人間とも思えない程煌びやかなロドリーゴ。

 住む世界が違う。改めて思った。


 どうして自分が貴族になれる何て思ったのだろう。今すぐあそこに帰ろう…。


 「……!」


 レティツィアの汚れ塗れの手に、爪の先まで整えられた美しい手が添えられた。

 そのまま手を取られ、顔の前まで持ち上げられる。


 「こっ公爵様、汚いですから離して下さい…!」

 「汚くなんて無い。貧しい人々に救いの手を差し出してきた君は、何もかも美しいよ」


 ロドリーゴは更に指先に口付ける。


 「公爵様…!」


 「お義父様、だよ、レティツィア」


 うっと言葉が詰まり、嗚咽が込み上げて、涙が頬を伝う。

 最下層に生れた自分の手を躊躇いなく取り、父と呼ばせてくれるなんて。


 「お義父様、なんて、生まれて初めてできました…」


 「それは光栄だな」


 ロドリーゴはレティツィアを抱きしめた。

 生まれて初めての父からの抱擁に、レティツィアは涙が止まらなかった。






 その後の生活はめまぐるしかった。


 公爵令嬢となるべく、まず見た目から徹底的に磨かれた。

 枝毛だらけのぼさぼさ髪は、一流の美容師の手で整えられ、体は初めて清潔なお湯で清めた。かさついた肌は丁寧に香油を塗り込まれ瑞々しく輝き、最高の技術で仕立てられたドレスに、最新の宝飾類を身に纏えば、鏡の中には美しい少女がいた。


 え?これが私?


 皮脂汚れでいつもべたついていた髪が軽い。ふわふわと空気でゆれて、金色に輝いている。瞳の輝きさえも違って見える。濁っていた緑色の瞳が、宝石のように輝いていた。


 「見違えたな」


 身形を整えてロドリーゴと再会すると、目を見開いて感嘆の声を漏らした。


 「お前もそう思うだろ、ホフレ」


 小柄なレティツィアが、ぐっと顔を上げなければ見えない秀麗な顔立ち。父親のロドリーゴと似ているが、雰囲気は彼の方が柔らかい。プラチナブロンドの髪は公爵夫人譲り。公爵家伝統のエメラルドの瞳。


 レティツィアが身を清める前に、素っ気なく挨拶を交わしていた義兄、ホフレ・ボルジアが唖然とレティツィアを見下ろしている。


 「ホフレ様…?」


 公爵家の嫡男であるホフレの反応が読めなくて、レティツィアは不安に手を組み、じっとホフレを上げた。


 「…お義兄様、だろ、レティツィア」


 ホフレはそっとレティツィアの肩に手を置いた。

 そのぬくもりに泣きそうになるのを堪える。


 「お義兄様と、お呼びしてもいいのですか?」


 「当然だ。僕達は家族になったのだから」


 ホフレの優しさにとうとうレティツィアが泣き出した。それを義兄が抱きしめる。


 感動的な場面を、ロドリーゴは静かに見つめていた。








 「あの子がボルジア公の養女?」

 「貧民窟の聖女と呼ばれているそうよ」

 「下民が公爵家に名を連ねる何て世も末ね」


 社交界にデビューすると、誹謗中傷の雨あられだった。


 お辞儀の角度、言葉選び、ティーカップを持つ仕草まで全て否定された。


 仕方ないとお義兄様は慰めてくれる。これから学んでいけばいいと。


 お義兄様のご友人の方達も、私が詰られそうになるとかばってくれる。

 優しく相談にものってくれて、お義兄様達には感謝してもしきれない。


 苦しい事ばかりだけど、私を認めて公爵家に受け入れてくれたお義父様の期待に応えたい。最悪の環境の中でも希望を失わず、私を待っている貧民窟の仲間達。至らない事ばかりで迷惑をかけてばかりなのに、笑顔で私を受け入れてくれるお義兄様達。


