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タイトリディア共和国首都ラーレは、プロポンティス海峡を望む海沿いにある。天気が良ければ、対岸にあるビッシオーネ王国が目視できる程、その海峡は狭い。
海底には帝政時代の中期まで、頻繁に激しく続けられた海洋戦の爪痕が現在も幾層にも積み上がっている。
その中には大量の軍資金を積んだ軍船が、今も引き上げられずに眠っている、と言う噂さがあり、ロマンの帆を掲げた冒険者達の心を、いつまでも翻し続けてているのだった。
その海峡を望める展望広場は、今では観光名所としてラーレでも指折りの場所だ。外国人観光客の定番コースである。
しかしまだ朝靄も立ち込める早朝では、観光客の姿もなく、地元の人間がのんびりと散歩を楽しんでいるだけだった。
エズ・スランテュルクもその一人だ。
彼はラーレだけでなく、タイトリディアの商人連盟では名の知れた豪商だった。
通い慣れた道を付き人一人だけ伴い、のんびりと朝の散歩を楽しむ。
海流の影響で年中温暖な気候のラーレも、早朝に吹く風は冷たかった。
エズは上着の前を合わせ、ジョギングに精を出す老人と軽く会釈しあってすれ違う。
変わらない朝の日常風景だ。
いつもと同じ場所で折り返して自宅に戻ろうと踵を返し、ふと柵の向こうの海面に視線をやって、エズは軽く目を見開いた。
おもむろに上着を脱いで付き人に渡すと、付き人が何事か尋ねる前に、エズは低い柵を越え、海に飛び込んでいた。
「旦那様ぁ⁈」
付き人は主の突然の奇行に悲鳴を上げた。
表面上は穏やかに見えるプロポンティス海峡だが、その海流は速く複雑で地元の漁師や観光船も、決して気を抜いては通れない魔の海峡だった。
古の海上戦で沈んだ軍船は、半分はその海流の餌食になったと言われている。
地元の人間は幼い頃から大人に、口酸っぱく海の危険性を教え込まれ、安易に近付いたり、まして、着の身着のまま飛び込んだりしない。
絶望が付き人の全身を包み込む。
その時、おーいと朝靄の向こうから主の声がするではないか。
「だっ旦那様!生きて…!」
「おお、私は無事だ。引き上げるのを手伝ってくれ」
付き人は慌てて柵に駆け寄ると、上半身を乗り出して海面を見降ろした。
柵の向こうは、人が両手を広げた程の岩場がある。最悪そこに頭なりぶつけて即死である。
岩場の縁に手をかけて、エズは元気そうに海面からこちらを見上げていたが、その脇には見慣れない白い物体が浮いていた。
「だっ旦那様…!」
何が何だか理解できずに混乱する付き人は、泣きじゃくりながら渡された上着をぎゅうぎゅうに抱きしめる。
エズは上を見て、左を見て、ちょっと困ったふうに朝靄の向こうの太陽を仰いだ。
今日も良く晴れそうだ。
※※※※※
気力と体力と殺意が振り切って、賢者時間に入ったカロリーナは冷静さを取り戻していた。思考を放棄しただけだとも言える。
気持ちを切れ替えて、いや全然切り替えられないが、そう思い込む事にして、ヴェンセノスとマックスを連れて客人達が待つ応接室へ向かう。
まず、父が迷惑をかけた事を誤り、助けてくれた事にお礼を言って。この、放浪徘徊癖住所確定無職の妄言には付き合わなくて良いと、平身低頭で訴えなければならない。
客人も、同じ妄想に取り憑かれていたら?
