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「暑くねえのかい、お兄ちゃん」

 二十三時。二十話を語り終えて、一度休憩にしよう、と十五分の小休止が始まった。『羽の間』を出て少し歩けば、勝手口の先に庭へと続く細い道がある。その道に佇みながらぼんやりと海の音に耳を傾けていれば、背後から新波に声をかけてきたのは、回蔵だった。

「それよ、」と言って、とんとん、と自分の顔を叩く。狸面のことを言っているのだろう。

「暑いですが、昼間よりはマシです」

「ちげえねえ。このへんはまだヒートアイランドっつー感じでもねえな。いやあ、この間、東京のマンションの部屋で調子くれてエアコン止めて寝てみたら、見事に起きて熱中症よ。やっぱり冷蔵庫にスポーツドリンクくらいは入れておかねえとダメだな。うっかりしてるとみるみるジジイになってポックリ逝っちまう」懐に手を差し入れて、「煙草、気にするタイプか?」

 いいえ、と新波が首を横に振れば、「わりーね」と言ってそれに火を点ける。一息大きく吸い込むと、口の中から大きく煙を吐き出した。旅館の庭、月明かりの差す冴えた蒼い景色の中に、濁った白が溶けていく。

「ツレのお姉ちゃんは、ありゃ本物か?」

 どこともしれぬ場所を見ながら、回蔵はそう訊いた。

「…………」

「ああいや、喋れねえって言うならそれでも全然構わねえよ。恋人か? まあ、なんだっていい。雇われる側ってことは、そのへん勝手にぺらぺら喋れる立場じゃねえだろうし、実際、喋らねえ方がいいのかもしれねえ。まあただ、ちょっとばっかし気になったわけだ」

「……箱の中身を、当てたからですか」

 あれを箱と呼ぶかは、人によって分かれるところではあると思う。虫籠とか、水のない水槽とか、そういう言葉が似合う気もする。けれど一つ目の怪談の中で、今尾が何度も『箱』という言葉を使ったから、とりあえずのところ、新波はあれを箱として認識している。

 今尾の話は、こんなものだった。



 このあたりの地方では、『恐れ虫』という伝承があるんです。……なんて言うと、虫が苦手な人なんかはもう、その虫から距離を取りたくなってしまっているみたいですが。ははは。でも、その蛾自体は怪獣でもなんでもないんですよ。オオミズアオ、という種なんです。羽化すると手のひらくらいの大きさでね、海外なんかじゃLuna Moth ――月の蛾、なんて呼ばれてるような綺麗な虫です。かく言う僕も一度だけこの目で見たことがありましてね、マンションの廊下だったんですが、あれは心底驚いた。別の世界に入りこんじゃったのかと思うくらいです。薄緑色の翅が透けるように夜灯りに光っていてね。昆虫に見惚れたのは、そのときと、昔に墓場でカラスアゲハを見かけたときくらいです。あんまり大きくて綺麗なものだから、親父たちが『ひょっとするとご先祖様が出てきたのかもしれない』なんて言っていたのを覚えています。

 さてこのオオミズアオ、この地方では『恐れ虫』の伝承に一役買っていましてね。別にオオミズアオでなくともいいんですが、一番多く使われたのはこの種なんだそうです。なにせこのあたり、そのオオミズアオの数が多い上に、鬼火の正体はあれだ、なんて民話まであって、怪談と密接に繋がっていたものですから。

 この地方ではね、怖いことがあったら虫の繭やら蛹やらに吹き込めば、そのままひょいっと月まで連れ去ってくれるという言い伝えがあったそうなんです。怖いの怖いのとんでいけ、とでも言えばいいのかもしれませんね。

 初めは子どもの遊びですよ。今日、カッちゃんと山に行ったら変な影を見たとか、そんなこと。子どもたちって、ほら。そういうところ羨ましくなるくらい純粋でしょう。一人が見たって言ったら、今度は四人が見る。それで四人が見たとなったら、もうみんなが見たようなものです。あっという間に恐さは膨れ上がって、そんなときに、誰かがきっと言ったんでしょうね。虫に吹き込めば、それごと空に浚っていってくれる、って。