 皆の期待に応えたい。


 そんな時に事件は起こった。








 「今度公爵邸で、奥様主催のお茶会が開かれます。お嬢様もご参加いただけますよう、お声がかかっております。ですので、新しいご衣裳をお仕立てに参りましょう」


 公爵夫人付きの侍女がある日突然私の部屋を訪ねて来た。公爵夫人とはまだ私と親しくするまでに至っていないが、これを期に親交を深めたいと。


 とても嬉しい。

 これでもっと、家族の絆が深まると、私は張り切って仕立屋に向かった。


 やけに遅い時間帯で、私付きの侍女で無く公爵夫人の侍女が付き人で、いつもは屋敷に呼び寄せるのにこちらから出向く、と言う時点でおかしいと思うべきだった。


 仕立屋からの帰り、車を手配するからと侍女が側から離れた。


 いまだに、上流階級の御用達の店が立ち並ぶ区画に足を踏み入れるのは気が引ける。

 一人残されれば、心細さで震えてしまいそうなる。


 「おい、お前、レティツィア・ボルジアだな」


 え?と顔を向けた方には、貧民窟では良く見かけた、風体の悪い男が二人も私の前に立っていた。


 これは不味いと、一瞬で悟ったが抵抗する間もなく、あっという間に乱暴に担ぎ上げられた。口を開けば下を噛んでしまいそうで声も上げられない。


 一体何が起こっているのか。


 貧民窟では人が攫われて、そのまま二度と姿を見せない事も多々あった。私もそうなるのだろうか。

 やっと皆に、認められはじめたのに。


 絶望が心を支配しようとしている時、後方から軽い足音が響き渡った。他も仲間がいたのか。


 私を抱えた男は構わず小径を駆け抜けて行く。暗い小径を抜けて大通りへ。


 目に映った小さな馬車にいよいよ絶望が押し寄せる。


 「ほら乗れ!」

 「いやっ…!」


 乱暴に降ろされると、強引に馬車に押し込まれそうになる。そうなれば最悪の未来しか思い浮かばない。何とかここで時間を稼いで、侍女が気付いてくれるのを待つしかない。


 たたたた…。


 また足音。仲間が戻って来た?


 「なっ何だお前…!」


 男が焦った声を上げて、レティツィアから身を離した。その隙に逃げようとしても、恐怖で体が竦んで動かない。


 でも、その必要は無かった。


 たんっと、軽やかな音がしたと思うと、男が放物線を描いて、石畳に吹っ飛んで行く場面が飛び込んで来た。


 唖然とする目の前に、異国の衣装を着た青年が着地する。


 紺青色の見慣れない衣装にターバンを巻いている。薄暗い中に、褐色の肌と白い髪が浮かび上がっている。義兄よりも背が高いかもしれない。


 ふるり、体が震えた。


 恐怖もある、短時間の間に様々な事が起こって、感情が収まり切れない。でも一番は安堵だった。


 「大丈夫?」


 何て優しい声だろう。


 彼は味方で、私は救われたと確信した。


 だって彼が私を見つめる目が、初めて会った時のお義兄様達と同じだったから。驚きと戸惑い。でもそれは次第に親愛に変わっていって…。


 目線がしっかり合う前に、それは逸らされた。


 立ち上がってお礼を言おうと思っても、腰が抜けて足に力が入らない。


 レティツィアが何もできずに座り込んだままでも事態は進展して行く。


 名も知らない救世主の仲間が現れて、異国の言葉で何か会話をしている。会話を終えると何処かへ走り去った。そのうちに警官も野次馬もどんどん集まってくる。


 「お嬢さん、怪我はないかな?」


 ぼうっとその光景を見ていたレティツィアに手が差し伸べられた。


 小粋なスーツを着こなした紳士だった。義父より少し年下の黒髪黒目の紳士は、レティツィアを優しく抱き起すと、何故か詰問されている彼に近寄った。


 「君、彼の素性なら私が保証するよ。それよりも、此方のご令嬢を保護してあげたらどうだい?」


 そう言って名刺を差し出す。

 名刺を見た途端、警官の顔色が変わり恐縮しきって私の方に駆け寄ってくる。


 あ…。


 完全に彼は私を警官に預けて安心している。役目を果たしたと、此方に視線すら向けてくれない。


 何があったか事情を尋ねてくる警官の声が煩わしい。今重要な事はそれじゃない。


 ―――このまま、お別れなの?