…それは、その時に考える…。
家令が主人一家の準備が整ったと取り次ぎ、三人は揃って入室した。
いつもと同じ部屋なのに、そこだけ空気感が違っていた。
「エズ待たせたな!改めて我が家へようこそ友よ!」
「おおヴェン!親友よ!待っていたぞ!そこにいるのがお嬢さんと息子さんだね!」
父は入室するなり、そこにいた男性と固く肩を抱き合った。二人でバシバシ背中を叩いて再会を喜んでいる。
「美しいお嬢さんと、賢そうな弟君じゃないか!いやいや、こんな素晴らしい家族と縁が出来る何て、神に感謝しなくては!」
男性は父との抱擁に満足したのか、今度はカロリーナとマックスに目を向けた。
歳はヴェンセノスより十歳以上は年上だろう。恰幅の良い体に褐色の肌。金の瞳に、短い白髪には赤いターバンが巻かれ、身に纏う伝統的な衣装には、精緻な刺繍が施されていた。ひとめで裕福層だと分かる。今も二枚目の雰囲気を醸し出しているが、若い頃はさぞもて囃されただろう、整った顔立ちをしている。
太陽のような笑顔を振りまく彼は、父と友人と言う部分を除けば、陽気なおじ様と言った印象だった。
「はじめまして。ヴェンセノス・ストーリアが娘、カロリーナ・ストーリアと申します。この度は我が父をお助けいただいて、心より御礼申し上げます」
私が淑女の礼をしながら自己紹介をすると、マックスも続けてお礼と自己紹介をした。
「そんなに畏まらなくていいんだよ。君達は我が親友の家族だ。なら私の子供も同然だからね!あっ自己紹介がまだだったね、私の名前はエズ・スランテュルク。ラーレで商人をしているよ」
「どうだエズ。私の子供達は良い子だろ!」
―――お前はもう少し、いや、おおいに畏まれや!
カロリーナとマックスは、頭を下げたまま心の中で共に叫んだ。
「ああ、本当に良い子達だ。君のようなお嬢さんを娘にできる何て、本当に本当に素晴らしい!」
商人ならではの陽気さなのか、エズはずっと笑っている。ヴェンセノスも笑っている。殴りたい、その笑顔。
「姉さん大丈夫?」
「大丈夫よ…。言葉は通じてるみたいだけど、通じてない気配がするのよね…」
「商人だから語学が堪能なのかな?あの父さんの親友さん?なんだよ。一筋縄じゃいかないさ」
そうよね。そうよね。気をしっかり心を持つよカロリーナ。
と言うか、父が結婚云々言っていた相手は、恩人の息子ではなかったか?
「あの…スランテュルク様。私、結婚のお話を、今さっき父に聞いたばかりなのです」
「おやヴェン。電報を打つと言ってなかったか?」
「めでたすぎて忘れてた!」
何だよそれ。娘の人生の一大事忘れるなよ。
「それは仕方がないな!」
なくないよ!似た者同士か!
もう心の生存値が底を尽きそうだ。
マックスが背中を支えてくれるのが唯一の癒しである。
「では改めて言おう!我が親友と恒久の友情の証であり、両一族の永遠の繁栄を願い、カロリーナ嬢と我が息子、アルパルとの結婚を宣言する!」
よっとヴェンセノスがエズを囃し立てる。
殴りたい、その笑顔(二回目)
その時初めてカロリーナは、応接室の長椅子に静かに座る青年の存在に気付いた。
お客様は複数だと知っていたのに、父親達の存在感が強過ぎたのと、青年が一言も発しなかったので、気付く事が出来なかったのだ。
青年は、自分の話になった事に気付き顔を上げた。
まず飛び込んできたのは黄色の瞳。黄金の様にギラギラしたもので無く、トルマリンのような優しい輝き。肌は健康的な褐色で若者らしく瑞々しい。白髪は耳が隠れる程の長さで、紺青色のターバンから零れた部分が、ふわっと揺れている。
「アルパル!こちらがお前の奥方になるカロリーナ嬢だ!」
エズが手のひらでカロリーナを指すと、アルパルと呼ばれた彼の、黄色の瞳がカロリーナを真っすぐ射抜いた。
びくっと身を強張らせると、マックスは何を思ったかそそくさと離れる。一人にするなと口を開く前に、彼が立ち上がった。