 怖い話を聞くとね、人はその対抗策を考えたがるものですから。口裂け女にはポマードだとか、カシマレイコが来たら、だとか。何となく僕の感覚で言うと、ああいう対抗策は僕らみたいなのが面白がって考えてるんだと思うんですが、広めるのは本当にそういうのが怖い人たちなんでしょうね。こんなに便利なものはない、と思って、親切心で周りに広める。あっという間に、一つの風習の出来上がりです。

 この『恐れ虫』の風習が、どうにも江戸くらいに入ってから、百物語と融合したらしいんです。つまりね、普通の百物語は、百本の蝋燭を立てて、肝試しみたいに消していくわけじゃないですか。それが、この『恐れ虫』を使ったものでは、逆なんです。怖い話をどんどん虫に吸ってもらって、どこかへ悪いものと一緒に持っていってもらうんですよ。

 僕らもこんなことしてると、なかなか日常生活で変な目に遭ったりするでしょう。お金をかけてお祓いなんかに行ったりすることもあるんじゃないですか? 百物語も百本目を吹き消すと、とうとう本物の怪がやってくるなんて話もある。そこでこの『恐れ虫』の話を聞いたときには、ちょうどいいと思ったんです。

 この夏までに背負い込んでしまった悪いものを吐き出して、オオミズアオに月まで供養に持って行ってもらおうじゃないかって。



「まあ、そんなところだな」

 煙を吐きながら、回蔵は言った。

「『恐れ虫』の話はネットには載ってねえんだ。ものすごく古い、大学図書館にしか置いてねえような民俗研究の本に書かれてるくらい。あの狐面のお姉ちゃんが、事前に現地入りして調べたってわけじゃないなら、本物の透視屋ってことになる。相当のもんだぜ。昔は東京帝国大学のお偉いセンセが真剣に研究してたりもしてたんだ」

「ここに来てから調べていたのかもしれませんよ」

「それはないな。驚かせるために、オオミズアオのことは旅館側にも口止めをしてた。搬入も一人でやったはずだし、もしありうるなら、単にあらかじめ今尾と仕込みを済ませてた、ってくらいしかない」

 ちらり、と横目で回蔵は新波を見る。けれどその表情は、当然狸面に覆い隠されている。

「……いや、なかなか面白いのが出てきたな、と思っただけさ。手品にしても手際がいい。一発限りじゃないって言うなら、すぐにそれなりのポジションに上るかもな。俺は動画配信の方は専門じゃないから知らないけどよ、あのビジュアルであの話し方、それでああいう内容ができるなら、少なくとも対面したやつらの二十人に一人はファンになるんじゃねえの」

 ん?と首を傾げて、

「俺は何の話をしてんだ? あ、いや。そうか。訊きたかったのは別のことか」

 すう、と細く煙を吐いて、指の間に煙草を挟んで、不意にその手を下ろす。白煙が弧を描いて、夜の中に薄れていく。

「もし、答えられたらでいいんだけどよ」

「なんでしょう」

「あの繭、何か変な感じがしねえか?」

「変な感じ、ですか」

 今度は、首を傾げたのは新波の方だった。

 それまでの回蔵の言うことは、あまり動揺なく聞けていた。あらかじめ、頬澄が「自分は手品師だ」という趣旨のことを言うのを聞いていたから。だから、綺麗に手品は成功して、綺麗にそれに騙されてくれた人間がいるのだと、頬澄の行うイメージ戦略はかなりのものらしいと、そのくらいを理解した程度でしかなかった。どんな手品の種だったのかは知らないが、後でこの地を後にしてから訊けば、きっと教えてくれるだろう。

 しかし。

 今、回蔵が言っていることは、もう頬澄とは関係のないことのように思えた。

「いや、俺も別にそういうのを感じる方ってわけじゃあねえんだが。どうもあの繭、なんだか嫌な気配がするっていうか……」バリバリ、と勢いよく髪を掻いた。「何言ってんだ俺は。忘れてくれ」

 先に戻るぜ、と回蔵は携帯灰皿に煙草を押し付けて火を消すと、『羽の間』へと戻っていく。

 嫌な気配?

 その背中を見つめながら、新波はその言葉の指すところを、考えていた。 



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