 「スィニョーレ・ストーリア。詳しい事情をお聞きしたいので、署までご同行願います」


 その言葉が福音のように聞こえた。

 ストーリアと呼ばれたのは黒髪の紳士だ。面倒そうに顔を顰めている。

 貴族になって間もないレティツィアは、家名を聞いただけでは、どこの誰かも分からない。


 あの異国の衣装を纏った彼は誰?


 彼から目が離せない。私を悪漢から救ってくれた時の、鮮烈な光景が離れない。


 「助けで下さったお礼をしたいので、どうかお名前を教えて下さい。それに、一人では心細いんです…」


 気付いたらそう口にしていた。

 嘘ではなかったけれど、このまま彼との繋がりが無くなってしまう事が怖かった。

 彼は明日になったら、偶然助けた女の事なんて忘れてしまうだろう。何とか印象に残りたかった。


 彼は警察署に行く事になった。私の気持ちを汲んでくれた。まだ私達は一緒にいられる…!


 「私、レティツィア・ボルジアと言います!あなたのお名前は?」


 女性から名乗るのはマナー違反だと教わっていたけれど、それでも我慢できずに名前を聞いてしまった。


 ドキドキする。ほんの一瞬の時間だったのに、答えが返ってくるまでが、永遠に感じた。


 「エズ・ビン・スランテュルク」


 エズ…。エズ様…。


 心に刻みこむように呟くと、ストーリアと呼ばれていた人が急に咽た。隣にいるエズ様と同じ異国の服を着ている人は、苦い顔をしている。


 「ボルジア公爵令嬢。警察車用をご用意いたしました」


 はっと我に返る。


 「あの、私、侍女と一緒に来ていたんです。彼女は?まさか侍女も襲われて…?」


 「そちらの確認も致します。ご実家にも署からご連絡を致しますのでご心配無く」


 そうだ、公爵家。きっと皆心配している。公爵夫人にせっかくお茶会に誘ってもらったのに、始まる前から泥を付けてしまった。お義兄様にはどんなドレスを仕立てるか相談したのに、何て報告すればいいんだろう。お義父様は国王様の相談役と言う重責を背負っている。これ以上負担をかけたくない。


 恩を仇でかえすような事になるなんて…。

 それに気付けずに浮かれていた自分が恥ずかしい。


 自分の行動を悔やいていると、いつの間にかエズ様達はご自分達の車に乗り、この場を立ち去っていた。


 すっかり夜の帳が落ちた大通りを、車の白煙がゆっくりと漂っていた。






 「レティー!とても心配したよ!」


 公爵邸に帰宅するなり、お義兄様にきつく抱きしめられた。

 私は結局警察署には行かなかった。


 私の身分を知った警察が、直ぐにボルジア公爵邸に連絡を入れ、警察署に行く前に迎えがやって来たのだ。


 『ボルジア公爵令嬢を警察署に連行⁈ありえません!』


 迎えにやって来た筆頭執事がそう叫ぶや、私を引っ手繰るように警察から引き離し、公爵邸まで連れ帰ったのだ。


 「お前が襲われたうえ、警察に連れていかれると聞いて、僕の寿命は十年は縮んだよ!」


 令嬢が例え自分に非が無くても、警察と関わる事は評判に障るらしい。もし署に連行されれば、家の恥となる。


 そこまで考えられずに言われるがまま、着いて行こうとした自分は、まだまだ公爵令嬢自覚が足りない。


 「心配をかけてごめんなさい。エズ様と言う方が助けて下さったの」


 「エズ?聞き慣れない響きだな」


 「多分異国の人だと思うの。肌の色が褐色だったし、髪も綺麗な白髪で…」


 ビッシオーネ人にも様々な特徴を持った人がいるが、褐色の肌は滅多に見かけるものではない。


 「異国人…?異国人がレティーを偶然見かけ助けたと?」


 もしかしてエズ様が疑われている?

 公爵家に恩を売る為の自作自演と思われている?