背が高い。女の平均よりも、ずっと長身のカロリーナよりもずっと。ターバンと同じ色の、紺青色の民族衣装が良く似合っている。
ゆっくりと近付いてカロリーナの前に立つと、彼――アルパルは端正な顔で優しく微笑んだ。
「アルパル・スランテュルクです。よろしく奥さん」
私はマヌケに、口を開いたり閉じたりする事しか出来なかった。
「それで、逃げて来たの?」
「戦略的撤退と言ってちょうだい」
ところ変わってララナキア伯爵邸である。
数時間前に別れた友人が、血相を変えて突然押しかけて来たのでルイーズは驚いた。こんな風に取り乱す友人を見るのは初めてだった。
既に日も傾いて、他家を訪問するには失礼な時間帯である。しかし、親世代からの付き合いがある両家には関係ない。むしろ泊まっていって欲しいくらいだ。
ヴェンセノスの帰宅を知ったララナキア伯爵夫婦は『今度は何をやらかしてきたのか、話を聞くのが楽しみだ』と、後日訪問する為の手土産の話を楽しそうにしている。
カロリーナは取り敢えず、整理のつかないこのモヤモヤをルイーズに吐き出しに来たのだった。
「おじ様がキャリーの結婚相手を見つけて来たの?しかも異国で?それはびっくりするわよね」
「うん…」
「そのお客様達はどうしてるの?結婚のお話をしなくていいの?」
「滞在申請の為に領事館にお父様と行ってる。申請はタイトリディアでもしたらしいんだけど、確認の為って…」
「その隙に逃げて来たのね」
逃げてない、と言う言葉は弱々しかった。
これはこれはと、ルイーズは零れそうになる驚嘆の声を、口元に手をやって我慢した。
母親と早くに死別して、幼い弟の母親代わりとなり、アレと言っているが、ストーリア伯爵家当主として忙しなく働く父の代わりに、女主人となり家を切り盛りし、鉄壁の理性とまではいかないが、伯爵家の長子として質実剛健でいようでいよう、と心掛けているカロリーナには珍しい姿である。
そう、自分から積極的に取り乱している姿は。
そうでないのはよく見てる。
「別に、結婚が嫌じゃないわ…。貴族なら家の為に結婚するなんて当然だし」
ちょっと焦ってたし…。は、口に出さずに心の中で呟く。
「領地を持つ家ならほぼ絶対だけど、私達の様な領地無しの成り上がり貴族には、あまり関係ないんじゃない?」
建国から名を連ねる大貴族とは違い、戦果などで叙爵されたルイーズ達新興貴族は、領地を持っていない事も多い。
大貴族には守るべき伝統と歴史と領地があるが、ルイーズ達にはそれが無い。
大貴族達はそれを蔑視し、同じ貴族と思われる事を嫌う。結婚で縁付く事も嫌う。
新参者はノブレス・オブリージュを人一倍しろ。身を粉にして国に使えろ。
でも落ちぶれて、貴族の名は汚すな。
傲慢な主張だが、要は貴族らしく出来ているなら、ある程度の事には目を瞑ると言う事だ。
カロリーナが嫌と言えば、ヴェンセノスも無理強いはさせないだろう。
つまり、そういう事なのだ。
父親の暴挙に徹底抗戦するつもりでいたら、素敵な男性が現れて、一目惚れしてしまって戸惑っているのだ。
でも素直にはなりたくない。カロリーナにだって矜持がある。普段から不満と愚痴を溢しまくっている父親の策略に、素直に従いたくないのだ。
でも、彼は気になる。
ルイーズは内から込み上げてくる喜びを感じた。
いくら恋愛小説を進めても、一向に興味を持ってくれなかったカロリーナが恋をしている。
しかも一目惚れ。
父親がアレだから、娘の自分もアレかもしれない。結婚なんて無理無理。弟のマックスは良い子だから、後継者はマックスに期待ね。と、言っていたカロリーナが恋。
しかも一目惚れ。
修道院の待遇も寄付金で決まるみたいよ。神の家こそ現実を思い知る場所よね。と、本気までいかなくても出家を考えていたカロリーナが恋。
しかも一目惚れ。
戸惑いながらもカロリーナの頬は薔薇色に染まっている。
あのカロリーナが、あのカロリーナが!