「お義兄様、エズ様はストーリア様と言う方のお知り合いのようです」


 義兄の疑いを晴らしたくてそう言った。


 「ストーリア?ヴェンセノス・ストーリア伯爵の事か。あの冒険家の」


 義兄は以外だと目を見張った。私は名前を聞いてもピンと来ない。冒険家と言う響きが不思議な印象なだけ。


 あとで詳しく聞いたら、今話題の旅行記の著者らしい。読み書きも怪しい私は読んだ事も見た事も無い。

 更に鉄道などを筆頭に出資して、経済に多大なる貢献をしたらしい。そう言えば野次馬が、ビッシオーネの明光と叫んでいた。そんな意味が込められていたのだろうか。


 「エズ様はそのストーリア様とご一緒でした。お知り合いか、ご友人か分かりませんが、悪い人ではありません!私を助けてくれた恩人です!」


 力一杯主張すると、義兄は困ったように笑って、レティツィアの頭を撫でた。


 「とにかくストーリア卿にはお礼をしないとな。父上が帰ってきたら相談しよう」


 あ、う、と。言葉にならない音しか出ない。


 勿論ストーリア卿には感謝している。

 でもこのままでは、エズ様との繋がりが完全に途切れてしまう。


 公爵家の人は悪い人達ではないけれど、伝統を重んじる気質が強く、新しい風潮を倦厭するきらいがある。


 今は車を使っているけれど、王様が車を使い始めるまで移動手段は頑なに馬車で、領地に鉄道を敷きたがる領主達を『先祖代々受け継いで来た伝統ある土地を、鉄の塊に侵略させるとは。王国貴族の恥さらし共め』と、鉄道産業自体に反対してた。

 ボルジア公爵領は国内有数の穀倉地帯なので、それもあっての反対だったようだが。


 その先端を切ったストーリア卿にもいい感情は無いに違いない。その知人で、しかも外国人であるエズ様も…。


 必要最低限の礼儀を返して、それで終わってしまうだろう。


 「お義兄様。今度の公爵家のお茶会に、エズ…ストーリア様達をご招待できませんか?私の命の恩人なのです。正式にお客様としてお招きして、お礼を言いたいの!」


 「今度のお茶会と言うと、母上主催のか…。母上が何と仰るか。それにお前が悪漢に襲われた事は緘口令を敷いてある。他の招待客の前でそんな事をすればお前だけの問題では済まないぞ、公爵家全体の問題になる」


 そんなと、言葉を失う。


 命の恩人に、体面を気にしてお礼さえも満足にできないの?これなら貧民窟にいた時の方が自由だった。地位も身分も与えられたのに、出来ない事の方が増えていく。


 レティツィアの絶望が伝わったのか、ホフレは慌てて言いつのった。


 「分かった。難しいかもしれないが、母上に相談してみよう。義娘を助けてくれた恩人だ、母上も一言お礼を言いたいに違いなし、裏でそのような場を設けてくれるだろう」


 「本当ですか⁈」


 ああと、ホフレは頷いた。

 例え母が駄目だと言っても納得させよう。

 この純粋無垢で誰よりも優しい義妹の笑顔の為ならば。


 ただその恩人がストーリア伯爵と、身元不明の異国人と言う事が引っ掛かる。


 その議題もこの笑顔を優先にする為、ホフレは頭の片隅に押しやった。








 「おのれ!下等生物の卑しい小娘が!旦那様だけでなく、我が息子まで誑かしおって!わたくしの茶会を私物化する気か!」


 ジェロージア・ボルジア公爵夫人は、自慢のプラチナブロンドの髪を振り乱し、蠱惑的な紫色の瞳を怒りで染め上げていた。

 感情のはけ口に、目につく物手に触れる物全て床に叩き落とす。

 公爵夫人の私室が、高価な調度品の墓場と化していく。


 高貴な夫人達の茶会は、ただ茶を飲んでおしゃべりするだけの暇潰し会では無い。


 男達が表舞台で辣腕を振るうなら、女はその影で糸を引く。誰にも悟られぬ、まるで蜘蛛の巣の様に緻密で残酷な糸を。


 「何が『聖女』だ…。一体どんな手で貧民共を慰めていたのか。汚らわしい!汚らわしい!汚らわしい!!」


 そんな女が同じ貴族になったと言うだけでも、蛇蝎の如く赦し難いのに、義娘になるなど、ジェロージアに自決を選択させても可笑しくない蛮行であった。


 「今にみておれ。下民は下民の住処に戻るがよい!」


 ジェロージアが水差しを投げつけた先には、ふわふわの金髪に、エメラルドの瞳をした人形が置かれていた。





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