「…ルイーズ、すっっごい良い笑顔だけど、何?私困ってるのよ?」
「うん。分かってる。それで、旦那様候補の方ってどういう方なの?」
前のめりになりながらルイーズは尋ねた。釈然としないが、話さずにはいられないのだろう、頬を染めながらカロリーナは語り出す。
アルパル・スランテュルク。歳は十七歳。スランテュルク商会会長の九男で末っ子。
商会で父や兄達に交じり家業を手伝いつつ、いつか独立できればと日々商才を磨いていた。
上の兄達が全員結婚して所帯を持っていた為、アルパルもそろそろと話題に上がっていた時、エズとヴェンセノスが出会い、あっと言う間にウルトラソウルメイトになり、ズッ友の証としてお互いの子供を結婚させる事にした。
アルパルも家長で尊敬する父親が薦めるならと、結婚に前向きなのだと。
「タイトリディアでも、親の意向で結婚するのは普通みたい。帝政が無くなって貴族も平民も無くなったから、身分の違いも何も関係無いし。まあ、品性とかは調べられるみたいだけど。年長者を敬う国民性だから、父親の言う事に間違いないだろうって。お父上を強く信頼していたわ。外国に縁が出来れば、商会の仕事の幅も広がるし…」
「いい事しかないじゃない。末っ子だから跡継ぎの心配なく婿入りしてもらえるし、商会の後ろ盾も出来るし。異国人なのがどうこう言われるかもしれないけど、友好国の大商人を敵に回した時の想像を出来ない貴族なんて、ほっといても潰れるから気にしなくていいし。キャリーは彼が好き。問題無いよね?」
「問題とかそう言う…。って私アルパル様を好きって言った⁈言ってないわよね⁈」
「え~だって、恋する乙女の瞳してるもん。バレバレだよ~。いいなぁ私も恋したいな~」
「…っ!あんたにだけは、あんたにだけは言われたくなかった!お前、どの口が、何を、ほざいているか分かってる?自分の過去の発言を思い出してみなさいよ!」
がくがくとルイーズの肩を揺さぶって言えば、ルイーズはう~んと唇を尖らせて暫し考え『あっ婚約者がいるのに、恋したいは軽率な言葉だったね!』と斜め上な発言をした。
違うそうじゃない。
どっと疲れが出て、カロリーナは長椅子に身を沈めた。それをツインテールが乱れた姿すら可愛らしいルイーが見つめている。
達観した、お姉さんぶった視線が忌々しかったが、反論する言葉を思考する事すら億劫だ。
カロリーナがアルパルに惹かれているのは認めよう。こいつに知られるなど、屈辱の極みだが。
海を越えてやって来た、エキゾチックな美しい青年。しかもこちらに好意的で、戸惑うカロリーナに強引に迫るでもなく、一歩引いて心の準備が整うまで待ってくれる。
男前すぎる。惚れる。惚れた。
少し話ただけだ。
少し目が合って、砂糖壺に伸ばした手が少し触れただけ。
また目が合って、アルパルが微笑んで…。
―――好きになってしまった。
しかし、目の前にいるルイーズの、無自覚能天気恋愛脳を散々バカにしておいて、自分はあっさり恋に浮かされて、そればかりか、バカにしていた相手に相談にのこのこやって来て。
私の方が、何倍も何億倍もバカで愚かじゃないか。穴があったら埋まりたい。そしてアスファルトで舗装してくれ。
でもルイーズはそんな事関係ないと(と言うか気付いていない)相談にのってくれている。
そっか、だからモテるのか。
自分の恥とか矜持、ちっぽけな問題は後回しにして、この難題を解決しなければ、ルイーズに失礼だ。
「キャリーの、一番の心配はなんなの?異国人の夫を持つ事?」
「それは、あるよ。言葉…は通じるけど、文化は違うし」
でも一番じゃない。
同じ国出身でも、それぞれの家庭という異国で育ってきた者同士、結婚してまた新しい家庭を築くとなれば一大事である。同胞なのだから理解できる事も多いだろうが、決して相容れない所もあるだろう。それで破綻する夫婦など、ざらにいる。
だったら初めから全く違う者同士、理解できない所があると割り切られるアルパルとの結婚は、逆に楽だとも考えられる。
しかもアルパルはこちらに住むつもりでいる。カロリーナの負担は少ないだろう。
「お父様が冒険家のキャリーからしたら、異文化交流はそんなに壁じゃないでしょ?」
「無職の徘徊癖を格好良く言わないでよ」
「んもう。そんな天邪鬼みたいなこと言って。おじ様が書く旅行記は人気で、よく書店に並んでるでしょ?ジョアンもファンなんだよ」
「知らん。私は知らないわ。お父様の道楽本がいくら売れようが、どれだけ人気だろうが、私は知らないの」
最初父が旅行記を出版すると聞き、自費出版で趣味程度ならおっさんの道楽かと鼻で笑っていたが、王都の有名書店で平積みされ、今読むべき本に選出され、ファンレターが家に届き、父の代わりに家の収支決算書を確認したさいに、本の印税が馬鹿に出来ない金額だった時の衝撃は、今も、覚えていない事にしている。
知らん。私は何も知らない。
放浪徘徊癖住所確定無職のおっさんが書いた本がベストセラーだとか、私は絶対信じない。認めない。
「じゃあ、何が不安?」
不安。不満じゃなくて不安。
あんな父親でも、娘に無体な事はした事が無い。だから、親友としたその息子は『夫』として信頼出来る人何だろう。
反抗期丸出しだが、父親への信頼はちゃんと持っているのだ。
それを認めるにはまだ子供なだけで。
ルイーズは関係ないと言っていたが、カロリーナとて貴族令嬢。不幸な結果になると分かっていても、家の為なら喜んでどんな家にも嫁ぎに行った。
でも、旦那様候補は、少し話しただけでもいい人だと確信出来るくらいの男前で、既に両家の親公認で、大商人の息子で。
貴族としての『仕事』としての結婚の意味もはたし、恋愛結婚まで出来る。
万々歳としか言えないのに、拭えない不安感。
「私…良い子じゃないもの。悪態を良く吐くし、性格は悪いし、アレの娘だし…」
「アレ呼びはもうやめてあげようよ。もう、素直じゃないな~」
カロリーナはふっと細い息を吐いて、飾り気のない本音を零した。
「ちゃんと、奥さん出来るか不安なの…」
「………」
ルイーズはその言葉聞くと、ふるっと身を震わせた。
よろよろと立ち上がると、窓をバンと開け放って、空の彼方に叫んだ。
「カロリーナがマリッジブルーになってるぅぅぅ!あのカロリーナが!あのカロリーナが!可愛い!私の幼馴染がこんなにも可愛い!」
「あああああああ!何やってるのよこのバカ!」
慌ててカロリーナはルイーズの口を塞ぐが、ルイーズは構わずもごもごと何やら言い続ける。むしろ楽しそうに。
お前ふざけるなよと、カロリーナが羽交い締めにしても、叫ぶのを止めようとしない。
カロリーナもむきになって、息の根を止める勢いで口を塞ぎにかかる。
ララナキアの使用人が扉の向こうから、何事だと様子を窺っていてもお構いなしだ。伯爵夫婦も騒ぎを聞きつけて興味深そうに見ている。止める所か小さな声で、そこだ、右ががら空きよ、とすっかり観戦モードである。
ララナキア伯爵邸のキャットファイトは暫く続いた。
※※※※※
タイトリディア領事館で滞在申請の確認を終えて、ヴェンセノスとエズとアルパルはストーリア伯爵邸へ帰宅している所だった。
ビッシオーネ王国王都は隣国の影響を受けて近年で大きく様変わりした。
ガス灯の明かりで夜の闇に怯える事も無く、電報を使えば世界中何処にでも連絡ができる。ごく一部の裕福層には自家用車が流通し始めていた。乗合大型車は庶民の足としてもうお馴染みである。
新しいもの好きで、自動車メーカーの筆頭株主でもあるヴェンセノスの移動手段も自家用車だった。しかも最新のガソリン車である。
「デージーは栄えているな。ラーレの街にはここまで明かりはないぞ」
「私としては人口灯の明かりもいいが、月光に照らされるラーレの街も美しくて甲乙つけがたかったな」
雑談をしながら車に近付いて行くと、路肩に停められていた最新の白いガソリン車は、物珍しい人々の視線を浴びていた。
エズもその姿を惚れ惚れと眺める。ラーレの街は古からの街の姿のまま、外敵からの侵入を防ぐ目的で街が入り組んで作られ、道も大変狭い。馬車はおろか自家用車が通行できるような道が無いので、車を所持していたとしても郊外で、街と街との物資運搬用に使用されている。
日常の移動手段に使用してくてもできないのだ。ヴェンセノスの愛車が一層眩しく映る。
全国初の鉄道が首都デージーと、プロポンティス海峡の港町に敷かれると、ビッシオーネ王国には鉄道ブームが訪れた。
鉄道を敷く為の出資、駅を造る為の出資。鉄道ドリームの一攫千金を狙い、多くの者が手を出して、そして殆どが奈落の底に沈んでいった。
その数少ない成功者がこのヴェンセノス・ストーリアである。
若い頃より国内外を渡り歩き、思いもよらない人脈を築き、時流を読む力が自然に培われ、更に書籍も出版する事で一般庶民からの人気も得た。ファンは既に国外にも多く、彼の訪問を心待ちにする都市は山ほどある。
本人は金儲けや名声が欲しいと言うより、知らない事に触れ、見た事も無い風景を見、最新鋭の技術に最も早くに触れたい。と、押さえきれない知的好奇心を満たしたい、と言う願いの結果だったようだ。
それで成功してしまうのだから、この男は幸運の守護神加護でも授かっているのだろう。
その幸運の一端に触れた一人が、この自分だ。
「デージー観光にしゃれ込みたい所だが、今日はもう遅いし、家で子供達が待ってるから今日は真っすぐ帰るとしよう。観光は後日だな」
車の扉を開けてヴェンセノスが言う。
「そうだな。ヴェンは此方の知人に挨拶に行かなくともいいのか?観光なら私達だけでも大丈夫だぞ?」
「挨拶か…。ララナキアには世話になってるから行くとして、他の連中は勝手に招待状を送って来るだろうな。王都の貴族は伝統を重んじて改革を嫌う癖に、暇を持て余して享楽に飢えているから」
けっと、悪態をついて黒髪を撫でる。その表情は父娘そっくりだった。娘は絶対に認めないだろうが。
黙っていれば黒曜石の瞳と髪を持つ紳士の鏡のような男なのに、そんな子供じみて粗略な仕草をすると印象がガラリと変わる。でも不快に感じさせない。変わった男だ。
「お前にも招待状が届くだろうな。タイトリディアの豪商にお近づきになりたい連中は多いだろう。アルパル君も、いや、君にこそ集中するだろうな」
肩を竦めて見やった方には、父親達に黙って付いて来たアルパルの姿があった。
親子で民族衣装のまま領事館までやって来たので、異国人と言うだけで目立つのに割増で目立っている。
アルパルなど、若い女性とすれ違うとその度に、熱い視線と感嘆の吐息を浴びている。しかし本人は、テレるも嫌がるも、全く反応を見せなかった。
呼びかけられて、デージーの街並みを静かに眺めていたアルパルは、こっくりと頷く。
人好きで陽気な国民性のタイトリディア人には珍しく、アルパルは物静かで口数が少ない。でも陰気と言う訳ではなく、むやみやたらに騒ぎ立てない分、言葉使いが美しく丁寧だった。ビッシオーネの言葉も既に習得済みである。
そして沈黙が苦にならない人柄。親友の息子の部分を差し引いても、ヴェンセノスはアルパルの事を気に入っていた。
「アルその時は、嫁御に恥をかかせない様にしっかりと振舞うんだぞ。妻に恥をかかせるなど、ラーレ商人の恥だからな!」
こくり。
「カロリーナは小さい頃は人見知りでね。今は失礼にならない程度の社交はできるが、昔からの付き合いがある人以外は、今も人付き合いが得意とは言えないんだ。一緒に協力しながら付き合っていけると嬉しいな」
こくり。
あははははと、ヴェンセノスとエズは何が嬉しかったのか、上機嫌に笑い出した。
その様子をまた黙って見ているアルパルは、ふっと顔を通りの向こうに向けた。
街灯の明かりの下に女性の姿が見えた。
若い女性。カロリーナと同じ年頃だろうか。黄昏時の、また闇の帳が下りきっていないとは言え、うら若き女性が一人でいるには遅い時間帯だ。
アルパルは次の瞬間、走り出していた。
見物人を適当にいなしていたヴェンセノスとエズは、アルパルの突然の行動に声も上げられずに、背中が遠ざかって行く姿を眺める事しか出来なかった。
普段の大人しい姿からは想像もできずにただ驚くヴェンセノスと違い、父親であるエズは何か感じ取ったのであろう。
「ヴェン。アルを追ってくれないか?」
「ああ…何かあったんだな?」
「多分。あの子のあの様子では、かなりの緊急事態だ」
ヴェンセノスに車を出すように言って、急いで飛び乗って後を追う。
その予想以上の緊急事態が起きているとも知らずに。
ここまで読んで下さってありがとうございました。